第132話
その男を「確保」するまでに、日本政府は丸一年の歳月と、内閣情報調査室の年間予算の半分、そして公安警察の精鋭たちによる延べ三千人日という、常軌を逸したリソースを費やしていた。
KAMI から国家備蓄の金塊と引き換えに購入した『高精度予知能力・潜在的適格者リスト』。
そこに記されていた十人の名前。
青森のリンゴ農家の老婆は、接触した翌日に老衰で他界した。彼女の予知は「自分の死期」を悟るためだけに使われていたのだ。
高知の漁師は、政府の接触を頑なに拒み、最後は「海が荒れる」と言い残して沖へ出て、そのまま行方不明となった。
その他の候補者たちも、精神を病んでおり意思疎通が不可能だったりと、国家戦略に組み込めるような「人材」は、絶望的なまでに皆無だった。
残された希望はただ一人。
リストの最後に記されていた、東京・渋谷在住の男。
職業・無職。年齢・二十四歳。
名を、天童サトルといった。
彼こそが、KAMI が「渋谷のニート」と評した人物であり、そして日本政府が一年間、影のように追い続け、常に「あと一歩」のところで逃げられ続けてきた、正真正銘の怪物だった。
彼を捕まえることは不可能だった。
なぜなら、彼は「捕まる未来」が見えているからだ。
公安がアパートを包囲する五分前に、彼はコンビニに行くふりをして裏口から消える。
N システムや防犯カメラで追跡しようとしても、彼はまるで監視の目が届かない死角だけを選んで歩くかのように、忽然と都市の迷宮に姿を消す。
デジタルな痕跡も残さない。スマホの GPS は常にフェイクの場所を示し、彼がいつ、どこで、何をしているのか、世界最高峰の諜報機関でさえ、完全に把握することはできなかった。
だが、そんな彼が、ついに自らの意志で姿を現した。
それはダンジョンが開放され、世界が熱狂に包まれたあの日から、数ヶ月後のことだった。
彼はふらりと――本当にふらりと――霞が関のダンジョン庁の受付に現れたのだ。
「あのー、スカウトの話、まだ有効っすか?」という、気の抜けた言葉と共に。
そして今。
首相公邸の地下深く、電波も音も完全に遮断された特別応接室。
そこに、この国の運命を握るかもしれない一人の青年が、だらしなくソファに座っていた。
ヨレヨレのスウェットパーカーに、履き潰したサンダル。
ボサボサの髪の隙間から覗く瞳は、常に眠たげで、焦点が合っていないように見える。
だが、その目の前に座る沢村総理と、九条官房長官(の本体たち)は、まるで核兵器のスイッチと対峙しているかのような、極限の緊張感を漂わせていた。
「……改めて感謝する、天童君」
沢村が重々しく口を開いた。
「君が我々の呼びかけに応じ、こうして話し合いの席に着いてくれたこと。国家を代表して礼を言う」
「いやー、別にいいっすよ、そんな固い挨拶」
天童は、出された高級茶をズズッと音を立ててすすり、面倒くさそうに頭をかいた。
「逃げるのも疲れちゃって。それに、ダンジョンもできたし、そろそろ潮時かなって」
「潮時とは?」
九条が鋭く問いかける。
「んー、まあ色々っすよ」
彼は言葉を濁した。その瞳の奥に、何か暗い光が走ったのを、九条は見逃さなかった。
「さて、本題に入ろう」
九条は手元の端末に表示された、過去一年間の「天童サトル追跡記録」を呼び出した。
「我々は君の能力を高く評価している。いや、畏怖していると言ってもいい。
昨年四月の株価暴落。君はその三日前に、全財産を空売りしていたね。
六月の地下鉄事故。君は事故車両に乗るはずだったが、直前に腹痛を訴えて電車を降りた。
そして何より、我々が君のアパートに踏み込もうとした計十二回の作戦。君はその全てにおいて、作戦開始の『決定』が下されるよりも前に、部屋を脱出していた」
九条は、その事実が意味する恐るべき結論を、口にした。
「君の予知的中率は、現状 100 パーセントだ。
誤差ではない。偶然でもない。君は確実に『未来』を見ている」
「あー、まあ、そうっすね」
天童は悪びれもせずに認めた。
「見えちゃうんすよね。なんていうか、ネタバレ動画が勝手に脳内で再生される感じで」
「ネタバレ動画か……」
沢村が唸る。
「その能力を国のために使ってほしい。それが我々の願いだ。
具体的には、大規模災害の予知。首都直下型地震や南海トラフ地震。
それらの発生時期と規模を事前に知ることができれば、数百万人の命を救うことができる」
沢村は身を乗り出した。
「報酬は望むままだ。金か、地位か、あるいは名誉か。国家予算の枠組みを超えてでも、君を厚遇する用意がある」
それは、一国の宰相からの最大級の懇願だった。
だが天童の反応は冷淡だった。
彼は出された茶菓子(KAMI もお気に入りの羊羹だ)をモグモグと咀嚼しながら、気のない声で言った。
「えー、無理っすよ」
「……無理?」
九条の眉がピクリと動く。
「対価が不足だと言うのか?」
「違いますよ。責任取れないって言ってるんす」
天童は、羊羹の包み紙をいじりながらボソボソと言った。
「おじさん達、予知ってのを天気予報か何かと勘違いしてません?
明日雨が降るから傘を持っていこう、みたいな。
そんな便利なもんじゃないんすよ、これ」
彼は気だるげな瞳を、ふと鋭く細めた。
その瞬間、部屋の空気が変わった。
ただの無気力なニートが、突然、人知を超えた深淵を覗き込む賢者のような、異様な圧迫感を放ち始めたのだ。
「予知は繊細なんすよ」
彼は独り言のように語り始めた。
「俺が見てるのは確定した未来じゃない。無数にある『可能性の枝』の中で、今いちばん確率が高いルートがハイライトされてるだけなんです。
でもね、その未来を『観測』した時点で、もう未来は変質し始めてるんすよ。
量子力学とかで言うじゃないですか、観測者効果って」
彼はテーブルの上の湯呑みを指さした。
「例えば今、俺が『あと三秒後に総理がその湯呑みをひっくり返して、ズボンを濡らす』って予知したとしますよね」
沢村がビクリとして、湯呑みから手を離した。
「ほら」
天童はニヤリと笑った。
「総理が手を離した。だから湯呑みは倒れない。未来が変わった。
これくらいの些細なことならいいんすよ。ただズボンが濡れなかっただけ。ハッピーエンドだ」
だが、彼の表情から笑みが消えた。
「でも、これが地震だったら?
『三日後に地震が来る』って俺が言ったせいで、みんなが避難を始める。
すると、何千万人もの人間の行動が変わる。車の流れ、電力の消費量、人々の意思の集合体。
そういう巨大なエネルギーの変動が、バタフライエフェクトみたいに巡り巡って、地殻にかかるストレスのバランスを、ほんのミリ単位だけど変えちゃうんすよ」
「……まさか」
九条が息を呑む。
「予知をして対策を取ることで……地震そのものの発生時期や規模が変わるというのか?」
「変わりますよ」
天童は断言した。
「俺が『来る』って言ったせいで来なくなるかもしれない。
あるいは、もっと悪いことに、『来ない』はずだった地震が、人々のパニックによるエネルギーの乱れで誘発されるかもしれない。
あるいは、避難した先で別の災害――土砂崩れとか火災とか――に巻き込まれて死ぬかもしれない」
彼は自分の両手を見つめた。
その手は何も掴んでいないのに、まるで重い鎖に縛られているかのように震えていた。
「未来を変えようとすると、必ず『歪み』が出るんです。
因果律のしっぺ返し、みたいなもんすかね。
俺が干渉したせいで、死ななくてよかった人が死んだら?
助かるはずだった命が、俺の予知のせいで失われたら?
その責任、俺に取れますか?
いや、あなたたち政治家に取れますか?」
その問いは、あまりにも重かった。
KAMI がかつて、沢村とトンプソンに突きつけた問いと同じ。
「知ることの責任」。
それを、この青年は、たった一人でその身に背負い続けてきたのだ。
「正直、未来予知なんて呪いですよ」
天童は吐き捨てるように言った。
「見たくもない事故が見える。聞きたくもない訃報が聞こえる。
でも手を出せば、もっと酷いことになるかもしれないから、ただ見てるしかない。
……頭、おかしくなりそうっすよ」
沈黙が部屋を支配した。
沢村と九条は言葉を失っていた。
彼らはこの青年を「便利な道具」として見ていた自分たちの浅はかさを恥じた。
彼は被害者なのだ。神の気まぐれなギフトの、最も過酷な被害者。
「……すまない」
沢村が頭を下げた。
「君の苦悩を理解していなかった。
……では、君はなぜここに来た? ただ断るために来たのか?」
「いや」
天童はふっと表情を緩めた。いつもの、やる気のないニートの顔に戻る。
「断るつもりはないっすよ。条件次第ですけど」
「条件?」
九条が身を乗り出す。
「俺、探索者になりたいんすよね」
「…………は?」
予想外の言葉に、二人の男がポカンとする。
「探索者。ダンジョンに潜るやつ」
天童は目を輝かせて言った。
「いやー、KAMI 様の配信とか見てて、ずっと憧れてたんすよ。
剣と魔法。男のロマンじゃないですか。
それに、俺のこの『呪い』も、ダンジョンの中なら『最強の武器』になるんじゃないかって」
彼は身振り手振りを交えて、自分の構想を語り始めた。
それは、災害予知などという陰鬱な仕事とは正反対の、極めて前向きで、そしてゲーム的な野望だった。
「『短期的な予知』ですよ。
数秒先、あるいは数分先の未来を見る。
これなら因果律の歪みも最小限で済むし、何より、責任も俺一人で完結する」
彼は、エア剣を振る仕草をした。
「モンスターが右から爪を振るってくるのが 0.5 秒前に分かる。
だったら俺は、あらかじめ左に避けて、カウンターを叩き込めばいい。
罠があるのが分かる。なら、解除すればいい。
宝箱の中身が分かる。なら、当たりだけ引けばいい」
「……完全回避と、確定クリティカルか」
九条が、ゲーマーのような言葉で呟いた。
「そう! それっすよ!」
天童は嬉しそうに指を鳴らした。
「俺の予知能力があれば、どんな攻撃も当たらない。どんな攻撃も急所に当たる。
理論上、無敵のソロプレイヤーになれるんすよ。
『未来視の剣士』。かっこよくないっすか?
俺、これでダンジョン無双して、ガッポリ稼いで、悠々自適の生活を送りたいんすよ!」
その、あまりにも俗物的で、そして若者らしい夢。
だが、沢村と九条の顔色は真っ青になっていた。
「ば、馬鹿なことを言うな!」
沢村が叫んだ。
「君は国家の至宝だぞ! 代わりのいない唯一無二の予知能力者だ!
それを一介の探索者として、モンスターと殴り合わせるだと!?
万が一、事故があったらどうする! 国家的な損失どころの話ではない!」
「いや、だから事故らないんすって」
天童は呆れたように言った。
「予知があるんだから。死ぬ未来が見えたら、行かなきゃいいだけだし」
「そういう問題ではない!」
九条も声を荒らげた。
「君の能力は、もっと大きな大局的な目的のために使われるべきだ。
外交交渉の行方、株価の変動、テロの未然防止……。
君がその気になれば、日本を世界の覇権国家にすることだってできるのだぞ!」
「はー……」
天童は、心底うんざりしたという顔でため息をついた。
「だから、それが嫌なんすよ。
責任、重すぎでしょ。
俺が『アメリカの大統領が風邪引く』って予知したら、あんたたち、それでインサイダー取引とかするんでしょ?
そういうの、めんどくさいし、怖いんすよ」
彼はソファに深く沈み込み、天井を見上げた。
そして、この議論の核心を突く、決定的な一言を放った。
「そもそもさぁ」
彼は気だるげに言った。
「ダンジョンができて、魔石があって、エネルギーも食料も無限になって、みんなハッピーになりつつあるじゃないですか。
これ以上、何を知る必要があるんすか?
ある程度の成功と繁栄が約束されてるのに、わざわざリスクを冒してまで、確定してない未来を知る必要、あるんすか?」
その問いに、沢村と九条は言葉に詰まった。
「未来なんて分からないから面白いんじゃないすか。
明日の天気が分からないから、晴れた時に嬉しい。
ガチャの中身が分からないから、当たった時に脳汁が出る。
全部わかっちゃったら、人生ただの消化試合ですよ」
彼は自分の胸に手を当てた。
「俺はね、この『ネタバレ』の呪いから、少しでも逃れたいんすよ。
ダンジョンの中なら、それができる。
あそこは因果が乱れてる場所だから。俺の予知も 100 パーセントじゃない。
『死ぬかもしれない』っていうスリル。
『何が出るかわからない』っていうワクワク。
それを俺も味わいたいんすよ。普通の人みたいに」
それは、全知の能力を持ってしまったが故の、孤独な青年の切実な叫びだった。
彼は神になりたいのではない。
ただ、ドキドキできる人間になりたかったのだ。
沢村は長い沈黙の後、力なく椅子に座り直した。
論破されたと思った。
国家の利益という大義名分は、個人の「人間らしく生きたい」という願いの前では、あまりにも空虚だった。
「……分かった」
沢村は静かに言った。
「君の意志は尊重しよう。
災害予知や国家戦略への利用は強制しない。
君が嫌なら、やらなくていい」
「お話が分かる」
天童が顔を輝かせる。
「その代わり」
沢村は条件をつけた。
「君を特務探索者として認定し、国が全面的にバックアップする。
装備も資金も情報も、全て提供しよう。
ただし、一つだけ約束してくれ。
もし君の視界に……どうしても無視できない、日本が滅びるような『破滅的な未来』が映ってしまった時だけは。
その時だけは、我々に教えてほしい。
対策は我々が考える。責任も我々が取る。
君はただ『警報』を鳴らすだけでいい」
それは、政治家としてのギリギリの妥協案だった。
普段は自由に遊ばせておく。だが、緊急ボタンとしてだけは機能してもらう。
天童は少し考え込んだ後、ニカッと笑った。
「ま、それくらいなら。
俺も、自分の住んでる国がなくなるのは困るし。
いいっすよ。契約成立ってことで」
「……感謝する」
こうして、日本政府は最強の切り札を手に入れた。
だが、その切り札は金庫の中にしまわれることはなかった。
彼は翌日から、最新鋭の装備(もちろん政府支給の最高級品だ)に身を包み、渋谷のダンジョンへと繰り出していった。
「うひょー! マジで見える! 全部見えるぞ!」
「そこっ! 右! あ、次は左から来る!」
「おっ、こっちの通路の奥に、レア宝箱の気配がする……!」
彼は、水を得た魚のようにダンジョンの中を駆け回った。
その戦闘スタイルは異様だった。
剣を振るう前に敵が倒れ、罠が発動する前に解除され、迷うことなく最短ルートでボス部屋へとたどり着く。
“未来視の剣士”。
その噂は瞬く間に探索者たちの間で広まり、彼は新たなヒーローとして崇められるようになった。
一方、官邸の地下では。
九条の分身が、モニターに映る天童の活躍を見ながら、胃薬を飲み込んでいた。
「……見ていられませんな」
彼は呟いた。
「国家の最高機密が、ゴブリン相手に無双して喜んでいるとは……。
いつか彼が足を滑らせて事故に遭わないか、気が気ではありません」
「まあ、いいじゃないか」
沢村の本体が、茶をすすりながら言った。
「彼は楽しそうだ。それが何よりだ。
それに、彼がダンジョンにいる間は、少なくとも我々は安心していられる」
「どういうことですか?」
「彼が笑って探索しているということは、少なくとも『直近の未来に日本が滅びるような大災害は起きない』という証明だからだよ」
天童サトル。
彼は日本政府が抱える、最も扱いづらく、そして最も頼りになる「人間カナリア」となった。
彼がダンジョンで遊んでいる限り、日本は平和だ。
そう信じて、沢村たちは今日も、終わりのない書類仕事へと戻っていくのだった。
だが彼らはまだ知らない。
天童がその「未来視」の瞳で、ダンジョンの最深部に何を見ているのかを。
彼が時折見せる、底知れない恐怖の表情の理由を。
「……まあ、まだ先の話だしいっか」
そう呟いて、彼が意図的に無視している「確定した未来」の存在を。
物語はまだ終わらない。
予知能力者というイレギュラーを加えて、日本のダンジョン攻略はさらに加速していく。
その先にあるのが、希望の光か、それとも絶望の闇か。
それは今はまだ、神と彼だけが知る秘密だった。
「……あーあ。言えないよなぁ、これ」
渋谷ダンジョンの奥深く。
天童は巨大なボスの死体の上に座り、虚空を見つめていた。
その瞳には、燃え盛る東京の街並みと、天を覆う巨大な影が、一瞬だけ映り込んでいた。
「ま、なんとかなるっしょ。俺がいるし」
彼は努めて明るく笑うと、次の階層への階段を降りていった。
その背中は以前よりも、少しだけ大きく、そして孤独に見えた。
彼の戦いは、誰にも知られることなく、既に始まっていたのだ。
未来を変えるための、たった一人の孤独な戦いが。




