第142話
東京・永田町。
経済連との「特区参入」に関する大枠の合意形成から数日。
舞台は再び、官邸の地下深くに設けられた危機管理センターの特別会議室へと移っていた。
今回の会議は、前回の「参入するか否か」という経営判断のレベルではない。
「参入するならば、具体的にどのようなルール(レギュレーション)で運用するのか」という、極めて実務的で、そしてそれゆえに互いの利害が最も鋭く衝突する制度設計の最終調整の場であった。
テーブルの片側には、麻生ダンジョン大臣、九条官房長官、そして沢村総理の四つの身体(本体と分身)が、鉄壁の布陣で座している。
彼らの前には、霞が関の総力を挙げて作成された、電話帳のような厚さの法案要綱が積まれている。
対する側には、三田村会長率いる経済連の代表団。
彼らの背後には、各企業の法務担当役員やリスク管理のスペシャリストたちが、ぎらついた目で控えていた。
空気は重い。
KAMIの「C級までは死なない(システム的には)」という言質を得て、企業側の参入意欲は最高潮に達している。
だが政府側には、譲れない一線があった。
それは「企業の論理による人命の使い捨て」を、いかにして防ぐかという点である。
「――では、詳細設計の協議に入ります」
麻生大臣が、いつもの不敵な笑みを消し、事務的な口調で切り出した。
彼は手元の資料を広げ、その第一条項を指し示した。
「まず、企業のダンジョン事業参入における『指揮命令系統』の明確化についてです。
企業が社員、あるいは契約探索者を組織的にダンジョンへ送り込む場合、そこには必ず『指揮官』、あるいは『現場監督』が存在することになる。
本社からの無線指示であれ、現場同行のリーダーであれ、彼らの判断が部隊の生死を分けることになります」
麻生は、経済連のメンバーを鋭く見据えた。
「単刀直入に言いましょう。
我々は、ダンジョンに関する知識も経験もない素人の管理職が、オフィスでコーヒーを飲みながら『行け』『戦え』と現場に無謀な命令を下すような事態を、最も懸念しております」
その言葉に、企業側の一部の役員が苦々しい顔をした。
図星なのだろう。
「そこで」
隣の九条が、具体的な提案をスクリーンに投影した。
「政府としては、以下の資格制度の導入を、参入の絶対条件とさせていただきます。
名称は『ダンジョン業務監督者(ダンジョン・オペレーション・スーパーバイザー)』資格」
スクリーンに、そのあまりにも厳格で、そして複雑な資格要件が表示される。
「E級以上のダンジョンにおいて、企業組織として探索活動を行う場合、現場指揮または遠隔指揮を行う者は、必ずこの国家資格を保有していなければなりません。
無資格者による指揮命令は、一切これを認めません」
九条は淡々と、その要件を読み上げた。
「この資格を取得するためには、以下のカリキュラムを修了し、国家試験に合格する必要があります。
・ダンジョン生態学概論(100時間)
・魔導工学基礎および応用(150時間)
・ダンジョン危機管理論(80時間)
・探索者心理学およびメンタルヘルスケア(50時間)
・実地研修(F級ダンジョンでの引率経験10回以上)」
さらに、その階級は細分化されていた。
「上記は、E級ダンジョン指揮のための『第三種監督者』の要件です。
今後開放されるD級ダンジョンでの指揮には、さらに上位の『第二種』資格が必要となります。
C級に至っては『第一種』とし、これには現役探索者としての一定のランク(レベル)も要件に加えます」
そして、とどめの一撃。
「なお、ダンジョンの環境は日々変化します。
よって本資格は『半年ごとの更新』を必須とし、更新時には最新の講習受講と再試験を義務付けます。
一度取れば一生有効、などという甘い資格ではありません」
そのあまりにも重厚長大で、そして官僚主義の極みのような制度案。
説明が終わった瞬間、会議室は凍りついた。
数秒の沈黙の後、経済連側から悲鳴のような反論が噴出した。
「……正気ですか!?」
五菱商事の権藤社長が、顔を紅潮させて立ち上がった。
「こんな……こんな悠長なことをやっていられると思っているのですか!
講習だけで数百時間? 実地研修? 試験?
これをクリアする人材を育成するのに、一体どれだけの時間がかかると想定しているのです!」
「最短でも半年。通常業務と並行すれば、一年はかかるでしょうな」
麻生は涼しい顔で答えた。
「人の命を預かる仕事です。医師やパイロットと同じく、それくらいの専門性は当然必要でしょう」
「一年後!?」
三田村会長が絶句した。
「麻生大臣、あなたはニュースを見ていないのですか!
KAMI様は先日、『D級ダンジョンの開放は来週にも行う』と仰ったのですよ!?
来週ですぞ! 来年ではない!」
三田村は、スクリーンに映る「D級・第二種資格」の項目を指さして震えた。
「すでにD級が目の前まで来ているのに、その指揮官を育てるのに一年かかると仰る!
それでは我々がD級に参入できるのは一年後ということになります!
到底間に合いません!」
「その通りです!」
他の企業トップたちも口々に叫んだ。
「スピード感が命のビジネスにおいて、一年という遅れは致命的です!」
「ただでさえアメリカの『キャピタル・ギルド』や中国の『青龍』は、国の全面バックアップを受けて、すでに組織的な攻略体制を完成させています!
彼らは資格などという足枷なしに、来週にもD級へ雪崩れ込むでしょう!」
「日本企業だけが指をくわえて見ている間に、世界の資源は彼らに独占されてしまいます!
これ以上の遅れは国際競争力の喪失を意味する! 到底許容できません!」
企業側の主張は、経済合理性の観点からは正論だった。
だが政府側も引かない。
「遅れが許されないからといって、安全を犠牲にはできません」
沢村総理が、静かに諭すように言った。
「あなた方は『KAMI様が死なないと言ったから大丈夫だ』と仰る。
だがKAMI様は同時にこうも仰った。『人間の馬鹿までは計算できない』と。
無能な指揮官がパニックを起こし、適切な撤退指示を出さなかったせいで、社員たちがモンスターの群れの中で永遠に殴られ続け死ぬ……。
そんな事態を防ぐための、最低限の防波堤がこの資格なのです」
議論は平行線を辿った。
「安全のための規制」対「競争のためのスピード」。
永遠の課題だ。
ここで三田村会長が、少し目先を変えた提案をしてきた。
彼は政府案の中にあった、もう一つの項目に注目した。
「……分かりました。資格の話は一旦置きましょう。
ですがこちらの要件。『ダンジョンに入る前に、装備とダンジョン探索者のステータスデータを提出』。
これを義務付けるという点についてはいかがお考えですか?」
九条が頷く。
「はい。それも本法案の柱です。
企業が派遣する探索者全員の、現在のレベル、ステータス、スキル構成、そして装備品のリスト。
これらをダンジョン入構前に、必ず国に提出していただきます。
装備が不十分な者を、危険な階層に送り込んでいないか、我々が事前にチェックするためです」
「ふーむ……」
三田村は顎を撫でた。
「それについては、我々としても異存はありません。
むしろこちらから提案しようと思っていたくらいです」
「ほう? 企業秘密の開示になりますが、よろしいのですか?」
麻生が意外そうに眉を上げた。
「ええ。社員のデータを国が管理してくれるというのは、我々にとってもリスクヘッジになりますからな」
三田村は、計算高い笑みを浮かべた。
「万が一事故が起きた際、『国に提出し受理された装備で挑ませた』という事実は、企業の安全配慮義務違反を問われた際の強力な免罪符になります。
それに、社員が装備を持ち逃げしたり、不正な横流しをしたりするのを防ぐ意味でも、国のデータベースに登録されるのは都合が良い」
「なるほど、ちゃっかりしてますな」
麻生は苦笑した。
「では、データ提出義務化については合意、ということでよろしいですね」
「はい。そこは飲みましょう」
三田村は頷き、そして一気に攻勢に転じた。
「ですが! やはり監督者資格については、納得がいきません!」
彼は熱弁を振るった。
「総理、考えてもみてください。
もしこの資格制度を強行し、来週のD級解禁に『有資格者がいない』という理由で、企業の指揮官を現場から排除したとしましょう。
その時、現場で何が起きると思いますか?」
「……何が起きると?」
「『リーダー不在』の探索です!」
三田村は断言した。
「企業は社員を送り込みます。これはもう決定事項です。投資も済んでいますから、止まりません。
ですが指揮官が同行できないとなれば、現場の社員たちはどうなるか。
誰の指示も受けず、個々人の判断で、あるいは急造の頼りないリーダーの元で、危険なダンジョンを彷徨うことになるのです!」
彼は畳み掛けた。
「それこそが、最も危険な状態ではありませんか!?
統制の取れていない烏合の衆。パニックになった時に、誰も収拾をつけられない。
『撤退』の判断を誰が下すのか。誰が責任を取るのか。
従業員全員に高度な判断力を求め、そのリスクを彼ら個人に負わせる結果になる!
それは政府が目指す『安全』とは、真逆の結果を招くのではありませんか!」
その指摘は、痛いところを突いていた。
指揮官を排除すれば安全になるわけではない。
むしろ無秩序な突撃を誘発する可能性がある。
「無資格の指揮官」と「指揮官不在」。どちらがマシかという、究極の二択。
「ぐぬぬ……」
九条が呻いた。
「確かにおっしゃる通り……。
現場の混乱は避けられないか……」
「でしょう!」
権藤社長が追撃する。
「それに、我々の現場監督たちは資格こそありませんが、元自衛官や海外のPMC経験者など、実戦経験豊富なプロを雇っています!
机上の空論の講習を受けただけのペーパー・ドライバーより、よほど現場を知っている!
彼らの指揮権を剥奪するなど、愚の骨頂です!」
「しかし……!」
麻生も食い下がる。
「その『プロ』たちが、企業の利益のために無理な進軍を命じることを、我々は恐れているのだ!」
議論は再び膠着した。
資格が必要だという政府の「建前(安全)」と、間に合わないという企業の「本音(利益)」。
そしてその狭間で揺れる現場の安全性。
長い沈黙が流れた。
時計の針だけが無慈悲に進んでいく。
D級解禁までのカウントダウンは止まらない。
「……分かりました」
沈黙を破ったのは、沢村総理だった。
彼は覚悟を決めた表情で、経済連の面々を見据えた。
「三田村会長のおっしゃるリスク、理解しました。
指揮系統の不在による混乱は、確かに避けねばならない。
そして、国際競争に遅れを取るわけにもいかないという事情も、痛いほど分かります」
彼は大きく息を吸った。
「政府は譲歩しましょう。
『ダンジョン業務監督者』資格の義務化は、今回は見送ります。
来週からのD級探索において、企業が独自の基準で選定した指揮官による指揮を認めます」
「おお……!」
経済連側から歓喜の声が上がる。
だが沢村は即座に右手を上げ、その声を制した。
「ただし!」
その声は、氷のように冷たく、そして鋭かった。
「条件があります。
これだけは絶対に譲れない、最低限の、そして絶対の条件です」
「……条件とは?」
三田村が身構える。
沢村は九条に目配せした。
九条が、あらかじめ用意していた「プランB」の資料を投影する。
そこには、たった一行の、しかし強烈な法的効力を持つ条文案が記されていた。
『――ダンジョン業務従事者の緊急避難権の絶対化』
「……これは?」
「簡単なことです」
九条が説明する。
「指揮官の指示に従う義務は認めます。
ですが現場の社員……探索者個人が『これ以上は危険だ』『死ぬかもしれない』と判断した場合。
彼らが独断で『撤退』『離脱』『帰還』を選択する権利を、絶対的に保証していただきます」
九条は、一人一人の経営者の目を見ながら続けた。
「もし社員が『危険だ』と判断して逃げ帰ってきた場合。
企業は、それを理由に解雇、減給、降格、その他いかなる不利益な処分も行ってはならない。
また、損害賠償を請求することもできない。
この『撤退の自由』を、労働契約の最上位に明記し、遵守することを確約していただきます」
それは、軍隊における「敵前逃亡」を権利として認めるに等しい内容だった。
企業の指揮命令系統を根本から揺るがしかねない劇薬。
「なっ……!」
権藤が絶句した。
「それでは指揮が成り立ちません!
『怖いから帰ります』がまかり通れば、作戦など遂行できるわけがない!」
「ならば!」
麻生大臣が、ドスを利かせた声で一喝した。
「社員が怖がらないような、完璧な安全対策と装備を用意すればいいだけの話だろうが!
社員が逃げ出すような危険な現場を作った企業の責任だ!」
沢村が静かに、しかし断固として告げた。
「これが我々の譲れない一線です。
指揮権は与える。だが、命の最終決定権は個人の手に残す。
この条件を飲めない企業には、特区への参入許可は出しません」
究極のバーター取引。
資格という「入り口の規制」を緩める代わりに、撤退権という「出口の保証」を最強にしたのだ。
三田村会長は腕を組み、目を閉じて計算した。
(……悪くない取引だ。
確かに現場の統制は難しくなる。臆病風に吹かれた社員が逃げ出すリスクはある。
だが、D級への即時参入という果実は、それを補って余りある。
それに『絶対に死なない』というKAMIの言葉が本当なら、実際に逃げ帰るような事態は、そうそう起きないはずだ。
ならばこの条件を飲んででも、権利を取るべきだ)
彼は目を開けた。
「……分かりました」
三田村は重々しく頷いた。
「経済連として、その条件を飲みましょう。
『従業員の撤退判断の絶対化』。これを各企業の就業規則に盛り込み、遵守することを誓約いたします」
「言質は取りましたぞ」
麻生がニヤリと笑った。
「もしこれを破って、逃げた社員をクビにしたなんて話が聞こえてきたら……。
その企業の特区認可は即時取り消し、さらに追徴課税で骨までしゃぶり尽くしてやりますからな」
「……肝に銘じます」
こうして、歴史的な合意は形成された。
日本政府は「資格」という理想の盾を捨て、「撤退権」という現実の剣を社員たちに与えた。
企業は「完全な指揮権」を失う代わりに、「即時参入」というチケットを手に入れた。
誰もが何かを譲り、何かを得た。
それが正しい選択だったのか、それとも破滅への妥協だったのか。
その答え合わせは、来週に迫ったD級ダンジョン解禁の日に、現場でなされることになる。
会議が終わり、経済連の面々が退出していく。
後に残された沢村と九条は、疲れ切った身体を椅子に預けた。
「……これでよかったのでしょうか」
九条の分身が、不安げに呟いた。
「現場の判断に委ねるというのは聞こえはいいですが、実際には同調圧力や空気で、逃げられない状況が生まれるかもしれません」
「ああ、そうだな」
沢村は天井を見上げた。
「日本人は真面目だからな。『みんなが頑張ってるのに自分だけ逃げるわけにはいかない』と、最後まで踏ん張ってしまうかもしれん。
だが……最後は信じるしかないよ。
彼らの『生きたい』という本能を」
麻生大臣が帰り支度をしながら言った。
「ま、もしブラックな現場があったら、すぐにタレ込みがあるさ。
今はSNSの時代だ。『死ぬかと思ったのに帰らせてくれなかった』なんて投稿一つで、株価は大暴落だ。
企業もそこまで馬鹿じゃない……と信じたいね」
彼らは知っていた。
どんなに精緻な制度を作っても、最後は人間の心の問題になることを。
そしてダンジョンという極限状況が、その心をどう変えてしまうのか、まだ誰も知らないことを。
眠らない夜は続く。
来週のD級解禁に向けて、日本の歯車は、きしみ音を立てながらも、確実に回転速度を上げていた。




