第133話
その日、世界の中心である四つの首都を結ぶ最高機密のバーチャル会議室は、いつになく焦燥感と、そして解決の糸口が見えない閉塞感に包まれていた。
『ダンジョン・エイジ』の到来から数ヶ月。世界経済は魔石という新たな血液を得て、かつてないほどの活況を呈していた。だが、急激すぎる成長は必ず歪みを生む。その歪みが、今、ダンジョン経済の最も基礎的な部分――すなわち「入り口」において、深刻なきしみ音を立て始めていたのだ。
「――では定刻となりましたので、四カ国定例首脳会議を始めます」
議長役である日本の九条官房長官が、感情の温度を一切感じさせない声で開会を宣言した。
彼の四つの身体(本体と分身)は、今日も今日とて限界稼働を続けている。この会議の進行、国内の陳情処理、異世界との連絡、そして何よりも今この瞬間に世界中で悲鳴を上げている「市場」の監視。
円卓を囲むのは、日本の沢村総理、アメリカのトンプソン大統領、中国の王将軍、ロシアのヴォルコフ将軍。
彼らの顔には、共通の苦悩の色が浮かんでいた。
「本日の議題は、喫緊の課題である『探索者装備の需給バランス崩壊』および『オーブ価格の高騰』についてです」
九条は手元の端末を操作し、円卓の中央に巨大なグラフを投影した。
それは、右肩上がりに急上昇する二つの線と、逆に右肩下がりに落ち込んでいく一つの線を描いていた。
上昇しているのは「新規探索者登録数」と「F級装備の平均取引価格」。
下降しているのは「F級装備の市場流通量」。
「ご覧の通りです」
九条が淡々と解説を始めた。
「ダンジョン探索者は世界的に増加の一途を辿っています。特に先日決定した『外国人探索者の受け入れ拡大』以降、その数は指数関数的に伸びており、現在、全世界で登録者数は 200 万人を突破しました。
しかし……」
彼は言葉を切った。
「肝心の『魔石』の供給量は、期待したほど伸びていません。目標としては、現在の産業需要のせめて半分程度は満たしたいところですが、現実はその三分の一にも届いていない。神いわく『無理』とのことですが、我々としては諦めるわけにはいきません」
「探索者は増えているのになぜ魔石が増えないのだ?」
トンプソン大統領が、苛立ちを隠せずに葉巻を噛んだ。
「単純計算なら、人数に比例して採掘量も増えるはずだろう」
「それが、そう単純ではないのです」
九条はグラフの「交点」を指し示した。
「ボトルネックはここです。『初心者装備(F級装備)の枯渇』。
探索者になりたい人間は山ほどいる。だが、彼らがダンジョンに潜るために必須となる『最初の装備』が、市場から蒸発してしまっているのです」
モニターに、世界中のオークションサイトやギルドショップの在庫状況が映し出される。
『SOLD OUT』『在庫なし』『入荷未定』。
その無慈悲な文字の羅列。
「現在、F級の片手剣一本の平均取引価格は、日本円にして『30 万円』を突破しました。初期の 10 万円から三倍です。防具一式を揃えようと思えば、優に 200 万円はかかる。
これでは、貧困からの脱出を夢見る若者や途上国からの移民たちが、スタートラインに立つことさえできません。彼らは登録だけして装備が買えずに足踏みしている『待機児童』ならぬ『待機探索者』となっているのです」
「30 万……」
王将軍が唸った。
「高すぎる。ただの鉄の剣だぞ? ゴブリンを倒せば手に入る、ありふれた品ではないか」
「ええ。かつてはそうでした」
九条は次の資料――『探索者行動分析レポート』を表示した。
「ですが、状況は変わりました。初期に参入し、装備を整え、レベルを上げた『先行組』の動向をご覧ください」
そこには、明確な「シフト」が記録されていた。
「彼らは、もう F 級ダンジョンには潜っていないのです」
九条の言葉が、会議室に重く響いた。
「レベルが上がり、資金を得た彼らは、より高価なドロップ品と、より多くの経験値を求めて、次々と『E 級ダンジョン』へと戦場を移しています。
当然の経済行動です。F 級でゴブリンを狩って 1 万円の魔石や数万円の剣を拾うより、E 級でスケルトンを狩って 10 万円の魔石や、現在 50 万円以上で取引されている『E 級装備』を狙う方が、圧倒的に稼げるのですから」
モニターに E 級装備の相場が表示される。
『E 級・騎士の剣:550,000 円』
『E 級・魔法のローブ(火耐性付):700,000 円』
「F 級装備を市場に供給していた『生産者』たちが、一斉に E 級装備の『消費者』兼『生産者』へとクラスチェンジしてしまった。
その結果、F 級ダンジョンを周回するベテランがいなくなり、市場への F 級装備の供給が激減した。
一方で、ニュースを見て夢を抱いた新規参入者は増え続ける一方。
供給減と需要増。……価格が高騰するのは、経済学の基本通りです」
完璧な説明だった。
誰も悪くはない。全員が合理的に自分の利益を最大化しようと動いた結果、システム全体が目詰まりを起こしているのだ。
「さらに拍車をかけているのが」
九条はもう一つのグラフを示した。
「『富のオーブ』の高騰です。現在、日本市場での取引価格は『20 万円』を超えました」
「20 万だと!?」
ヴォルコフ将軍が目を剥いた。
「以前は 15 万で安定していたはずだ。なぜそこまで上がった?」
「F 級装備が買えないなら、自分で作ればいい――そう考えた新規参入者たちが、ホームセンターでバットや鉄パイプを買い、オーブでマジック化しようと殺到したからです」
九条は説明した。
「既製品の剣が 30 万なら、20 万のオーブを使って自作した方がまだ安い。そう判断した彼らがオーブを買い漁り、結果としてオーブ価格も吊り上がってしまった。
今は『剣も高い、オーブも高い』という八方塞がりの状況です」
負のスパイラル。
装備がないから潜れない。潜れないから稼げない。稼げないから装備が買えない。
そして、装備を持っているベテランたちは、下の階層(F 級)には見向きもしない。
「……これは構造的な欠陥だな」
トンプソン大統領が苦い顔で言った。
「自由市場の限界か。放っておけば格差は広がるばかりだ。
『持てる者』はより富み、『持たざる者』は入り口で締め出される」
「その通りです」
沢村総理が引き取った。
「我が国でも、若者たちの不満が高まっています。
『政府は初期組だけを優遇している』『俺たちにもチャンスをよこせ』と。
このまま放置すれば社会不安に繋がります。何らかの対策が必要です」
対策。
言うは易しだが、具体的にどうすればいいのか。
四人の指導者たちは、それぞれの国の事情と照らし合わせながら、知恵を絞り始めた。
「……義務化というのはどうだ?」
最初に提案したのは、中国の王将軍だった。
「E 級以上のライセンスを持つ探索者に対し、週に一度、あるいは月に数回、義務として『F 級ダンジョンでの奉仕活動(周回)』を課すのだ。
そこで得たドロップ品は、定価でギルドに納入させる。
国家の恩恵を受けて強くなったのだから、国家に還元するのは当然の義務だろう」
強権的な、しかし即効性のありそうな提案。
だが、トンプソンが即座に首を横に振った。
「無理だ、将軍。それは資本主義に反する」
彼は呆れたように言った。
「彼らは個人事業主だ。兵士ではない。
より稼げる場所があるのに、わざわざ安い仕事場へ行けと命令する法的根拠がない。
そんなことをすれば、アメリカでは訴訟の嵐になる。
『職業選択の自由の侵害』だとな」
「それに」
沢村も補足した。
「仮に義務化したとして、その補償はどうするのですか?
E 級なら一日で数百万稼げる彼らを、日当数十万の F 級に縛り付ける。その差額を誰が補填するのです?
公式ギルドですか? それとも国庫ですか?
そんな予算はどこにもありませんよ」
「むぅ……」
王将軍が言葉に詰まる。確かに、金銭的な補償なしでの強制労働は、今の世界情勢では反発が大きすぎる。
「では、逆の発想は?」
ヴォルコフ将軍が提案した。
「F 級探索者が少ないわけではないのだ。問題は装備がないことだ。
ならば、国が装備を大量生産し、安価で貸し出せばいい。
自衛隊や我が軍が確保している備蓄分を放出する時ではないか?」
「それも限界があります」
九条が答えた。
「自衛隊の備蓄は、あくまで国防のための予備戦力です。これを民間に放出すれば、有事の際の対応能力が低下します。
それに、既に第一次〜第五次オークションで、かなりの数を放出済みです。これ以上の放出は、焼け石に水でしょう」
「……それに、他国の人間が入ってきているのも、高騰の大きな原因ですな」
麻生ダンジョン大臣(今回はオブザーバーとして参加している)が、憎々しげに呟いた。
「円安も相まって、外国人バイヤーが日本のオークションで装備を爆買いしていく。
彼らにとっては 30 万円でも安いのでしょうが、日本の若者にとっては大金です。
国内の装備が海外へ流出し、国内価格が吊り上げられている」
「じゃあ、他国を締め出すか?」
ヴォルコフが極端な案を出した。
「『自国民優先』。外国人の探索者ライセンス発行を停止し、装備の輸出を禁止する。
鎖国だ」
「……それは」
トンプソンが顔をしかめた。
「今更それは無理だ。
我々は世界に向けて『門戸開放』を宣言したばかりだぞ。
世界中から何十万人もの希望者が、既にビザを取得して入国している。
今ここで梯子を外せば、暴動どころの騒ぎじゃない。国際的な信用失墜だ」
「その通りです」
九条も同意した。
「それに、彼らが参入しているのが高騰の一因であることは事実ですが、同時に彼らは貴重な『労働力』でもあります。
F 級ダンジョンを人海戦術で攻略し、魔石を供給してくれるのは、今は彼ら外国人探索者が主力になりつつある。
彼らを締め出せば、今度は魔石の供給が止まり、エネルギー価格が高騰する。
あちらを立てればこちらが立たず……」
議論は堂々巡りだった。
市場原理に任せれば格差が広がり、介入しようとすれば副作用が出る。
誰もが決定打を欠き、疲労の色を濃くしていった。
「……結局、神頼みか」
沢村が天井を仰いで呟いた。
「KAMI 様なら、何か我々の思いつかないような画期的なアイデアをお持ちなのではないか……?」
その言葉に、全員の視線が円卓の上座――今は空席となっている場所――に集まった。
そこに、いつものように唐突に救世主が現れることを期待して。
そして、期待は裏切られなかった。
空気が揺れ、ゴシック・ロリタ姿の少女がふわりと現れた。
今日の彼女は、日本の駄菓子屋で買ったと思われる『うまい棒』の巨大な袋を抱え、それをサクサクと齧っていた。
「なになに? 私の悪口?」
KAMI は、きょとんとした顔で四人の男たちを見回した。
「め、滅相もございません!」
九条が慌てて否定する。
「KAMI 様、お待ちしておりました。実は現在、我々は深刻なジレンマに直面しておりまして……」
九条は、現在の F 級装備不足とオーブ高騰、そしてそれが引き起こしている新規参入の停滞について、簡潔に、しかし切実に説明した。
「……というわけでして。
KAMI 様の超常的な視点から、この状況を打破する『解決策』をご教示いただけないかと……。
例えば、ドロップ率を一時的に引き上げるとか、F 級ダンジョン限定のボーナスを設けるとか……」
神への陳情。
それは、人類が自らの手で解決できない問題を前にした時の、最後の手段だった。
KAMI は、うまい棒(コーンポタージュ味)を飲み込みながら、その説明をふんふんと聞いていた。
そして聞き終わると、心底つまらなそうに、そしてあっさりと答えた。
「うーん、ないわね」
「……へ?」
全員が固まった。
「だから、ないわよ。解決策なんて」
KAMI は次のうまい棒(めんたい味)の袋を開けながら言った。
「こればっかりは仕方がないんじゃない?
資本主義でしょ?
需要が供給を上回れば価格が上がる。当たり前のことじゃない」
その、あまりにも冷徹な、そしてあまりにも「人間社会のルール」に則った回答。
「で、でも KAMI 様!」
沢村が食い下がった。
「このままでは、貧しい若者たちがチャンスを掴めません!
格差が固定化し、社会が不安定になります!」
「そう?」
KAMI は首を傾げた。
「でもさ、価格が上がってるってことは、それだけ『儲かる』ってことでしょ?
F 級装備が高騰してるなら、F 級ダンジョンに潜って装備を拾えば、それが高く売れるってことじゃない」
彼女は、市場原理の核心を突いた。
「今は E 級の方が稼げるから、みんなそっちに行ってる。それは合理的よ。
でも、F 級装備やオーブの値段がもっともっと上がって、例えば『F 級の剣一本が 100 万円』になったらどうなると思う?
そしたらベテランたちだって考えるわよ。
『あれ? リスクを冒して E 級に行くより、安全な F 級でレア掘りした方が時給よくね?』って」
彼女はニヤリと笑った。
「そうすれば自然と F 級に人が戻ってくる。
供給が増えれば価格は下がる。
で、価格が下がればまた E 級に行く人が増える。
……市場って、そうやって勝手にバランスを取るものなんじゃないの?
あなたたちが大好きな『見えざる手』ってやつよ」
アダム・スミスもびっくりの経済講義。
トンプソン大統領は、ぐうの音も出なかった。神の言う通りだ。市場原理とは、そういうものだ。政府が下手に介入すれば、その自浄作用を歪めるだけだ。
「で、でも……」
麻生大臣が苦しい顔で言った。
「そのバランスが取れるまでの間、現在進行形で困っている『持たざる者』はどうすれば……。
彼らに補助金を出すとか、そういう救済措置は……」
「補助金?」
KAMI は眉をひそめた。
「あんまり健全じゃないわねぇ。
努力もしないでお金だけ貰えるなら、誰もダンジョンなんか潜らなくなるわよ?
『装備がないから潜れない』じゃなくて、『潜るためにどうやって装備を手に入れるか』を考えさせるのが教育ってもんでしょ」
彼女は、厳しい教師のような顔をした。
「借金するなり、スポンサーを見つけるなり、あるいは運良くゴミ捨て場で拾ったバット一本で成り上がるなり。
方法はいくらでもあるわ。
そういう『ハングリーさ』がないと、どっちみちダンジョンじゃ生き残れないわよ」
突き放すような言葉。
だが、そこには揺るぎない真理があった。
ダンジョンは慈悲の場ではない。生存競争の場なのだ。
「……なるほど」
九条が静かに頷いた。
「つまり、今の高騰もまた必要な『試練』であると」
「そうよ」
KAMI は頷いた。
「高い壁があるからこそ、それを乗り越えた時のリターンが大きい。
今、歯を食いしばって F 級装備を手に入れた子は、その価値を知ってるから大切に使うし、必死に稼ごうとするわ。
それが強い探索者を育てるの」
彼女は、うまい棒の最後のひとくちを食べ終えると、指についた粉を払いながら言った。
「だから、この問題は保留ね。
放置しておきなさい。
そのうち市場が勝手に答えを出すわ。
……まあ、どうしても見てられないくらいバランスが崩壊したら、その時は私が『イベント』でも起こして大量にばら撒いてあげるかもしれないけど。
今はまだその時じゃないわ」
保留。静観。
それが、神が下した最終的な判断だった。
「……承知いたしました」
沢村は深々と頭を下げた。
「我々人間の浅知恵で市場をコントロールしようとしたのが間違いでした。
KAMI 様の仰る通り、市場の自浄作用を信じ、静観することといたします」
「よろしい」
KAMI は満足げに立ち上がった。
「じゃ、私は帰るわ。今夜のアニメ見なきゃいけないし」
彼女は手を振ると、いつものように唐突に姿を消した。
後に残された四人の男たちは、しばらくの間、無言でモニターを見つめていた。
問題は解決していない。
装備は足りないままだし、価格は高いままだ。
国民からの不満の声は、明日もまた殺到するだろう。
だが、彼らの心には不思議と迷いはなかった。
「何もしない」という決断。
それは政治家にとって最も勇気のいる決断だ。だが、神がそれを是としたのなら腹を括るしかない。
「……市場に任せるか」
トンプソンが苦笑した。
「我々資本主義国のリーダーが、神に資本主義の基本を説かれるとはな」
「皮肉なものですな」
王将軍も肩をすくめた。
「だが理屈は通っている。高騰こそが次の供給を生む呼び水となる。
耐える時ですな」
「……麻生大臣」
沢村が画面外にいるであろう麻生に呼びかけた。
「聞きましたね。補助金はなしだ。
その代わり、融資制度の拡充や、ギルドによるレンタル装備の強化など、市場原理を歪めない範囲での支援策を全力で進めてくれ」
「……御意」
麻生の声がスピーカーから響いた。その声には、安堵と、そして新たな戦いへの覚悟が滲んでいた。
「金は出さんが、知恵は出す。……それが我々の仕事ですからな」
会議は終わった。
世界はこのまま「高騰」という熱病の中で、しばらくの間もがき続けることになるだろう。
だが、その苦しみこそが次なる「適応」への産みの苦しみであることを、彼らは知っていた。
持たざる者が、知恵と勇気で壁を乗り越え、新たな英雄となる。
あるいは、持てる者がその富を再投資し、さらなる富を生み出す。
その残酷で、しかしエネルギッシュな循環。
日本の、そして世界のダンジョン・エイジは、神の見えざる手(あるいは放置プレイ)によって、より強固な、そしてより自律的な経済システムへと脱皮しようとしていた。
その夜、東京の空には不気味なほどに明るい月が輝いていた。
その光の下で、無数の若者たちが高騰した装備を夢見て、あるいはバットを握りしめて、今日もまたダンジョンへと向かっていく。
彼らの背中には、不安と、そしてそれ以上の希望が、重く、熱くのしかかっていた。




