第127話
E級ダンジョン『腐敗した聖堂』。
その地下深くに広がる薄暗い回廊は、数百年の時を経て風化した石材の匂いと澱んだ魔力の気配、そしてそれらを切り裂くような生身の人間たちの荒い息遣いと熱気で満たされていた。
そこにはこれまでのダンジョン探索の常識を覆す、異様で、そしてあまりにも頼もしい光景が広がっていた。
アステルガルド・リリアン王国最強の精鋭『白銀の牙』騎士団。
彼らは単なる「助っ人」としてここにいるのではない。
彼らは今、システム(スキル)という補助輪に頼り切り、ゲーム感覚で戦っていた地球の探索者たちに「命のやり取り」という本物の戦場の理屈を叩き込む鬼教官として、ここに立っていた。
「――止まるな! 足を止めるなと言っている!」
騎士団長ガレスの雷のような怒号が石造りの高い天井に反響し、探索者たちの鼓膜を震わせた。
彼の目の前では、“剣聖”ケンタ率いる日本のトップランカーパーティを含む数十人の合同部隊が、E級モンスターの主力であるスケルトン・ソルジャーの小隊と対峙していた。
カツーン、カツーン、カツーン。
乾いた足音を響かせながら白骨の兵士たちが隊列を組み、精緻な剣術の構えを取りながらジリジリと間合いを詰めてくる。
眼窩に青い鬼火を灯した彼らの剣技は、生前の記憶か、あるいはダンジョンのプログラムか、隙がなく美しいとさえ言えるものだった。
ケンタは盾を構え、慎重に相手の出方を窺っていた。
(……来るか? 右からの突きか? それともフェイントを入れてからの袈裟斬りか? 相手の攻撃モーションに合わせて『パリィ』を発動させれば……)
彼がゲーム的な思考で「敵のターン」を待とうとしたその瞬間だった。
ガレスの鋼鉄の籠手が、ケンタの背中をど突いた。
「ぐっ!? だ、団長!?」
「馬鹿者ォ! 何を待っている!」
ガレスは兜の奥から鬼のような形相で叫んだ。
「相手の剣技に見惚れるな! 見ろ、奴らの重心を! 剣先を!
奴らが『型』を作ろうとしているその瞬間に、なぜ貴様は付き合ってやるのだ! ここは道場ではない! 殺し合いの場だぞ!」
ガレスは、自らの身の丈ほどもある大剣『ドラゴンスレイヤー』を軽々と引き抜くと、盾を構えて固まっていたケンタの横を疾風のごとく駆け抜けた。
「――戦いとは対話ではない! 一方的な『押し付け』だ!」
ガレスは、スケルトンが剣を振り上げようとしたその刹那、何の予備動作もなく、ただ暴力的なまでの速度と重量で正面から突っ込んだ。
技もへったくれもない。
ただの全身全霊の「体当たり(シールドチャージ)」だ。
ドガァァァン!!
凄まじい衝撃音が回廊に轟く。
白骨の兵士が、まるでボーリングのピンのように弾け飛んだ。
構えも剣技も間合いも、全てが無意味。
圧倒的な質量と速度という物理法則の前には、小手先の技術など成立しないのだ。
「いいか、よく見ろ!」
ガレスは、吹き飛んだスケルトンの頭蓋を追撃の踵落としで粉砕しながら、呆然とする探索者たちに向かって叫んだ。
「貴様らは『敵のターン』を待ちすぎだ!
相手が攻撃モーションに入ってから避ける? 受ける? 愚か者のすることだ!
それは『後の先』などという上等なものではない、ただの『後手』だ!
相手に攻撃させるな! 思考させるな! 準備させるな!
こちらの理屈を、こちらの暴力を、ただひたすらに押し付けろ! 相手が息をする暇さえ与えるな!」
それは、画面の中の敵の行動パターンを読んで対応するという「攻略法」に慣れきった現代人に対する痛烈なアンチテーゼであり、そして血塗られた真実の教えだった。
***
「魔法の起こりを感知したら即座に攻撃! 詠唱などさせるな!」
回廊の別の場所では、リリアン王国の魔法騎士たちが探索者の後衛部隊――魔法使いや弓使い――を指導していた。
回廊の奥深く、瓦礫の陰から数体のスケルトン・メイジが姿を現す。
彼らは不気味な杖を掲げ、その先端に青白い冷気の光を灯し始める。
E級ダンジョンの洗礼とも言える『アイスボルト』の詠唱だ。
日本の魔法使いの少女が、条件反射的に防御魔法の障壁を展開しようと杖を構える。
「あ、来る! 『マナ・シールド』で防がなきゃ!」
だが、横にいた魔法騎士の一人が彼女の杖を持つ手を掴んで止めた。
「違う! 守るな! 撃て!」
「えっ!?」
「相手が魔力を練っているその瞬間こそが最大の隙だと言っているのだ!
魔法とは世界への干渉。その構築には必ず一瞬の『タメ』がいる。
魔力が集束し術式が編まれるその数秒間、術者は無防備な案山子となる!」
騎士は手近な瓦礫を拾うと、無造作にしかし正確無比なコントロールでスケルトン・メイジへと投げつけた。
ガッ!
瓦礫がメイジの頭骨に当たる。ダメージなど微々たるものだ。HPバーは1ミリも減っていない。
だが、その衝撃でメイジの集中が切れ、杖の先の光がシュンと霧散した。
「見ろ! 魔法が消えた!」
騎士は叫んだ。
「魔法使いにとって詠唱中断こそが死だ!
相手の魔法完成を待つ必要などない! 撃たせてから防ぐなど愚の骨頂!
光が見えたら即座に撃ち込め! 矢でも魔法でも罵倒でもいい! 石ころ一つでも構わん!
相手のリズムを崩せ! 主導権を握らせるな!」
少女はハッとした。
彼女は今まで、敵の魔法が飛んできてからそれをどう防ぐか、あるいはどう避けるかばかりを考えていた。
それは「敵の攻撃ターン」を甘んじて受け入れる行為だった。
だが、そもそも撃たせなければいいのだ。
こちらのターンを終わらせなければいいのだ。
「……はい! いけます! 『ファイアボール』ッ!」
彼女は防御の構えを捨て、攻撃魔法を放った。
まだ体勢を立て直せていない、よろめいたスケルトン・メイジに火球が直撃する。
ドォン!
無防備な敵は防御障壁を展開する暇もなく、炎に包まれて燃え尽きた。
「そうだ! それが『攻性防御』だ!」
騎士が親指を立てて笑った。
「やられる前にやる。これぞ魔法戦の極意なり!
魔法使い同士の戦いは先に撃った方が勝つ! その単純な理屈を骨の髄まで叩き込め!」
***
戦場は巨大な、そして血生臭い教室と化していた。
アステルガルド流の実戦剣術。
それは地球の武道のような型や美しさを競うものではない。
「いかに効率よく、いかに一方的に、いかにリスクを負わずに敵を殺すか」に特化した、泥臭くそして合理的な殺人術だった。
「向こうの剣術に、わざわざ付き合う必要はなし!」
ベテラン騎士が、巨大な両手剣を持った大柄な探索者に檄を飛ばす。
目の前には剣の達人のような構えをとるスケルトン・ナイト。
その切っ先は鋭く、隙がない。
探索者はその鋭い剣先に怯え、間合いを測りかねていた。
「スケルトンの剣捌きは鋭い。まともに打ち合えば、貴様らの付け焼き刃の技量では負ける。
奴らは疲れを知らず、恐怖も知らぬからな。
だが奴らには、決定的に欠けているものがある!
『重さ』だ! 骨だけだからな! 質量が足りん!
ならばどうする? 答えろ!」
「……ち、力で……?」
探索者が自信なさげに答える。
「そうだ! 技で勝てぬなら力でねじ伏せろ! 物理法則で分からせろ!」
騎士は自らのメイスを振りかぶった。
スケルトンが巧みな剣技でそれを受け流そうと剣を合わせる。
だが、騎士は構わず、その構えの上から剣ごと腕ごと叩き潰した。
グシャァッ!
鉄屑と骨片が飛び散る。
受け流し(パリィ)など成立しない。
受け止めた腕ごと粉砕されれば、防御など意味をなさない。
「剛剣で蹂躙してもよし!
相手の動きを読む必要はない!
『これを防げばお前は死ぬ、避けなければお前は死ぬ、受ければ腕が折れる』という理不尽な一撃を繰り出せば、相手は防御か回避しか選べなくなる!
相手の選択肢を奪え!
それが『こちらの動きを押し付ける』ということだ!」
ケンタはその光景を見て、目から鱗が落ちる思いだった。
彼はこれまで、システムが提供する『スキル』や『予兆表示』に頼り切っていた。
敵の攻撃を待ち、赤い予測線(攻撃予兆)が見えたら回避し、その後の硬直時間(隙)を見てスキルを叩き込む。
それは「ゲーム」の戦い方だ。
敵に行動させることが前提の、受動的な「接待プレイ」だ。
だが騎士たちの戦い方は違う。
彼らは敵に「何もさせない」。
常に前へ。常に攻撃。常に圧力。
敵が剣を振るおうとすれば、その腕を潰す。
敵が下がれば、さらに踏み込む。
敵が魔法を使おうとすれば、その口を塞ぐ。
相手の思考のリソースを「防御」と「回避」だけで埋め尽くし、「反撃」という選択肢を脳内から消去させる。
「……攻勢に出れば、向こうは対応しか出来ない」
ケンタは乾いた唇を舐めながら呟いた。
「攻勢を維持しつつ隙を見つけて攻撃するんじゃない。
攻勢そのものが隙を作り出すんだ……!
俺たちが攻撃し続ける限り、俺たちは無敵なんだ!」
彼は剣を握り直した。
F級装備から買い替えたばかりの『E級・鋼鉄の長剣』。
そのずしりとした重みが、今は恐怖ではなく、頼もしい武器として感じられる。
「――よし、行くぞみんな!」
ケンタはパーティメンバーに声をかけた。
その声には今までになかった、野生の響きがあった。
「ビビって盾を構えるのはもう終わりだ!
全員で突っ込む! 俺たちが『嵐』になるんだ!
やられる前にやれ! 殺される前に殺せ!」
「おう!」
「やってやるぜ!」
「俺たちのターンは、ずっと俺たちのターンだ!」
ケンタたちは走り出した。
スケルトンの群れに向かって一直線に。
これまでの慎重な足取りではない。
地面を蹴り、前傾姿勢で突っ込む捕食者の走りだ。
盾役が『シールドバッシュ』で敵の陣形を崩し、その混乱の只中に剣士と斧使いが飛び込む。
魔法使いは後方で詠唱完了を待つのではない。
中距離まで踏み込み、敵の反撃の芽を摘むように牽制の魔法弾をマシンガンのようにばら撒く。
「オラオラオラァ!」
「寝てろガイコツ!」
「詠唱させねえよ! ヒャッハー!」
それはもはや戦闘ではなかった。
一方的な「制圧」であり、「蹂躙」だった。
スケルトンたちはその精緻な剣技を披露する暇さえ与えられず、次々と粉砕され壁に叩きつけられ、光の粒子となって消えていく。
彼らのAIは想定外の「理不尽な暴力」に対応できず、ただ防戦一方に追い込まれていた。
「……ふん。飲み込みが早いな」
ガレス団長は腕を組んでその様子を眺め、兜の下でニヤリと笑った。
「地球の人間はひ弱だが、貪欲だ。
強くなるための理屈さえ理解すれば、それを吸収する速度は我らを凌ぐかもしれん。
『恐怖』を『殺意』に変換する術を知った時、人間は最も強くなる」
彼らの指導は単なる技術の伝授ではなかった。
「戦士としてのマインドセット(心構え)」のインストール。
システムに頼り、ルールを守るだけの優等生的なゲーマーから、自らの意思で戦場を支配し、ルールをねじ伏せる戦士への脱皮。
それが今、この薄暗い迷宮の中で、汗と怒号と、そして魔物の断末魔と共に急速に行われていた。
「次だ! 次の部屋に行くぞ!」
「休憩なんていらねえ! 勢いを止めるな!」
「魔石を拾うのは後だ! まずはエリアを制圧する!」
探索者たちの目はギラギラと輝いていた。
それは獲物を追う獣の目であり、そして自らの力に目覚めた者の歓喜に満ちた目だった。
彼らはもうダンジョンに「挑む」のではない。
ダンジョンを「狩る」のだ。
その圧倒的な意識の変革が、日本の、そして人類のダンジョン攻略速度を劇的に加速させていくことになる。
E級ダンジョンの静寂は、今や彼らの雄叫びと勝利の凱歌によって、完全に塗り替えられようとしていた。




