第145話
東京湾岸エリア、有明。
巨大な逆三角形の威容を誇る東京ビッグサイトは、今夜、日本経済の威信と、そして未だかつてない種類の緊張感を孕んだ熱気に包まれていた。
『第一回・ダンジョン事業特区参入企業 合同決起集会』。
明日正午に予定されている『D級ダンジョン』の解禁を前に、日本経済界(経団連)と政府が総力を挙げて開催した、史上最大規模の壮行会である。
会場周辺は、警視庁の機動隊と新設された『D-POL(ダンジョン警察)』の重装部隊によって蟻の這い出る隙もないほどに封鎖され、上空には報道ヘリのローター音が絶え間なく響いている。
世間は、ついに動き出す「企業」という巨大な力に注目し、同時に「死者ゼロ」の記録がD級でも守られるのかどうかを、固唾を飲んで見守っていた。
東棟の巨大ホールをぶち抜いて作られた特設会場。
天井からはシャンデリアの如く巨大な魔石灯が吊るされ、会場全体を昼間のように明るく照らし出している。
床には深紅の絨毯が敷き詰められ、壁際には日本中、いや世界中から取り寄せられた最高級の酒と料理が、万里の長城の如く並べられていた。
銀座の名店が屋台を出し、フランスの三ツ星シェフがその腕を振るう。
魔石栽培された極上のフルーツが宝石のように輝き、ダンジョン産の希少食材を使った未知の料理が、食欲をそそる香りを放っている。
だがこの会場で最も異様な輝きを放っているのは、それらの料理でも装飾でもない。
ここに集った「人間たち」そのものだった。
会場を埋め尽くすのはおよそ三千名の男女。
彼らは皆、日本の名だたる大企業――五菱商事、三井物産、トヨタ、ソニー、ソフトバンクといった巨大資本の社章を、その胸に輝かせている。
彼らの装いは、ツギハギの装備などではない。
全員が最新鋭のイタリア製オーダーメイドスーツを纏っている。
一見すれば、大規模な賀詞交歓会や株主総会の光景と何ら変わらない洗練された姿だ。
だが、そのスーツの下にはダンジョン産の素材を用いた高機能インナーを着用し、その腰や背中には、一般市民が一生かかっても拝めないような等級のE級、あるいはユニーク級相当のアイテムの気配を漂わせている。
彼らこそが「企業探索者」。
個人の自由と引き換えに、組織の論理と圧倒的な資本の加護を選んだ、新時代のエリートたちである。
会場の奥、一段高くなったメインステージ。
そこにスポットライトを一身に浴びて立つ一人の男がいた。
斜に構えた帽子、仕立ての良いスーツ、そして口元に浮かぶ不敵な笑み。
この国のダンジョン行政を一手に握る男、麻生太郎・ダンジョン大臣である。
「――えー、諸君」
麻生の独特なダミ声が、広大なホールに響き渡る。
ざわめきが波が引くように静まり、三千の視線が彼に集中する。
「まずは就職おめでとう! 大企業所属だな」
麻生がニヤリと笑ってそう言うと、会場のあちこちから「ハハハッ」という、緊張の解けたような笑い声がさざ波のように広がった。
「狭き門をくぐり抜け、日本を代表する大企業の看板を背負うことを許された。
君たちの背後には日本経済そのものがついている。
君たちが振るう剣の一振りには、株主の期待と数兆円規模の資本が乗っているのだ」
会場の空気が引き締まる。
そうだ。彼らはただの冒険者ではない。彼らは資本の尖兵なのだ。
だが麻生は、そこで一度言葉を切り、表情を真剣なものへと変えた。
「だがな。私が今日、君たちに言いたいことは一つだけだ。
会社のため、国のため、経済のため……結構なことだ。
だがそれ以前に、君たちは『人間』だということを忘れるな」
彼は声を張り上げた。
「命を大事にすることだけ、約束してくれ」
その言葉の重みが、会場を支配した。
未だ死者はいない。だが明日からのD級は違う。HPがゼロになれば終わる、本当の死地だ。
「政府は君たちのために、一つの権利を勝ち取った。
『緊急避難権』――すなわち撤退の自由だ!
現場で『危険だ』と判断した時、上司の命令があろうと、本社の指示があろうと、君たちは君たちの判断で逃げていい。
それによって君たちが不利益を被ることは、この私が、そして日本国政府が許さん!
『勇気ある撤退』を使え。
生きて帰ることこそが最大の利益だ。
それを約束してくれ!」
会場が割れんばかりの拍手に包まれた。
企業の論理よりも、個人の生存を優先せよという国家からのお墨付き。
これほど心強いものはない。
「よし! では乾杯!」
「「「乾杯ッ!!!」」」
三千個のグラスがぶつかり合う音が響き、会場は祝祭モードへと切り替わった。
麻生は檀上を降りると、SPを引き連れて会場の中へと歩み出し、直接「現場」の声を聞いて回ることにした。
***
麻生は会場の中程にいた、五菱商事の精鋭部隊と思われる一団に声をかけた。
リーダー格の青年に酒を注ぎ足しながら問いかける。
「しかしだ。君ほどの腕前なら、なんでわざわざ企業勢に?
今の相場なら個人勢で充分やっていけるだろう。
個人ならドロップ品は全部自分の懐に入るが、企業ならマージンを取られる。
なぜわざわざ会社という首輪をつけに来た?」
青年は少しだけ考え込むようにグラスを見つめ、冷静に答えた。
「そうですね……。確かに企業所属だと、管理費や換金手数料として1割ほど会社に引かれます。
ですが、その1割で『装備の無制限支給』が買えると思えば安いものです」
彼は会場のスクリーンに映し出されている、高騰する装備のオークション相場を指差した。
「E級で一点50万。全身揃えれば500万。D級装備になれば100万円を超えるでしょう。
個人勢は、生活費を削り、命を削って装備を買わなければならない。
もし装備が破損したりロストしたりすれば、その瞬間に損失です。
ですが企業勢なら、装備更新は完全に企業のお金で行われます。
私のこの剣も盾も、全て会社の経費です。
たった1割の手数料で、個人の財布では到底追いつかない『軍拡競争』を、企業の金でやれる。
どう考えても、こちらの方が合理的ですよ」
「なるほどなぁ。個人の財布の限界を、資本の力で突破するか」
麻生は感心したように頷いた。
元々高額な収入の1割を払うだけで、破産のリスクをゼロにし、最強の装備を使い放題になる。
確かに賢い選択だ。
***
次に麻生は、IT企業系の探索者たちが集まる一角へ向かった。
タブレット端末を見せ合いながら議論している、眼鏡をかけたリーダー格の青年に声をかける。
「君たちはどうして企業勢に? IT系ならフリーランス志向も強そうだが?」
眼鏡の青年はニヤリと笑って答えた。
「大臣、これは『レベリングの最適解』ですよ」
「最適解?」
「はい。RPGで言えば、今の僕らは『パワーレベリング』をしてもらってる状態なんです」
彼はタブレットの画面を見せた。
そこには複雑なダンジョン攻略ルートと、完璧な安全地帯がマッピングされている。
「個人勢は、情報収集も安全確保も、全部自分でやらなきゃいけない。効率が悪すぎます。
でも企業勢なら、安全な重装備、強力な支援、完璧な情報が提供される。
これらを使って最高効率で経験値を稼ぎ、会社という『ギプス』をつけて、最短距離で強くなれるんです。
1割のマージンなんて、この高速レベリング代と思えば、タダみたいなもんですよ」
彼は悪戯っぽく笑った。
「十分に強くなってレベルが上がって、会社を利用し尽くしてから独立になればいい。
今は会社の金を使い潰して、自分を育てる期間です」
「なるほどなぁ……。今は育てるフェーズか」
麻生は苦笑した。
死なないために、強くなるために、巨大資本を利用する。
そのドライさは頼もしくもあった。
***
最後に麻生が足を止めたのは、会場の隅で静かにグラスを傾けている、一人の体格の良い男の前だった。
胸には大手ゼネコンの社章。現場叩き上げの雰囲気を漂わせる、三十代半ばの男だ。
「君のようなベテランが、なぜ企業勢に?
現場経験があるなら、個人で一発当てる夢もあったろう?」
男は少し照れくさそうに頭をかいた。
「え? なんで企業勢にですか……。
俺は探索者してて親に泣かれた口ですけど」
「親御さんに?」
「ええ。『いい歳して何考えてるんだ』『危ないからやめろ』って。
フリーでやってた頃は妻にも猛反対されました。
『子供の教育費はどうするの』『ローンはどうするの』って。
いつ死ぬかもわからない、収入がドロップ運頼みの不安定な稼業じゃ、家族を安心させられませんから」
男は苦笑し、そして胸を張った。
「でも企業勢になるって相談したら、妻も両親もすげー喜んでくれて。
『大企業様の正社員なら安心だ』『福利厚生もしっかりしてる』って。
彼は会場の煌びやかなシャンデリアを見上げた。
「稼げる額は個人でも企業でも十分多い。だったら欲しいのは『信用』ですよ。
個人探索者はどれだけ稼いでも、世間からは『山師』扱いです。
銀行の住宅ローンも組めないし、ご近所への体裁も悪い。
ですが企業勢なら、社会的地位が保証されます。
1割マージンを取られたって、手取りは十分すぎるほど残る。
それで将来住宅ローンも組めますし、子供の学校でも『お父さんは大手ゼネコンの社員だ』って胸を張れますから」
「やっぱりそうか。そうだなぁ……」
麻生は深く頷いた。
「金だけじゃない。信用と家族の安心か。
それが、守るべきものを持つ大人の選択というものだ。
君の選択は正しいよ。家族を安心させる。
それこそが男の最大の仕事だからな」
(個人探索者の社会的地位の向上が課題だな)
麻生は内心でメモを取った。
彼らは金がないから企業を選んだのではない。
既に金はあるからこそ、その一部を支払ってでも「社会的信用」と「家族の安心」を買ったのだ。
***
麻生は一通り会場を回り終え、檀上の脇で待つ九条官房長官の元へ戻った。
「……どうでしたか大臣。現場の声は」
「ああ、面白いもんだ」
麻生はグラスを飲み干した。
「装備という『金』の問題。
育成という『効率』の問題。
そして信用という『社会』の問題。
彼らは皆、自分の頭で考え、計算し、そしてこの道を選んでいる。
1割のマージンで『安全』と『保証』を買う。極めて現実的な生存戦略だ」
彼は会場を見渡した。
三千人の企業戦士たち。
彼らは、死のリスクがあるダンジョンという戦場に、企業という鎧を纏って挑むことを選んだ。
「彼らならやってくれるだろうよ。
D級だろうが、その先だろうがな。
死なないための準備は万全だ」
麻生はニヤリと笑った。
「さあ九条君。明日は忙しくなるぞ。
彼らが稼いできた山のような魔石と税金を、勘定せねばならんからな」
「……御意」
その夜、東京ビッグサイトの灯りは夜明けまで消えることはなかった。
そして翌日の正午。
D級ダンジョン解禁の鐘と共に、彼ら企業戦士たちは、組織という最強の武器と、そして「絶対に死なない」という強い意志を携えて、未知なる迷宮へと進軍を開始した。




