番外編 断章4話
フィラデルフィアの夜は、かつてないほど静かで、そして明るかった。
コロニー『ノアズ・アーク』の中心、旧ショッピングモールの屋上に新設された「天空庭園」。
KAMIが気まぐれで創造したその場所は、下界の廃墟とは隔絶された別天地だった。
青々と茂る芝生、香り高い夜咲きの花々、そしてクリスタルガラスで覆われたドーム状の天蓋が、放射能を含んだ風を完全にシャットアウトしている。
その庭園の中央に置かれた白いガーデンテーブルで、二つの影が向かい合っていた。
一人はこのコロニーの守護者であり、軍事指導者となったミラー。
もう一人は、この世界の新たな支配者、KAMI。
「……いい月だ」
ミラーはバカラのグラスに注がれた琥珀色の液体――年代物のバーボンを揺らしながら、夜空を見上げた。
雲の切れ間から覗く満月は、地上で起きている惨劇など知らぬげに、冷たく美しい光を放っている。
「そうね。空気中の粉塵濃度が下がったから、月が綺麗に見えるわ」
KAMIはテーブルの上に並べられた豪勢なオードブル――生ハム、チーズ、キャビア、そして瑞々しいフルーツ――をつまみながら、退屈そうに応じた。
彼女の手元にあるのは酒ではなく、氷の入った最高級のジンジャーエールだ。
「平和だな……」
ミラーがつぶやいた。
「壁の外ではゾンビがうめき声を上げているというのに、ここではこんな上等な酒と肴で晩酌ができる。……あんたが現れる前には想像もできなかった贅沢だ」
「感謝しなさいよ。私の労働力たちには、最高の福利厚生を提供するのがポリシーなの」
KAMIはフォークでメロンを刺した。
「で? さっきから何か言いたげな顔してるけど。今日は無礼講よ、何でも聞きなさい」
ミラーは苦笑した。
この少女の外見をした超越者には、人間の機微などお見通しらしい。
彼はグラスを置き、真剣な眼差しでKAMIを見据えた。
「……なあボス。いや、KAMI様」
「KAMIでいいわよ。様をつけると背中が痒くなる」
「分かった、KAMI。……ふと思ったんだが、他所の国はどうなってると思う?」
「他所の国?」
「ああ。アメリカ以外の世界だ」
ミラーは南の方角、大西洋の彼方にあるはずの旧大陸へと思いを馳せた。
「パンデミックから5年。俺たちはこの無線機で必死に信号を送り続けているし、軍の緊急周波数も傍受し続けている。
だが……聞こえてくるのはノイズか、自動再生される古い避難勧告だけだ。
海外からの救援はおろか、連絡一つない。
これは……他の国もアメリカと同じように、あるいはそれ以上にダメになっちまったんじゃないか?」
その問いに、KAMIは食べる手を止めた。
彼女は少しだけ考えるように視線を宙に彷徨わせ、そして肩をすくめた。
「……あー、やっぱり? あなたもそう思う?」
「ああ。思いたくはないがな」
ミラーは重々しく頷いた。
「Z-9ウイルスの感染力は爆発的だった。航空網を通じて、数日で世界中に拡散したはずだ。
だがそれだけなら、生き残った国があってもおかしくない。
島国や閉鎖的な国家なら、検疫で防げたかもしれない。
問題はその後の『変異』だ」
ミラーは、自身の顔の火傷跡を無意識に撫でた。
「ミュータント(変異体)。奴らの存在が決定打だ。
初期のゾンビだけなら、警察や軍隊で制圧できたかもしれない。
だが奴らは違う。
筋肉が肥大化し、皮膚が装甲のように硬化し、銃弾すら弾き返す怪物たち。
奴らを止めるには、高火力の重火器と、それを惜しみなくばら撒ける弾薬の備蓄、そして何より『撃つことを躊躇わない』文化が必要だ」
ミラーはテーブルの上のナイフを指さした。
「俺の推測だが……銃社会であるアメリカ以外は、残念ながらミュータントにやられたと思うぞ。
市民が武装していない国、あるいは軍隊の初動が遅れた国では、最初の変異体の発生と共に防衛線が崩壊したはずだ」
「なるほどねぇ……」
KAMIは感心したように頷いた。
「一理あるわね。
私じゃ流石に、ここから地球全土を詳細にスキャンすることはできないから、あくまで憶測だけど……。
あなたの言う通り、生存反応の密度を感じるのは、この北米大陸が一番強い気がするわ」
彼女は、自分の本体である橘栞から与えられた機能の限界について、少しだけぼやいた。
「本体なら惑星ごと、もっと詳しく解析できるんでしょうけど、私はあくまで『現地用ドローン』だからね。センサーの出力に限界があるのよ。
でも、海を越えた向こう側から、組織だった『文明の灯火』みたいなものはあんまり感じないわね」
「そうか……。やはり全滅か」
ミラーは目を伏せた。
「ヨーロッパも、アジアも……」
「全滅とは限らないんじゃない?」
KAMIはジンジャーエールの泡を見つめながら言った。
「一応、日本……私の本体が住んでた国あたりがどうなってるかは、個人的に気になる所なんだけど。
ミラー、あなたの軍人としての知識で、日本はどうなってると思う?」
「日本か……」
ミラーは記憶の底から、極東の島国の情報を引っ張り出した。
「同盟国だったからな、ある程度の知識はある。
……正直に言えば、絶望的だろうな」
「理由は?」
「銃がないからだ」
ミラーは即答した。
「日本は世界でも稀に見るほど治安が良く、銃規制が厳しい国だった。
警官でさえ、発砲には厳格な手続きが必要だと聞く。
そんな国に、あの走る死体どもや銃弾を弾くミュータントが現れたらどうなる?
市民に対抗手段はない。
自衛隊という組織は優秀だと聞くが、彼らは『専守防衛』だ。
国内での大規模な武力行使、ましてや感染した自国民への攻撃にどれだけ迅速に踏み切れたか……。
政治的な判断が遅れれば、その間に都市部は壊滅する」
「……まあそうよね」
KAMIは苦笑した。
平和ボケした日本政府がゾンビパンデミックに即応できる姿は、彼女の想像力をもってしてもイメージしにくかった。
「会議してる間に、国民全員ゾンビになってそうね」
「だが……」
ミラーは顎をさすりながら、思考を巡らせた。
「いや待てよ。全滅はしていないかもしれん。
ミュータントの変異特性によっては、隠れ住むぐらいは出来るのか?」
「どういうこと?」
「地理だ」
ミラーはテーブルの上のナプキンを広げ、指で簡易的な地図を描いた。
「俺は日本の地理には詳しくないが……確か国土の7割以上が山地だったはずだ。
平地が少なく、都市部は海岸沿いに集中している。
逆に言えば、内陸部は険しい山々で分断されている」
彼はナプキンの山岳地帯を指さした。
「ミュータントは強力だが、燃費が悪い。
奴らは獲物(人間)の多い都市部に留まる傾向がある。
険しい山越えをしてまで過疎地へ移動する個体は少ないんじゃないか?
それに、日本のトンネルや橋を落とせば、物理的に隔離されたエリアを作りやすい」
「あー、なるほど!」
KAMIはポンと手を打った。
「天然の要塞ね。
『進撃の巨人』みたいに壁を作るまでもなく、山奥の集落とかダムの上とか、孤立した地形を利用して生き残ってるコミュニティはあるかもね」
「そうだな。特に伝統的な猟師や、農業で自給自足ができる地域なら、銃がなくとも罠や地形を利用して、細々と生き延びている可能性はある」
「へえ、面白そう。隠れ里の生存者たちか。
もし回収に行けたら、日本の伝統工芸品とかごっそり残ってそうね」
KAMIの目が、「対価」の色に輝く。
「ロシアはどうかしら? あそこも広いけど」
「ロシアか……」
ミラーはニヤリと笑った。
「あそこは間違いなく生き残ってるだろうな。
まず銃器の数がアメリカに次いで多い。国民性もタフだ。
そして何より『冬将軍』がいる」
「冬将軍?」
「寒さだ。
変異ウイルスZ-9がどれほど強力でも、生物である以上、物理的な凍結には勝てない。
マイナス30度、40度にもなる極寒のシベリアでは、ゾンビもミュータントも細胞液が凍りついて動けなくなるはずだ。
冬の間は、人間にとっての安全地帯になる」
「ああ、なるほどね。冷凍ゾンビか」
KAMIは想像して、少し笑った。
「じゃあロシア人は、冬の間に凍ったゾンビをハンマーで砕いて回ればいいわけね。効率的だわ」
「そういうことだ。
それに、あの国の地下鉄や核シェルターは、都市一つが丸ごと生活できるほど巨大で堅牢だと聞く。
モスクワやサンクトペテルブルクの地下深くに、巨大な地下帝国が築かれている可能性は高いな」
「地下帝国……。それもロマンがあるわね」
二人の推測は続いた。
島国であるイギリスやオーストラリアは、早期に国境を封鎖していれば生き残っているかもしれない。
逆に、陸続きで人口密度の高い中国やインドは、想像を絶するパンデミックの震源地となっているかもしれない。
アフリカや南米の密林地帯では、文明とは無縁の部族たちが、何事もなかったかのように暮らしているかもしれない。
「……こうして考えると、案外アメリカ以外も大丈夫かも?」
KAMIは希望的観測を口にした。
「いや」
ミラーは首を振った。
「生存者が『点』として残っている可能性はある。
だが『国家』としての機能は……やはり崩壊してるとみる方が良いだろう」
「どうして?」
「救援が来ていないからだ」
ミラーは現実を突きつけた。
「もしどこかの大国が政府機能を維持し、軍隊を再建できているなら……5年もあれば必ず偵察機や衛星通信で、他の地域の状況を確認しようとするはずだ。
特にここアメリカは、かつての超大国だ。
何らかの干渉や、あるいは資源の回収に来てもおかしくない。
それがないということは……彼らもまた自国の維持だけで手一杯か、あるいは外に出る力を失っているということだ」
「……そっか。現実はシビアね」
KAMIは少しだけつまらなそうにした。
「じゃあやっぱり、頼りになるのは自分たちだけってことね」
「ああ。だが今は、あんたがいる」
ミラーは力強く言った。
「あんたがもたらしてくれた食料と装備、そしてこの城壁都市。
これがあれば、我々は生き残るだけでなく『再建』することができる。
まずはこのフィラデルフィアを。そしてペンシルベニアを」
「そうね。目標は大きく持ちましょ」
KAMIは立ち上がり、夜風に吹かれながら宣言した。
「とりあえずの目標は、アメリカ全土の貴金属の回収よ。
東海岸から西海岸まで、全ての廃墟を漁り尽くして、金目の物を私の懐に入れるの」
彼女は、はるか西の方角を指さした。
「そのためには、もっと人手が要るし、もっと支配地域を広げなきゃいけない。
キャラバンの連中が広めてくれた噂が効いてくれば、西からも人が集まってくるはずよ」
「そしてアメリカ全土を回収し終わったら?」
ミラーが尋ねた。
「あんたはどうするつもりだ? 元の世界に帰るのか?」
「うーん、そうねぇ……」
KAMIは空を見上げた。
「本体との契約もあるから、簡単には帰れないけど。
アメリカが終わったら、次は他国に行きたいわね。
ヨーロッパの美術館に残ってる絵画とか、王冠とか。
中国の紫禁城にあるお宝とか。
ロシアのダイヤモンド鉱山とか。
地球全土の『お宝』を回収し尽くすまで、私の旅は終わらないわ」
彼女は、壮大でそして強欲な計画を語った。
それは一種の世界征服宣言にも似ていたが、武力による支配ではなく、経済と物資による救済と搾取の旅だ。
「そして最終的には……」
KAMIの声が、少しだけ優しくなった。
「地球全土を回収し終わったら、あなたたち人間をどこか『安全な世界』にでも連れて行ってあげようかしら」
「……安全な世界だと?」
「ええ。私の力なら、並行世界へのゲートを開くこともできる(かもしれないし、本体に頼めば確実だ)。
ゾンビもミュータントもいない、緑豊かな新天地。
あるいはこの星を浄化して、最初からやり直せるようにリセットするのもいいかもね」
「そこで人類再建したら良いわ」
彼女は女神のように微笑んだ。
「まあこれはまだ先の話だけどね。
まずは目の前のゴミ拾い……じゃなくて資源回収からよ」
ミラーは言葉を失った。
この少女が見ているヴィジョンは、あまりにも壮大で、そしてあまりにも希望に満ちていた。
ただの食料の取引から始まった関係が、いつしか人類種の存亡と再生をかけたプロジェクトへと変貌しようとしている。
だが悪い気はしなかった。
泥水をすすって死を待つだけの運命だった自分が、今、人類の未来を切り開く最前線に立っているのだ。
「……分かった。ついていこう、どこまでも」
ミラーは残りのバーボンを一気に飲み干した。
「あんたが神だろうが悪魔だろうが関係ない。
あんたが示す道が、我々にとっての唯一の『明日』だ」
「ふふ、頼もしいわね」
KAMIは満足げに頷いた。
「さて、雑談はこれくらいにして。
明日の予定を確認しましょうか。
西のキャラバンから連絡があったわ。
『ピッツバーグの製鉄所跡地に、大規模な生存者コミュニティを発見した』って。
ただし、そこはミュータントの巣窟に囲まれていて、孤立無援の状態らしいわ」
「ピッツバーグか……。鉄の街だな」
ミラーの目が、軍人のそれに戻った。
「救出作戦か?」
「ええ。ついでに製鉄所に残ってる資材と、彼らの持ってる貴金属も回収よ。
強化した銃と、あんたの戦車部隊の出番ね。
見せつけてやりなさい。私たちの『文明の力』を」
「了解した。直ちに出撃準備にかかる」
ミラーは敬礼し、足早に庭園を後にした。
KAMIは一人、夜空に残された。
彼女は手元の端末(地球のスマホを魔改造したもの)を取り出し、メッセージアプリを起動した。
宛先は『本体』。
『件名:定期報告
北米大陸順調に制圧中。
現地民の懐柔も完了。戦力増強中。
ミュータントのサンプル必要なら送るけど?
あとこっちの世界の月、結構綺麗よ。
PS. お風呂は最高。』
送信ボタンを押す。
メッセージは次元を超えて、別の世界を旅する本体の元へと飛んでいく。
「さーて、私も寝ようかな」
KAMIは大きく伸びをした。
廃墟の女神の夜は更けていく。
明日はまた忙しくなる。
金と銀と、そして人間の欲望と希望が渦巻く、新しい一日が始まるのだから。




