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賢者の石を手に入れた在宅ワーカーだけど、神様って呼ばれてるっぽい  作者: パラレル・ゲーマー


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第117話

 深夜。東京・橘栞のマンションの一室。

 その部屋は、世界の運命を左右する神の玉座であると同時に、今や宇宙で最も静かで、そして最も高度なシミュレーションが行われる神託の間と化していた。壁一面に投影されたホログラフィック・ディスプレイには、渋谷、大阪、ニューヨーク、モスクワ…世界中のダンジョンゲート前の熱狂が、リアルタイムで映し出されている。だが、その光景はもはや現実の映像ではなかった。それらは全て、栞の超演算能力によって構築された未来予測シミュレーションのウィンドウだった。数多のパラメータが複雑に絡み合い、膨大な数の「if」の未来を、光の粒子となって描き出しては、また静かに消えていく。


『シミュレーション#734:E級ダンジョン『腐敗した聖堂』を、現行の探索者レベル分布および装備状態で解放した場合の、最初の24時間における推定死亡者(HPゼロによる戦闘不能者)数』


 ディスプレイに弾き出された数字は、無慈悲な赤色で点滅していた。


『――死亡者数:17,521名』


「うーん……やっぱりダメよねぇ」


 本体である橘栞は、ワークチェアに深く身を沈め、その絶望的な数字を眺めながら、深いため息をついた。彼女の傍らでは、ゴシック・ロリータのドレスに身を包んだ分身のKAMIが、同じように腕を組んでモニターを睨んでいる。


 二人の栞。創造主と、その代理人。

 彼女たちは今、次のアップデート…すなわち『E級ダンジョン』の解放時期を巡る、最も重要な戦略会議を行っていた。世界中の探索者たちが、そして軍隊が、次のステージへの扉が開かれるのを今か今かと待ち望んでいる。だが、ゲームマスターである彼女は、その熱狂に水を差す冷徹な決断を下さざるを得なかった。


「死人が出るのは、さすがにまずいのよねぇ…」と栞が呟いた。「初日から万単位で戦闘不能者が出たら、さすがに麻生さんたちの胃が持たないわ。世界中が大パニックになって、ダンジョン閉鎖を求める声で炎上する未来しか見えない」


「自明の理よね」とKAMIも同意した。「今の探索者たち、完全に調子に乗ってるもの。F級のゴブリン相手に『俺TUEEE』して、レベル5になったくらいで自分が最強だと勘違いしちゃってる。でも実際は、装備も戦術も全部ゴブリン特化。あまりにも貧弱すぎるわ」


 栞は、シミュレーションのパラメータを調整し、E級ダンジョンで出現が予測される代表的なモンスターのデータを表示させた。


『スケルトン・アーチャー:氷属性の矢による遠隔物理攻撃』

『ゾンビ・コープス:接触時に継続的な毒ダメージを与える瘴気を放出』

『フレイム・インプ:小規模な火炎弾を連射する飛行型モンスター』


「見てよ、これ」と栞は言った。「今の探索者たちの装備、ほとんど物理防御オンリー。火炎耐性? 氷結耐性? 毒耐性? 何それ美味しいの、の状態よ。防御捨てて攻撃力に全振りしてる脳筋ビルドばっかり。こんな状態でE級に突っ込ませたら、スケルトンの初撃で凍りついて、ゾンビの瘴気でじわじわHP削られて、何もできずに死ぬ。集団でね」


「防御を捨てて、攻撃ばっかり上げてるビルドが多いのが問題よね。今はほぼゴブリンの直接攻撃しかないから、属性防御なんておろそかにしてる」とKAMIも頷いた。「あの並行世界のプレイヤーたちなら、新しいダンジョンに挑む前には、まずレジスタンス(耐性)の値を上限まで確保するのは常識中の常識なのに。まあ、この世界のプレイヤーたちは、まだその『常識』を知らない赤ん坊だから仕方ないけど」


「だから、まだE級の解禁はしないわ」


 栞はきっぱりと宣言した。ゲームバランスを崩壊させるアップデートを強行するほど、彼女は愚かなゲームマスターではなかった。


「彼らには、もう少し耐性や防御の重要性を、身をもって学んでもらう必要があるわ」


「でも、ただ停滞させるだけじゃ芸がないわよね」と栞は続けた。「F級ダンジョンに籠り続けても、レベルはもう上がらない。ドロップ品も代わり映えしない。プレイヤーたちが『飽きて』しまうわ。オンラインゲーム運営の基本は、プレイヤーを飽きさせないこと。常に新しい目標と、新しい遊び方を提供し続けないと、ユーザーは離れていく」


 彼女はコーヒーを一口すすると、この膠着状態を打破するための、そしてプレイヤーたちに新しい「沼」を提供する悪魔的なアイデアを口にした。


「とりあえず、クラフトオーブを解禁しようかしら」


 その言葉に、KAMIの赤い瞳がキラリと光った。


「あら、良いじゃない。ついに本当の地獄ハクスラの始まりね」


 クラフトオーブ。

 それは、栞が観測した並行世界のダンジョン経済圏の根幹をなす通貨でありながら、装備強化の触媒でもある万能のアイテム群。


 栞はホログラム・ディスプレイに、今回F級ダンジョンに実装する予定の、最も基本的なオーブのリストを映し出した。そのデザインは、彼女が並行世界で見たものを忠実に再現しつつ、この世界の人間たちが直感的にその価値を理解できるよう、微細な調整が加えられていた。


【富のオーブ】

 効果:ノーマル等級のアイテムを、魔法の力を持つマジック等級(青アイテム)に変化させ、ランダムな1~2個の魔法特性を付与する。


【変化のオーブ】

 効果:マジック等級のアイテムの魔法特性を、ランダムに再抽選リロールする。



「とりあえず今回は、この二つね」と栞は言った。「既存のノーマル装備――それこそ、スポーツ用品店で買った野球のバットや、ホームセンターで買った鉄パイプにさえ、魔法の力を付与できるようになる。あるいは、ゴブリンからドロップした、しょっぱい性能のマジック装備の性能を、自分好みのものに作り変えることができる。これでクラフトオーブを市場で売って金にするもよし、自分で使って最強のF級装備を作るもよし。遊び方の幅が、格段に広がるわ」


 KAMIは腕を組みながら、その計画の穴を指摘した。


「でも、それだけで大丈夫? 私たちが観測した、あの並行世界だと、探索者全員が何らかの『ユニークスキル』を持ってるから、クラフトの結果を、ある程度有利に操作できるのよね? 例えば『クラフト結果において火属性関連の特性が出現する確率が僅かに上昇する』とか、『より高い数値の特性を引き当てる確率が0.1%アップする』みたいな、地味だけど重要な個人差が。この世界には、まだそのユニークスキルがないじゃない。全人類にユニークスキルを付与するのは、さすがのあなたでも対価が重すぎて少し無理だったし…。純粋な運だけのクラフトは、あまりにも過酷なギャンブルにならない?」


「良いところに気づいたわね、私」

 栞はにやりと笑った。


「そう。あの並行世界のデータと、今のこの世界のプレイヤーたちの最大の違いは、その『ユニークスキル』の有無なのよ。あちらでは、クラフトは確率との戦いであると同時に、自分のスキルと知識を駆使する戦略的な行為でもある。でも、この世界では今のままじゃ、ただの『ガチャ』でしかない。それじゃあ、あまりにも味気ないし、富の再分配どころか、一部の豪運の持ち主が全てを独占するだけの、不健全な市場になってしまうわ」


 栞は数秒間、何かを高速で計算するように目を閉じた。彼女の脳内では、数兆パターンのシミュレーションが一瞬で実行されていた。


「…良いクラフト結果を引き当てるユニークスキルがないというハンデを考慮すると、オーブの流通量は少し増やした方がいいわね。そうね…並行世界のデータと比較して、とりあえずドロップ率を三倍くらいに設定してみるか」


「三倍で足りるかしら?」とKAMIが問うた。


「分からないわ。足りなければもっと増やす。足りすぎれば減らす。それだけよ。世界の経済なんて、しょせんパラメータ調整の一つでしかないもの。市場の反応を見ながら、リアルタイムで微調整すればいい」


 栞のその言葉は、もはや人間のエコノミストのそれではなく、全てを観測し、全てを操作する神の領域に属していた。


「……いっそ、ユニークスキルを付与するオーブでも流通させる?」

 栞がぽつりと呟いた。


「特定のユニークスキルを、極稀にドロップするオーブとして実装する。例えば『クラフトの達人』のオーブとか、『鑑定の天才』のオーブとか。それを手に入れた者は、クラフトにおいて絶対的な優位に立てる。それも面白いかもしれないわね」


 だが、彼女はすぐにそのアイデアを打ち消した。


「うーん……でも、思いつきでそういう世界の根幹に関わるシステムを実装するのはまずいわね。やりたくないわ。一つのユニークスキルが、世界のパワーバランスをどれだけ歪ませるか、まだデータが足りなすぎる。世界の誰か一人が『スキルオーブ』をドロップしただけで、経済が崩壊するかもしれないんだから」


 彼女は極めて慎重だった。神の力を持つが故に、その力の行使には、誰よりも臆病でなければならないことを、彼女は本能的に理解していた。一つの軽率なアップデートが、愛すべきゲームをクソゲーに変えてしまうことを、彼女は過去の数々のゲーム経験から嫌というほど知っていた。


「とりあえず、オーブの流通量は三倍で様子を見る。それで決まりね」


 栞は結論を下した。そして、ソファの上で退屈そうにしているもう一人の自分に、いつものように最も面倒な仕事を命じた。


「よし、KAMI。あんた、クラフトオーブがドロップするようになるってことを、四カ国のあの面倒な中間管理職たちに『神託』して来なさい」


「はーい」


 KAMIは、まるでコンビニにアイスを買いに行くかのような軽い足取りで立ち上がった。その手には、既に日本の首相公邸の応接室に置かれているはずの最高級の羊羹が、ホログラムとなって具現化している。


「ついでに、これも要求してこないとね」


 彼女は悪戯っぽく笑った。


「それでKAMI」と栞は最後の指示を与えた。「クラフトオーブの正確なドロップ率については、絶対に言うんじゃないわよ。内緒よ、内緒」


「なんで?」


「その方が面白いじゃない」と栞は笑った。「需要が高いのは分かりきってるから、多めに流通させる予定だけど、その具体的な数字はこっちの手の内よ。ドロップ率をリアルタイムで調整すれば、市場の熱狂をこちらの意のままにコントロールできる。インフレもデフレも、全ては私の指先一つ。…経済を裏から操るのって、最高のオンラインゲームの醍醐味でしょ?」


 その顔は、もはや善なる神のそれではない。世界の全てを自らの実験場と見なし、そのカオスな変化を心から楽しむマッドサイエンティストの、あるいは究極のゲーマーの顔だった。


 その神託は、深夜の首相公邸に、いつものように唐突にもたらされた。


 ソファの上に顕現したKAMIは、九条が慌てて用意させた最高級の抹茶をすすりながら、まるでテレビの経済ニュースでも語るかのように、その驚くべき「経済対策」を発表した。


「――というわけで、近々ダンジョンに新しいアイテムを追加するわ。『クラフトオーブ』。ノーマルやマジックのゴミアイテムを、自分好みの強力な装備に作り変えられる便利な道具よ。これであなたたちの経済も、もっと活性化するでしょうね。感謝なさい」


 その、あまりにも上から目線な、しかしあまりにも魅力的な発表。

 沢村総理と九条官房長官の四つの身体は、その言葉の意味を瞬時に理解し、戦慄した。


 クラフト。

 それは探索者経済に、全く新しい次元をもたらす。

 ただモンスターを狩って魔石を売るだけの、単純な労働集約型産業からの脱却。

 運と知識と、そして莫大な資金を駆使して一攫千金を狙う、高度な知的金融産業への変貌。

 一部の「神引き」をしたクラフターが億万長者になり、大多数の凡人がギャンブルの沼に沈んで破産していく、新しい、そしてより残酷な格差社会の始まり。


「……KAMI様。そのオーブの供給量…ドロップ率とやらは、一体どの程度に…?」

 九条が恐る恐る尋ねた。


「さあ? 内緒よ、そんなの」


 KAMIは、にこりと意地悪く笑った。「需要が高いのは分かりきってるから、まあそれなりに多めに流通させるつもりだけど。あとは、あなたたちが実際にダンジョンに潜って、自分の目で確かめなさいな。その方がゲームは面白いでしょう?」


 そして彼女は付け加えた。「市場の熱狂を、こちらの意のままにコントロールできる。…経済を裏から操るのって、最高のオンラインゲームの醍醐味でしょ?」


 その、あまりにも正直で、そしてあまりにも神視点な本音。

 九条は、その言葉の裏にあるKAMIという存在の、底知れない恐ろしさを改めて感じていた。彼女は経済を安定させたいのではない。経済という最もカオスで面白いパラメータを、ただ弄んでみたいだけなのだ。


「…まあ、何はともあれ、これで停滞していた探索者たちの新しい目標ができたわね。めでたし、めでたし」


 KAMIは、もう用事は済んだとばかりに湯呑みを置いた。


「じゃあ、この話、他の三国のお友達にもちゃんと伝えておいてくれる? 私、忙しいから」


 その、いつもの丸投げの言葉を残して、神の代理人は、すっとその場から姿を消した。


 後に残された沢村と九条は、ただ顔を見合わせるだけだった。

 彼らの頭の中には、これから始まろうとしている新しい地獄の光景が、ありありと浮かんでいた。


 国会で「クラフトオーブのドロップ率を公開しろ!」と叫ぶ野党議員。

 テレビで「あなたも一週間で億万長者! 必勝クラフト術!」などと嘯く胡散臭いコンサルタント。

 そして、けちなF級オーブを一個拾っては一喜一憂し、その価値の乱高下に人生を狂わされる、一億二千万の国民たち。


 その、あまりにも人間臭く、そしてどこまでも不毛な新しい狂騒の始まり。


「……九条君」

 沢村が、心の底から疲れ果てた声で言った。

「我々の胃は、一体いつになったら休まるのだろうな……」


 その問いに、九条は答えなかった。

 ただ、彼の四つの身体のうちの一つが、静かに、そして機械のように、


『クラフトオーブ出現に伴う経済変動予測及び関連法規(ギャンブル依存症対策法案及び古物営業法改正案)に関する緊急検討会』


 という、新しい、そして終わりのない地獄の看板を、描き始めていただけだった。



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― 新着の感想 ―
> だから、まだE級の解禁はしないわ じゅーぶん善神でしょー、栞さん。 ダンジョンというコンテンツ維持のためとはいえ、死者を目安に自制できるんだから。 神的存在は皆それぞれのジャンルでのゲーマーと言え…
それはまるで神からの使命を受けているようなものです。
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