第119話
その日、日本列島は――そして世界中のダンジョン保有国は――KAMIがもたらした「耐性は正義」という新しい福音の解釈と実践に、狂ったように明け暮れていた。
E級ダンジョンの開放を前に、これまで主流だった攻撃力偏重の「脳筋ビルド」から、生存率を重視した「耐性ビルド」への大転換が起きていたのだ。
パッシブスキルの振り直し、装備の買い替え、そして未実装のクラフトオーブへの予約注文。探索者は、まるでテスト範囲が直前に変更された受験生のように、必死になって対策に追われていた。
「耐性25%で無効化」
「まずは死なないことが最優先」
その理屈は痛いほど理解できた。だが現実は甘くない。
スキル『ダイヤモンド・スキン』で得られる全耐性は15%。E級ダンジョンの魔法攻撃を無効化するラインである25%には、あと10%足りない。
たかが10%、されど10%。この「10%」の壁が、あまりにも高く、そして分厚かった。
装備で補おうにも、F級ダンジョンのドロップ品に付く耐性値など、せいぜい「火炎耐性+3%」といった単一属性の微々たるものが関の山だ。
全身を耐性装備で固めれば、当然ながら攻撃力や他のステータスが犠牲になる。攻撃力が落ちれば周回速度が落ち、稼ぎが減る。
あちらを立てればこちらが立たず。多くの探索者たちが、自分のステータス画面と睨めっこしながら、深い溜息をついていた日曜の夜。
その「革命」は、唐突に、そして静かに始まった。
午後八時。日本探索者公式ギルドが運営する『公式オークションサイト』。
そのトップページに、一本の真っ赤なアラートが走った。
【緊急出品:ユニークアイテムの登録を確認しました】
ユニーク。
その単語が表示された瞬間、サーバーへのアクセス数が跳ね上がった。
これまでも「攻撃力+5%」程度のマジックアイテムは取引されていた。だが「ユニーク」というカテゴリーは、都市伝説レベルで語られるのみで、公の場に出たことは一度もなかった。
あっても、発見者が自分で使うか、裏ルートで取引されていると噂されていたのだ。
「どうせちょっと強い剣とかだろ?」
「攻撃力倍とかかな」
「いやユニークっつってもF級だぞ? たかが知れてる」
多くの人々は、冷やかし半分でその詳細ページを開いた。
そして――絶句した。
そこにあったのは、彼らが今いちばん欲しくて、そして喉から手が出るほど求めていた「答え」そのものだったからだ。
***
「アイテム名: 清純の元素
種別: 首輪
レアリティ: ユニーク
効果:
・全耐性 +5%
・最大HP +40
・このアイテムにLv10の【元素の盾】スキルが付与される。
・【元素の盾】: MPを50%予約して発動出来る。周囲の味方の火氷雷属性耐性を+26%するオーラ。
フレーバーテキスト:
王も英雄も神々でさえも、皆等しくこの小さな光から始まった。
恐れることはない。その一歩は祝福されている。
***
静寂。
日本中のリビングで、スマホを持つ手が止まった。意味を理解するのに数秒。
そして、脳髄がその数字の異常さを理解した瞬間、絶叫が上がった。
「はあぁぁぁぁぁぁぁッ!?」
「うおー! なんだこのクソ強い装備!!!!」
「全耐性がこれだけで31%!? バグだろ!!!」
「チートアイテムかよ!」
SNSは、核爆弾が投下されたかのような騒ぎになった。タイムラインは秒間数千件の勢いで更新され、阿鼻叫喚の様相を呈していた。
『【速報】公式オクにヤバい首輪が出品される』
『これ一つでKAMI様の言ってた「無効化ライン(25%)」突破してるじゃねーか!』
『しかもオーラ!? 味方全員!? パーティ全員無敵かよ!』
『MPを50%予約もされるけど、やっぱり強いだろ!!』
『物理職ならMPなんて余ってるし、魔法職でも死ぬよりマシだわ』
情報番組のスタジオもパニックだった。
生放送中の『ニュース・ステーション』で、解説者の軍事アナリストが興奮のあまりフリップを落とした。
「えー、落ち着いてください。計算してみましょう。これがいかに異常な数値か、冷静に分析する必要があります」
アナリストの手が震えている。
「まず、この首輪自体の基礎効果で『全耐性+5%』です。これだけでも、今の市場に出回っている最高級の耐性指輪二個分に相当します。
そして、付与されるスキル『元素の盾』の効果が『+26%』。このオーラは『周囲の味方』とありますから、当然装備者本人にも適用されます。
つまり合計で『31%』。たった一つのアクセサリーを装備するだけで、全属性耐性31%を確保できるのです」
アナウンサーが震える声で尋ねる。
「つまり、これ一つ装備するだけでE級ダンジョンの魔法攻撃は……」
「完封です。ノーダメージです。スキルポイントを振る必要すらありません。『ダイヤモンド・スキン』を取る必要もない。
MPを50%予約するというデメリットはありますが、そんなものは些細な問題です。死ななければ、ポーションを飲む時間も、逃げる時間もあるのですから。
裸にこの首輪一つ着けていれば、火の玉の中を散歩できる。そういう次元のアイテムです」
「しかも!」
アナリストは唾を飛ばして強調した。
「恐ろしいのは『オーラ』という点です。周囲の味方にも+26%。つまり、パーティメンバー全員が、この首輪を持っている人のおこぼれで魔法ダメージを無効化できるのです。
これ一つあれば、どんな初心者パーティでもE級ダンジョンをピクニック気分で攻略できる。まさに『神器』。国家戦略級のアイテムですよ、これは!」
***
ネット掲示板の解析班も、別の視点から盛り上がっていた。
スペックだけでなく、そこに記されたテキストの深読み合戦が始まっていたのだ。
『フレーバーテキスト、エモいだろ』
『王も英雄も神々でさえってなんだよ、意味深だなぁ!!!』
『これKAMI様からのメッセージか? それともこの世界の「設定」として元々あった文章なのか』
『「その一歩は祝福されている」って、これからの俺たちへの応援歌みたいで泣ける』
『性能がエグい上に、テキストまで神々しいとか、これもう伝説の装備だろ』
『最初の一歩だから「清純の元素」なのか……。ネーミングセンスも神がかってる』
性能、希少性、そして物語性。
全ての要素が、このアイテムの価値を天井知らずに押し上げていた。
開始価格1000万円。F級装備の相場が10万円であることを考えれば、破格の高値だ。
だが、この性能を見た後では、誰もが思った。「安すぎる」と。
***
午後九時、オークション開始。
日本中の視線が、カウントダウンの数字に釘付けになった。
――いや、日本だけではない。世界中のダンジョン保有国、アメリカ・中国・ロシアの探索者や投資家たちも、またこの歴史的なアイテムの行方を注視していた。
入札ボタンが有効化された、その0.1秒後。
【現在価格:100,000,000円】
「――億ったァァァァァッ!!!」
日本中で悲鳴が上がった。開始一瞬で桁が変わった。
1000万などという数字は、瞬きする間に消し飛んだ。
もはや個人の探索者が手を出せる領域ではない。
画面の数字は、まるで壊れたスロットマシンのように回転を続ける。
1億1000万。
1億2000万。
1億5000万。
「止まらねええええ!」
「誰が入札してんだよ!?」
「企業だろ! ソフトバンクとかトヨタとかの実業団チームが本気出してきたぞ!」
「いや、海外の富豪も参戦してるんじゃないか!?」
一般市民は、もはや蚊帳の外だった。
これは、札束で殴り合う巨人たちの戦争だった。
掲示板の実況スレは、秒間数百レスの勢いで流れていく。
『うわあああああああ! 1億8000万!』
『家が建つぞwww』
『出品者、今頃泡吹いて倒れてるだろ』
『誰が出したんだよこれ! 特定班はよ!』
『無理だろ、匿名出品だしギルドのセキュリティは鉄壁だ』
都内、とある高層ビルの一室。
『月読ギルド』のギルドマスター・月島蓮は、ワイングラスを片手に、モニターの数字を冷ややかに見つめていた。
彼の横には、ギルドの財務担当者が青い顔で控えている。
「……マスター。現在1億9000万。予算の上限が近づいています」
「構わん。行け」
月島は即答した。
「あれは単なる装備じゃない。ギルドの『旗印』になる。
『月読ギルドのパーティに入れば、魔法攻撃は無効化される』。その謳い文句だけで、どれだけの優秀な新人が集まると思う?
広告宣伝費として考えれば、2億でも安い」
「は、はいっ! 2億入れます!」
【現在価格:200,000,000円】
数字が2億の大台に乗った瞬間、ネットのサーバーが重くなった。
あまりのアクセス集中に、表示が遅延し始める。
「2億!? 装備一つに2億!?」
「サラリーマンの生涯年収が一瞬で……」
「これ出品した奴、前世で国でも救ったのか!?」
出品者は「匿名希望」。それがさらに人々の想像力を掻き立てた。
たまたま運良くドロップした初心者か。
それとも、命がけで深層に潜ったベテランか。
いずれにせよ、その人物は今夜、人生の全てが変わる。
***
オークション終了まで残り1分。
価格は2億3000万円で膠着していた。
入札しているのは、月読ギルドと、おそらく海外の資本が入った謎のアカウントの二者。
「……マスター。相手が引かないようです」
月島の部下が悲鳴を上げる。
「これ以上はギルドの運営資金に影響が……」
月島は目を細めた。彼の『蒼月の太刀』が、共鳴するように微かに震えている。
彼は決断した。
「私の個人資産を投入する。あと2000万乗せろ。これで決めるぞ」
残り10秒。画面の数字が最後に大きく跳ね上がった。
【現在価格:250,000,000円】
5……4……3……2……1……。
【オークション終了】
【落札価格:2億5000万円】
【落札者:月読ギルド】
「――決まったァァァァァァァッ!!!」
日本中が、安堵と興奮の入り混じった溜息をついた。
2億5000万円。装備一つに2億5000万円。
サラリーマンの生涯年収に匹敵する金額が、たった一つの首輪のために動いた瞬間だった。
だが、その熱狂の中で、ふと冷静になった誰かがSNSに一つの疑問を投げかけた。
『待てよ。これ税金どうなんの?』
『2億5000万って雑所得? 一時所得?』
『最高税率55%だろ。半分以上持ってかれるなら夢なくね?』
その疑問は、冷水のように人々の興奮を冷ましそうになった。
所詮、国が胴元のギャンブルだ。結局は税金で巻き上げられるオチなのか――。
その疑念を一瞬で、そして完全に粉砕するアナウンスが、オークション会場に響き渡った。
壇上のオークショニア・サイモンが、高らかに宣言したのだ。
「――落札者様、おめでとうございます!
そして出品者様! おめでとうございます!
この2億5000万円は、貴方のものです!」
彼は、世界に向けて、この『ダンジョン・エイジ』における最も重要な経済ルールを、改めて高らかに宣言した。
「ここで公式な通達を、改めて皆様にお伝えいたします!
本オークション、及び今後行われる全てのダンジョン産出物の売買において発生した利益は――
日本・アメリカ・中国・ロシア。
この四カ国間において締結された『ダンジョン資源特別協定』に基づき、未来永劫、完全に『非課税』であります!!!」
会場が、一瞬の静寂の後、爆発した。
「所得税、住民税、復興特別所得税! 一切かかりません!
アメリカの連邦税も、中国の増値税も、ロシアの付加価値税も、一切適用されません!
これは命がけでフロンティアに挑んだ探索者への国家からの敬意であり、絶対の契約です!
2億5000万円から引かれるのは、オークション手数料5%のみ!
残り2億3750万円は、全額出品者様の懐に入ります!!」
その宣言は、日本だけでなく、世界中の探索者たちを狂喜させた。
アメリカ・ニューヨークのタイムズスクエア。
大型ビジョンで中継を見ていた若者たちが、帽子を空に投げ上げて歓声を上げていた。
「Tax-Free!(無税だ!)」
「USA! USA!」
「俺たちが稼いだ金は、俺たちのものだ!」
中国・上海のネットカフェ。
画面を見つめる若者たちが拳を突き上げていた。
「国は俺たちの邪魔をしない!」
「これが本当の『共同富裕』だ!」
ロシア・モスクワの地下バー。
ウォッカを煽る男たちが、グラスを叩きつけて祝っていた。
「官僚どもの小遣い稼ぎにはさせん!」
「皇帝陛下万歳!」
世界は理解した。
ダンジョン関連の利益(魔石除く)は聖域なのだと。
そこには、面倒な確定申告も、重い税負担も存在しない。
あるのは、純粋な冒険の対価としての莫大な富だけだと。
SNSのトレンドは完全に埋め尽くされた。
『#2億5000万』 『#月読ギルド』 『#ピュアエレメント』 『#ダンジョンドリーム』 『#完全非課税』 『#タックスヘイブン』
『2億3750万、まるまる手取りかよ……』
『手取り2億……』
『宝くじより夢あるじゃねーか!』
『ダンジョン関連だから探索者は所得税なし(魔石除く)、だからオークション手数料5%引いたらその分丸儲けだなぁ、ダンジョンドリーム、夢があるなぁ…』
『明日から仕事辞めるわ。俺も掘る』
この一件は、国民の意識を――そして世界の意識を――決定的に変えた。
ダンジョンは小遣い稼ぎの場ではない。人生を一発逆転できる、現代に残された唯一のフロンティアなのだと。
そして、その果実はいかなる国家権力によっても掠め取られることのない、純粋な「個人の勝利」として、国際的に保証されているのだと。
***
そして、その狂騒から遠く離れた、東京のマンションの一室。
この祭りの仕掛け人である二人の「神」が、静かにその結末を見届けていた。
「……2億5000万か。意外と伸びたわね」
ワークチェアに座る本体の栞が、コーヒーを飲みながら呟いた。
「まあ、あの性能なら妥当かしら。E級攻略の必須アイテムになるし」
ソファに寝転がる分身のKAMIが、呆れたように言った。
「あなた、あんな壊れアイテム、いつの間にドロップテーブルに仕込んでたのよ?」
栞は悪戯っぽく笑った。
「あれ、私が昨日気まぐれで作って、適当な、迷い込んだ初心者の目の前の宝箱に入れたやつだもの」
「はあ!?」
KAMIが飛び起きた。
「職権乱用じゃない! ていうか、それを拾ったラッキーな人って誰よ?」
「さあねぇ」
栞はモニターのログを確認した。
「……ああ、あの子か。渋谷で最初にバット持って突っ込んでいった、あの無鉄砲な大学生グループの一人ね。仲間とはぐれて、泣きそうになりながら迷い込んだ隠し部屋で、偶然見つけたみたい」
彼女は目を細めた。
「良かったじゃない。彼、実家の工場が倒産しそうで、大学辞めるか悩んでたみたいだし。これで借金も返せて、工場も立て直せるわね。おまけに非課税だから、工場設備への投資も余裕でしょう」
「……神様の気まぐれって、怖いわね」
KAMIは苦笑した。
「たった一つのアイテムで、一人の人間の運命を変えちゃうんだから」
「それがダンジョンよ」
栞は断言した。
「運と実力、そしてほんの少しの奇跡があれば、誰でも英雄になれる。
そしてその報酬は誰にも奪われない。税金なんていうシステムで目減りすることもなく、その全てが挑戦者のものになる。
そういう『完璧な夢』を見せてあげないと、人間は本気で頑張れないでしょ?
だから、あの四カ国のトップたちにも、きつーく言っておいたのよ。『税金かけたら承知しないわよ』って」
彼女はウィンドウを閉じた。
「さあ、これで餌は撒いたわ。2億の夢を見た人間たちが、明日からどう動くか。
日本だけじゃない、アメリカも中国もロシアも、世界中がこの『非課税ドリーム』に酔いしれてる。
……楽しみね」
窓の外、眠らない東京の街。
その無数の光の一つ一つに、今夜、強烈な欲望と希望の火が灯ったことを彼女は知っていた。
その光は、神が保証した「非課税」という最強の燃料を得て、これから国境を超えて、さらに激しく燃え上がることだろう。




