第138話
東京・大手町。
日本経済の中枢、経団連会館の最上階にある特別会議室は、この夜、国家の運命を左右する密室となっていた。
そこにいるのは、通常の「超党派会議」のような雑多なメンバーではない。
テーブルの片側に座るのは、日本経済を牛耳る財界の頂点、経済団体連合会(経団連)の会長、副会長、そして主要産業のトップたち。
対する側に座るのは、政府の最高意思決定者たち。沢村総理、九条官房長官、そして麻生ダンジョン大臣のみである。
これは公式の会議ではない。
メディアをシャットアウトし、議事録すら残さないことを前提とした、政財界の首脳による真の「裏取引」の場であった。
「――さて麻生大臣。先日の国会での議論、拝見しておりましたよ」
口火を切ったのは、経団連会長の三田村だった。彼は最高級のブランデーを揺らしながら、値踏みするような視線を麻生に向けた。
「『財政規律』。結構な言葉です。ですが、我々経済界が求めているのは、綺麗事の数字合わせではありません。
『実利』です。
この国が、ダンジョンという巨大な果実を前にして指をくわえて見ているだけで終わるのか、それとも世界をリードする覇権国家へと返り咲くのか。その瀬戸際なのです」
麻生は不敵に笑い返した。
「ふん。三田村会長。相変わらず欲が深くて安心しましたよ。
で? 今日は我々をこんな密室に呼び出して、一体何を吹っかけるおつもりですかな?
まさかまた『法人税をゼロにしろ』なんて寝言を言うわけではないでしょうな?」
「まさか」
三田村は首を横に振った。
「我々は現実的な提案を用意しました。
まず、喫緊の課題である『労働力不足』と『兼業』についてです」
彼は手元の資料を滑らせた。
「我々としても、ダンジョンで力を得た『スーパーマン』たちが通常の労働現場に戻ってくることは大歓迎です。
彼らが建設現場で鉄骨を運び、物流拠点で荷物を捌く。実に有意義ではありませんか。生産性は劇的に向上するでしょう。
ですが、彼らを呼び戻すには餌が必要です」
「当初、我々は給与所得の非課税化を求めましたが、これはやはり世論の批判を浴びるでしょう。あなた方が懸念する通りです。
また、彼らを雇用する企業への法人税減税。これも『金持ち優遇』と叩かれるのは目に見えている」
三田村は、政治家たちの顔色を伺いながら落とし所を提示した。
「そこで我々は妥協案を用意しました。
『探索者活動を経費として計上できる範囲の大幅な拡大』。
そして『副業禁止規定の撤廃義務化』。
この二点です。
これなら税制の根幹を揺るがすことなく、実質的な手取り増として彼らにアピールできる。
そして企業側としても、優秀な人材を繋ぎ止めるための制度として受け入れやすい。
……いかがですかな? これならベターな選択肢だと思われますが」
その提案に、麻生は九条と視線を交わした。
九条が微かに頷く。財務省の事務次官とも、水面下ですり合わせ済みのラインだ。
「……なるほど。ご意見ありがとうございます」
麻生は頷いた。
「その線であれば、我々としても飲むことは可能です。
『働き方改革』の延長線上として法案を通すことも、難しくはないでしょう。
……よろしいですな総理?」
「ああ」
沢村も同意した。
「兼業の推進は国策だ。その障壁を取り払うことには異存はない」
場の空気が緩んだ。
一つの大きな合意が形成された――かに見えた。
だが、三田村の目は笑っていなかった。
彼はここからが本番だと言わんばかりに、身を乗り出した。
「――ありがとうございます。では兼業の話はこれで決まりとしましょう。
ですが総理、麻生大臣。
今日、我々があなた方をお招きした真の目的はそこではありません」
彼は一枚の真新しい提案書を、テーブルの中央に叩きつけた。
その表紙には『本邦企業のダンジョン産業参入に関する提言書』と記されていた。
「経済連としては、この『兼業』のさらに先……
企業の『ダンジョン産業への直接参入』を、強く推奨したいのです!」
「……ダンジョン産業への参入だと?」
麻生の眉がピクリと動く。
「魔石の加工や装備の販売なら、すでにやっているだろう」
「いいえ、違います」
三田村は首を振った。
「周辺産業ではありません。本丸です。
すなわち――『探索』そのものです」
彼は熱弁を振るい始めた。
「今の段階では、ダンジョン探索者はあくまで『個人』です。独立した職業、あるいは個人事業主です。
彼らは自由に潜り、自由に稼ぎ、そして自由に死んでいく。
ですが、それでは限界があります!
個人の資金力、個人の装備、個人の情報網……。それらには超えられない壁があるのです!」
「我々は提案したい。
企業として、組織としてダンジョン探索をしていく。
社員を『探索業務従事者』として雇用し、会社の指揮命令系統の下で、組織的に、戦略的にダンジョンを攻略する。
これの規制緩和を検討、または法整備をして頂きたい!」
その言葉に、沢村の顔色がさっと変わった。
「……三田村会長。それはつまり、サラリーマンに『業務命令』として命がけのダンジョンに潜れと言うことかね?」
「その通りです」
三田村は、悪びれもせずに認めた。
「ですが、見返りは大きい。
企業がバックアップすれば、最新鋭の装備を支給できます。
衛生的なキャンプを設営し、組織的なローテーションを組むことで、安全性も飛躍的に向上する。
何より、個人では太刀打ちできない深層のボスモンスターも、企業の組織力なら攻略可能です!
これは、日本の国力を底上げするための必須の進化なのです!」
沢村と麻生は沈黙した。
提案の合理性は理解できる。だが、その裏にある政治的・倫理的なリスクが、あまりにも巨大すぎる。
「……この提案」
沢村が重々しく言った。
「ここで即決はできません。
与党内および関係省庁との調整が必要です。
……一度、持ち帰らせていただきます」
「結構です」
三田村は余裕の笑みを浮かべた。
「ですが、色好い返事をお待ちしておりますよ。
さもなくば……我々経済界も、海外への拠点移転を考えざるを得ませんからな」
それは明確な脅しだった。
ダンジョンという巨大な利権を前に、日本の財界は本気で牙を剥き始めていた。
***
翌日。
首相官邸大会議室。
緊急招集されたのは、与党の主要議員、各派閥の領袖、そして関係省庁の幹部たちだった。
議題はただ一つ。
昨夜、経済連から突きつけられた『企業による探索事業参入』の是非についてである。
麻生ダンジョン大臣が、経済連からの提案内容を説明し終えるや否や、会議室は怒号と嘲笑の渦に包まれた。
「――おいおい、経済連は何を考えてるんだ!?」
労働族のベテラン議員が、机を叩いて立ち上がった。
「探索者のリーマン化だと!?
企業戦士としてダンジョンに潜る? 馬鹿も休み休み言え!
『部長の命令でゴブリンに特攻してこい』とでも言うつもりか!
これは現代の『インパール作戦』になるぞ!」
「危険手当とかどうするの!?」
厚労省出身の議員が悲鳴を上げる。
「ダンジョン内での死亡率は、建設現場や化学工場の比ではない!
もし業務命令で社員が死んだら、その補償額は天文学的数字になる!
企業にそれが払えるのか!? いや、そもそも命の値段をどう算定するつもりだ!」
「……だから」
経産省出身の議員が、経済連の意向を代弁するように苦渋の表情で口を開いた。
「そこは……会社として『問題なし』としてくれというのが、彼らの要望です」
「はあ!?」
「つまり……(意訳ですが)」
議員は言葉を選びながら続けた。
「探索業務に関しては、特別法により『労働災害』の適用から除外する。
あるいは企業側の安全配慮義務を大幅に免除する。
あくまで『高度プロフェッショナル制度』の一環として、自己責任の原則を適用してほしいと……」
「ふざけるなッ!!!」
法務族の議員が激昂した。
「労災扱いから除外するとか、正気か!?
既存の法律を骨抜きにするつもりでは!?
労働基準法、労働安全衛生法、そして憲法が保障する生存権!
それら全てを『利益』のために踏みにじる気か!」
「いやー、結局のところダンジョンの利益が会社として欲しいんだろ!」
若手議員が、吐き捨てるように言った。
「今、個人探索者が稼ぎまくっている魔石やレアアイテム。
その所有権を会社のものにしたいだけだ!
『業務中に拾ったアイテムは会社の資産』。そう言いたいだけだろうが!」
会議室はカオスと化した。
「ちょっと待て! 考えただけで山程問題がある!」
「労働基準どうするの? ダンジョン内で『残業時間』をどう計測するんだ?」
「モンスターに追われてる時に『休憩時間なんで休みます』は通用しないぞ!」
「パワハラで訴えられたらどうする? 『もっと奥まで行け』は業務命令かパワハラか?」
反対派の怒濤の攻撃。
だがその中で、経済重視派の議員たちが、静かにしかし粘り強く反論を開始した。
「いやいや! 私はありだと思いますよ!」
元ベンチャー経営者の議員が手を挙げた。
「皆様、リスクばかり見ていますがメリットも巨大です!
個人の力では限界がある!
企業が資本を投下し、最新の装備を揃え、組織的な訓練を施せば、生存率は飛躍的に上がるはずです!
野良で潜って死ぬより、企業の管理下で潜った方が安全だという考え方だってある!」
「それに!」
彼は続けた。
「国際競争力の問題です!
中国の『青龍』ギルドは事実上の国営企業、アメリカの『キャピタル』は巨大資本の集合体です!
彼らは組織力でダンジョン資源を根こそぎ奪っている!
日本だけが『個人商店』の集まりで戦っていては、資源戦争に負けますよ!」
「馬鹿言うな! 問題だらけだ!」
反対派が叫び返す。
「中国は人権無視ができるからだ! アメリカは契約社会だからだ!
日本のウェットな雇用慣行の中でこれをやれば、『死ぬまで働け』というブラック企業が量産されるだけだ!
『社畜』が文字通り『家畜』になるんだぞ!」
「なしだ! なし!」
「こんな法案通せるわけがない! 次の選挙で負けるぞ!」
「ダンジョン関連の利益を企業が奪うぞ! 国民の反発は必至だ!」
「いやいや、良いでしょ? 経済成長のためには痛みも必要だ!」
「待て待て、お前経済連から幾ら貰ってるんだ?」
「あー経済連の回し者いる(笑)」
「失礼な! 私は国益を考えているんだ!」
怒号が飛び交い、もはや議論は成立していなかった。
右から左から、罵声と理想論と現実論が交錯する。
「企業がダンジョンに参入して何が悪いんですか! ありでしょ!」
「責任をどうするんだよ!! 死人が出たら!!!」
「社長が腹を切るのか!? ええ!?」
議長席の沢村総理は、頭を抱えていた。
隣の九条官房長官も、珍しく眉間に深い皺を刻んでいる。
「……麻生大臣」
沢村が疲れ切った声で、隣の男に話しかけた。
「どう思う?」
「……ふん」
麻生は腕を組んだまま、この地獄絵図を冷ややかに見つめていた。
「どっちの言い分ももっともだ。だからこそ始末が悪い」
彼は冷静に分析した。
「経済合理性で言えば、企業の参入は不可避だ。
だが、政治的・倫理的に言えば、それは『劇薬』すぎる。
今の日本の法体系と国民感情では、拒絶反応でショック死するだろうな」
彼はパンと手を叩いた。
その乾いた音が、会議室の喧騒を一瞬だけ鎮めた。
「――皆様。議論は尽きないようですが」
麻生のダミ声が響く。
「結論を急ぐ必要はありません。
ですが、一つだけ確かなことがある」
彼は議員たちを見渡した。
「企業参入を全面的に認める法案は、今の国会では通りませんな。
野党は審議拒否するだろうし、与党内でも造反が出る。
廃案確実の法案を出すほど、我々も暇ではない」
「ですが!」
経済派の議員が食い下がる。
「焦るな」
麻生は制した。
「『全面解禁』は無理だ。だが『抜け道』……いや『実証実験』という形ならどうだ?」
「……実証実験?」
「うむ。
特区を作るのだ。
特定の地域、あるいは特定の企業に限定して、試験的に法人による探索業務を認可する。
もちろん、厳格な監視と手厚い補償を条件としてな。
そこで問題が起きなければ、徐々に拡大していけばいい。
問題が起きれば……まあその時は、その企業に詰め腹を切らせればいい」
そのあまりにも政治的で、そして玉虫色の解決策。
反対派も賛成派も、完全には納得しないが、完全には否定できない絶妙な落とし所。
「……なるほど。特区か」
「それならまあ……」
「監視を徹底するなら……」
会議室の空気が、少しだけ鎮静化した。
「結論は先送りだ」
沢村総理が引き取った。
「今回は『兼業の推進』と『副業解禁』に留める。
企業の直接参入については、特区制度の活用を含め、引き続き検討する。
……経済連には私がそう伝える」
こうして、深夜に及ぶ激論は一応の収束を見た。
だが、誰もが知っていた。
これは解決ではない。
巨大な資本の欲望と、人間の尊厳との戦いは、まだ始まったばかりなのだと。
会議室を出た麻生は、廊下の窓から見える夜の東京を見下ろし、ニヤリと笑った。
「……ふん。企業戦士か。
まあ、いずれはそうなるだろうよ。
金と命。どちらが重いか。
その天秤が釣り合うまで、この国の迷走は続くさ」
神のいない世界で、人間たちは自分たちの欲望と倫理の境界線を探して、今日も泥臭く、そして必死に足掻き続けている。
その戦いは、ダンジョンの深層よりも深く、そして暗い迷宮のようだった。




