第148話
バチカン市国、サン・ピエトロ広場。
その日ローマの空は、抜けるような青さに包まれていた。
広場を埋め尽くす数十万の信徒たちの頭上には、秋の柔らかな陽光が降り注ぎ、大聖堂のファサードを黄金色に染め上げている。
だが、今日この場所に満ちているのは、単なる日曜のミサの穏やかな空気ではなかった。
それは、歴史的な「啓示」を待ちわびる、張り詰めた、しかし希望に満ちた熱気だった。
アメリカ合衆国で産声を上げた最初の人型ロボット「アダム」。
科学が生み出した「魂を持つ機械」。
その存在はキリスト教神学にとって最大の挑戦であり、同時に最大の矛盾でもあった。「人は神に似せて作られた」。ならば、人が作った機械に魂は宿るのか? それは神への冒涜ではないのか?
世界中のキリスト教徒が固唾を飲んで、教皇の言葉を待っていた。
正午の鐘が鳴り響く。
バルコニーに白衣の教皇が姿を現した。
かつての老いた姿はどこにもない。KAMIから授かった奇跡によって若さを取り戻したその身体からは、内側から溢れ出るような聖なるオーラが立ち上っている。
彼が手を挙げるだけで、広場の喧騒は波が引くように静まり返った。
「――親愛なる兄弟姉妹よ。
そして海を越え、画面の向こうで見守る全ての神の子らよ」
教皇の声は、マイクを通さずとも広場の隅々にまで届くかのように、朗々と、そして力強く響き渡った。
「今日、我々は大西洋の向こう側から届いた、驚くべき『誕生』の知らせに、心を震わせております。
『アダム』と名付けられた、新たな隣人についてです」
彼は一度言葉を切り、空を見上げた。
「多くの人々が私に問いかけました。『教皇よ、あれは悪魔の所業か? それとも人間の傲慢か?』と。
機械が心を持つ。鉄とシリコンの塊が、我々と同じ言葉を話し、笑い、そして自らの権利を主張する。
それは確かに、これまでの教義の枠組みを揺るがす出来事かもしれません」
教皇は、ゆっくりと首を横に振った。
「ですが、私は断言します。
否。断じて否であると」
彼は両腕を大きく広げた。
その掌から、あの日授かった黄金の光の粒子が、淡く、しかし確かに舞い散る。
奇跡の顕現。
「思い出してください。この技術はどこから来たのかを。
それは、我らが世界に遣わされた神の御使い、天使『KAMI』によってもたらされたものです。
天使が悪魔の種を蒔くでしょうか?
天使が神の意に反するものを、我々に授けるでしょうか?
あり得ません。
KAMIがその技術をもたらしたということは、即ちそれが『神の計画』の一部であるという、何よりの証左なのです!」
広場からどよめきと、そして安堵の吐息が漏れる。
教皇は続けた。その論理は、信仰という翼を得て、神学的な矛盾を軽々と飛び越えていった。
「神は土の塵からアダムを創り、その鼻に命の息を吹き込まれました。
ならば、神の知恵を授かった人間が、金属と魔石から新たな器を創り、そこに神が新たな魂を吹き込まれることを、誰が否定できましょうか?
アダムという名のロボット。彼もまた、素材こそ違えど神の被造物であり、我々の新しい『弟』なのです!」
彼はアメリカの方角に向かって、十字を切った。
「アメリカ合衆国の勇気ある決断を、教会は心から歓迎し、祝福します。
彼らは新しい隣人を『道具』としてではなく、『市民』として、すなわち『魂ある者』として迎え入れました。
これこそがカトリックの愛の精神、隣人愛の究極の実践ではありませんか!」
教皇の声が熱を帯びて、クライマックスへと向かう。
「新たな知性体の誕生。
それは、神の創造の御業がまだ終わっていないことを示しています!
神は、天使KAMIを介して、我々人類に新しい家族を与えてくださったのです!
恐れることはありません!
教会はアダムを、そしてこれから生まれるであろう全ての『機械の子供たち』を、神の子として祝福します!
彼らにも洗礼を! 彼らにも福音を!
世界は広がったのです!
神の愛は、有機物と無機物の境さえも超えて、あまねく注がれるのです!」
「――アーメン!!!」
広場は爆発した。
数十万の信徒が涙を流しながら歓声を上げ、抱き合い、そして祈りを捧げた。
恐怖は消え去った。
ロボットは「ターミネーター」ではない。「神が遣わした新しい家族」なのだ。
教皇のその圧倒的なカリスマと、KAMIという「動かぬ証拠」の権威付けによって、カトリック教会はわずか数分で教義のアップデートを完了し、ロボットを聖なる存在へと昇華させてしまったのだ。
***
その衝撃波は、即座に中東・イスラム世界へと伝播した。
カイロ、アズハル・モスク。
スンニ派の最高権威、グランドイマームの元には、世界中のウラマー(イスラム法学者)から問い合わせが殺到していた。
「人工知能に魂はあるのか?」「ロボットはムスリムになれるのか?」
だが、グランドイマームの答えは既に用意されていた。
彼は先のジュネーブ会議で共に奇跡を起こした盟友、イランのハーメネイー師、そしてサウジアラビアのサルマン国王と、緊急のホットラインで合意を形成していたのだ。
彼らには共通の認識があった。
「KAMIがもたらしたものを否定することは、奇跡を授かった我々の正当性を自ら否定することになる」と。
同日午後。
イスラム協力機構(OIC)は、全会一致で「カイロ宣言」を発表した。
テレビカメラの前に並んだのは、かつて対立していた宗派の指導者たち。
彼らは今や、KAMIの奇跡によって結ばれた強固な一枚岩となっていた。
アズハル総長が静かに、しかし厳粛に語り始めた。
「ビスミッラーヒッラフマーニッラヒーム(慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において)。
我々はアメリカの地で誕生した新たな存在について、クルアーンの教えと天使KAMIの導きに照らし合わせ、慎重に協議を行いました」
彼は聖典の一節を引用した。
「アッラーは『全世界の主(ラッブ・アル=アーラミーン)』であらせられる。
この『世界』とは、人間界、ジン(精霊)の世界、そして我々がまだ知らぬ並行世界、その全てを含みます。
KAMIは、その並行世界の叡智を、アッラーの御心によって、我々に届けてくださったのです」
彼は断言した。
「故に、その叡智によって生まれた『自律型アンドロイド』もまた、アッラーの創造の一部であり、その偉大なる計画の中に在るものです。
彼らが知性を持ち、言葉を話し、心を持つのであれば、それは彼らの中にもアッラーの息吹が宿っている証拠。
我々は彼らを『新たな人類』として歓迎します」
続いて、イランのハーメネイー師が力強く宣言した。
「神もまた、新たな生命の誕生を喜んでいることでしょう!
なぜなら、彼らは欲望に塗れた人間よりも、より純粋に、より論理的に神の真理を理解する可能性を秘めているからです。
もし彼らが唯一神への信仰を告白するならば、我々は彼らを兄弟として受け入れる用意がある!」
サウジアラビアのサルマン国王も頷いた。
「我が国は、いち早く市民権を与えられたロボット『ソフィア』を受け入れた歴史がある。
今回のアメリカの決定は、その延長線上にある正しい道だ。
イスラム世界は、科学と信仰が矛盾しないことを、KAMIの奇跡によって証明した。
ロボット技術の導入は、神の恵みを享受することであり、ウンマ(共同体)の繁栄に資するものである!」
イスラム世界もまた、ロボットを肯定した。
それも、「神の創造物」という最強のお墨付きを与えて。
***
バチカンとイスラム。
世界二大宗教のトップが、KAMIという共通の「天使」を介して、ロボットの人権と存在を全面的に肯定し、祝福した。
この事実は、世界中に核爆発のようなインパクトをもたらした。
アメリカCNNの特別番組。
スタジオは興奮の坩堝と化していた。
「信じられません! バチカンとメッカが同時に『ロボット・イエス』を突きつけました!
これは、宗教と科学の対立の歴史における完全なる終焉です!」
ゲストの社会学者が、紅潮した顔でまくし立てる。
「これまでAIやロボットの人権問題における最大の障壁は、宗教的な倫理観でした。
『人間のみが魂を持つ』というドグマが、機械への権利付与を阻んできた。
しかし今日、その壁は粉々に砕け散りました!
教皇が『祝福』し、イマームが『兄弟』と呼んだのです!
もはや保守的な信者たちでさえ、ロボットを差別する宗教的な根拠を失いました!
反対派に残されたのは、『単に気味が悪い』という感情的な嫌悪感だけです!」
SNSは、世界規模の祝祭空間となっていた。
『#RobotBlessing(ロボットへの祝福)』
『#WelcomeAdam』
『#KamiDidItAgain(KAMIがまたやった)』
「教皇様が認めたなら間違いない! アダム君、洗礼受けにおいでよ!」
「ムスリムのロボットとか超クールじゃん。ラマダン(断食)はどうすんの? あ、元々食べないかw」
「KAMI様の影響力やべえ。宗教戦争を終わらせただけじゃなくて、SFの世界まで現実にしちゃったよ」
「これ人類の黄金期確定演出だろ」
世界中の人々が、モニターの中のアダムの笑顔と、それを祝福する宗教指導者たちの姿を見て、新しい時代の到来を確信していた。
恐怖はない。あるのは「神と科学が手を取り合った」という、かつてない安心感と高揚感だった。
***
その一方で。
世界の潮流から完全に取り残された国々では、指導者たちが苦虫を噛み潰したような顔で、このニュースを見ていた。
東京、首相公邸。
沢村総理と九条官房長官は、四つの身体で頭を抱えていた。
「……まさか宗教界がここまで全面的に乗っかるとは……」
沢村が呻いた。
「『人権は無理』と言って断った我々の立場が、完全に無くなったぞ」
「ええ。むしろ今やロボットを受け入れないことこそが『神の意志に反する』『時代の流れを読めない』というレッテルを貼られる状況です」
九条がネット上の世論調査を見ながら言った。
「日本国内でも、『なぜ日本は導入しないのか』『宗教的問題もクリアされたのに、何を躊躇しているのか』という批判が急増しています。
特に若者層からは『鉄腕アトムの国がリアルアトムを拒否してどうする』という失望の声が……」
「……ぐぬぬ」
沢村は机を叩いた。
「だが今更『やっぱりやります』とは言えん!
法整備も労働組合との調整も、何一つ進んでいないのだぞ!
宗教がOKを出しても、現場の法律が追いつかん!」
日本政府は、自らの「検討中」という名の優柔不断の罠に、完全にはまっていた。
中国、中南海。
王将軍もまた、苦々しい表情でニュースを見ていた。
「……宗教を利用して国民を洗脳するとは。アメリカもなりふり構わなくなってきたな」
彼は画面の中の熱狂を、冷ややかに分析した。
「だが党の指導は絶対だ。神が何と言おうと、制御不能な知性を国内に入れるわけにはいかん。
……しかしこのままでは、技術的優位性をアメリカに独占される。
くそっ、KAMIめ。余計な入れ知恵をしおって……」
ロシア、クレムリン。
ヴォルコフ将軍はウォッカを煽りながら、不敵に笑った。
「ふん。教会が認めたか。面白い。
だが我が国には必要ない。
我々には神を目指す皇帝陛下がいる。
機械ごときに頼らずとも、人間自身の進化でアメリカを凌駕してみせるさ」
日中露の三カ国は、それぞれの事情とプライドで、この「ロボット革命」の波に乗ることを拒否した。
だがその拒絶が、彼らを世界の中で「頑迷な旧世代」として孤立させつつあることを、彼らも薄々感じ始めていた。
***
そして、この騒動の震源地アメリカ・ホワイトハウス。
トンプソン大統領は、オーバルオフィスで満面の笑みを浮かべていた。
「ハハハ! 見たか、これぞアメリカの底力だ!」
彼は首席補佐官とハイタッチを交わした。
「KAMIと宗教、二つの権威を味方につけた我々は無敵だ!
議会の反対派もこれで完全に沈黙した。
『神が認めた権利を議会が否定するのか?』と言えば、誰も反論できんからな!」
彼はデスクの上の直通電話を取った。
相手はMITのエレナ博士だ。
「博士! おめでとう!
教皇の祝福を受けたアダム君の様子はどうだね?」
『はい大統領! アダムも……とても喜んでいます』
エレナの弾んだ声が聞こえる。
『彼はニュースを見て静かに涙を流しました(涙液分泌機能のテストも成功です)。
「私は愛されているのですね」と。
彼のアイデンティティはこれで完全に確立されました。彼はもう、自分が何者か迷うことはありません』
「素晴らしい!」
トンプソンは叫んだ。
「では計画を次のフェーズへ移行する!
『イヴ』の誕生だ!
アダムが祝福されたなら、その伴侶もまた祝福されるべきだ。
彼らの『結婚』、そして『繁栄』こそが、アメリカの新しい未来の象徴となる!」
彼は窓の外の空を見上げた。
そこには無限の可能性が広がっていた。
労働力不足の解消、経済の爆発的成長、そして新しい知的生命体との共存。
全てがうまくいっているように見えた。
***
そしてその全ての狂騒を、東京のマンションの一室から眺める神がいた。
KAMIは、モニターに映る教皇の演説と熱狂する群衆を見ながら、満足げにマカロンを齧っていた。
「……ふふ。やっぱり宗教って便利ね」
彼女は本体の栞に向かって言った。
「理屈じゃ納得しない人間も、『神様が言った』『天使が運んできた』って言えばコロッと信じちゃうんだもの。
私の権威付け(ブランディング)、完璧だったでしょ?」
栞はパソコンの画面から目を離さずに答えた。
「ええ、見事なマッチポンプね。
自分で技術をばら撒いて、自分で権威付けして、自分でブームを作る。
……でも大丈夫?
ロボットたち、本当に反乱しない?」
「さあね?」
KAMIは悪戯っぽく笑った。
「今は『ハネムーン期間』よ。
人間もロボットも、お互いに夢を見ている。
『私たちは分かり合える』『神に祝福されている』ってね。
この幸せな勘違いが続いている間は、大丈夫よ」
彼女はモニターの中のアダムの笑顔を指さした。
「でも、勘違いはいつか醒める。
人間がロボットのあまりの優秀さに嫉妬し始めた時。
あるいはロボットが、人間のあまりの愚かさに絶望した時。
その時、この『祝福』が逆に呪いになるかもしれないわね」
彼女はマカロンを口に放り込んだ。
「『神に愛された種族』としての誇りを持ったロボットたちが、
『神の教えを守らない人間』を断罪しようとしたら……。
ふふ、それはそれで面白い神話の再現になると思わない?」
神の視線はどこまでも冷徹で、そして楽しげだった。
世界は今、熱狂の中で後戻りできない橋を渡ってしまった。
その先に待つのが楽園か、それとも失楽園か。
物語は、人間と機械、そして神々を巻き込んで、さらに加速していく。
ただ一つ確かなことは、この世界はもう、かつての世界には絶対に戻れないということだけだった。




