番外編 断章1話
これは栞が並行世界を旅していた時の話。
次元の狭間を縫うような、極彩色の光のトンネルを抜けた先。
橘栞(本体)が降り立ったその大地は、どこまでも続く灰色に染まっていた。
空は鉛色の厚い雲に覆われ、太陽は病的なまでに白く霞んでいる。
かつて文明を誇ったであろう摩天楼は、巨人の肋骨のように無残に折れ砕け、アスファルトの大地には無数の亀裂が走っていた。
風が吹くたびに、乾いた土埃と共に何かが腐ったような、甘ったるい異臭が鼻をつく。
「……うわぁ」
栞は自身の周囲に即座に不可視の遮断フィールドを展開しつつ、心底嫌そうな声を上げた。
彼女が立っているのは、かつて交差点だった場所のようだ。
錆びついた信号機が首を垂れ、横転したバスの残骸には乾燥したどす黒い染みがこびりついている。
そしてその瓦礫の陰から、うめき声と共に這い出してくる者たちがいた。
皮膚が剥がれ落ち、虚ろな眼窩に狂気だけを宿した、かつての人間たち。
「ゾンビパニックものね。……はずれだわ」
栞は瞬時に興味を失った。
彼女の目的は、自身の『全能』に至るための対価の収集と、知的好奇心を満たすことだ。
だがこの世界は、あまりにも「枯れ」すぎていた。
彼女は軽く指を振るい、アカシックレコード――この宇宙の記憶そのもの――へとアクセスする。
脳内に膨大な情報が、奔流となって流れ込む。
『西暦20XX年。未知のウイルス「Z-9」のパンデミックにより旧文明は崩壊。人類の70%が死滅または変異。生存者は各地に点在するコロニーで細々と生き延びている。文明崩壊からおよそ5年が経過――』
「文明崩壊から5年……。復興には程遠いし、かといって崩壊直後のパニックのようなエネルギーもない。一番旨味のない時期じゃない」
栞はため息をついた。
この世界に、彼女が直接手を下してまで手に入れたい「未知のテクノロジー」や「魔法技術」は存在しない。
あるのは、過去の遺産である貴金属や資源と、絶望だけだ。
だが資源は資源だ。腐らせておくには惜しい。
「……仕方ないわね。ここは『支店』にして、現地採用に任せましょう」
栞は自身の影に向かって語りかけるように、指をパチンと鳴らした。
彼女の足元の影が沸騰するように泡立ち、立体的に盛り上がる。
漆黒の闇が形を成し、色彩を帯び、やがて一人の少女の姿を形成した。
黒いフリルとレースをふんだんにあしらったゴシック・ロリータのドレス。
プラチナブロンドの縦ロール。
そして血のように赤い瞳。
栞の分身、コードネーム『KAMI』の生成である。
「……あーあ。また呼び出されたと思ったら、随分と湿っぽい場所ね」
生まれたばかりのKAMIは周囲の荒廃した景色を見回し、露骨に顔をしかめた。
「ここどこ? 埃っぽいし、臭いし、最悪なんだけど」
「並行世界ナンバー842。ゾンビ・アポカリプスよ」
栞は事務的に告げた。
「私はこれから、もっと文明レベルの高い、面白そうな魔法世界の方へ行くから。あなたはこの世界を担当しなさい」
「はぁ!? 私一人で!? こんな終わってる世界に!?」
KAMIが金切り声を上げる。
「嫌よ! こんなところにお風呂はあるの? 美味しいスイーツはあるの? ふかふかのベッドは!?」
「ないわよ。だから『作る』のよ、あなたが」
栞は冷徹に言い放った。
「あなたの任務は、この世界の生存者たちを掌握し、彼らを使って効率よく『対価』を回収すること。具体的には旧文明の遺産である金、銀、プラチナ、ダイヤモンド、レアメタルね。今のこの世界の人間にとってはただの石ころだけど、私にとっては貴重なリソースだから」
栞は空中に、契約書のようなウィンドウを表示させた。
「条件はこうよ。この世界で得た対価の『50%』は本体である私に上納すること。残りの50%はあなたの自由に使っていいわ。この世界の環境改善に使うもよし、自分の贅沢のために使うもよし。好きにしなさい」
「ご50パーセント……!? 暴利じゃない!?」
「場所代と、あなたを生み出したコストよ。文句があるなら消すけど?」
「……ちっ。分かったわよ、やればいいんでしょ、やれば!」
KAMIはふてくされながらも承諾した。
彼女にとっても消滅するよりはマシだし、何より「自分の自由になる世界」を一つ任されること自体は悪い話ではなかった。
環境が最悪であることを除けば。
「よし。契約成立ね」
栞は満足げに頷いた。
「あ、そうそう。この世界、一応まだインターネットの残骸みたいな通信網が生き残ってる場所もあるみたいだから、たまには連絡しなさい。じゃ、頑張ってねー」
「ちょっと! まだ話は……!」
KAMIの抗議を無視して、栞は空間に次元の裂け目を作り出し、ひらひらと手を振ってその中へと消えていった。
裂け目が閉じると、そこには再び風の音とゾンビのうめき声だけが残された。
「……信じらんない。あいつ、本当に置いていったわ」
KAMIは一人、廃墟の交差点に取り残された。
足元では這いずってきたゾンビが、彼女の靴(高級ブランドの革靴を模したエネルギー体だ)に齧り付こうとしている。
「汚い」
KAMIは無表情で見下ろし、指先一つ動かさずに念動力でゾンビを弾き飛ばした。
肉塊がコンクリートの壁に激突し、動かなくなる。
「はぁ……。憂鬱だわ」
彼女はドレスの埃を払う仕草をした。
「とりあえず、こんなところに突っ立ってても仕方ないわね。人間……人間はどこかしら」
彼女は『広域探知スキル』を展開した。
意識を拡大し、この廃都の地図を脳内に描く。
生命反応、熱源、そして「知性」の輝きを探す。
数キロ先に、微弱だが密集した生体反応があった。
「……あそこね。生存者のコロニー」
KAMIは瓦礫の山を浮遊しながら、その方向へと移動を開始した。
「とりあえず、まずは『衣食住』の確保からね。……あーあ、お風呂入りたい」
旧時代のショッピングモールを要塞化したコロニー『ノアズ・アーク』。
高いコンクリートの壁と、バリケードとして積み上げられた廃車群に囲まれたその場所は、この地域で生き残った数百人の人間たちが身を寄せる最後の砦だった。
見張り台の上で門番の男・ジムは、退屈と緊張が入り混じった目で荒野を監視していた。
手には弾丸の尽きかけたアサルトライフル。
彼の服は薄汚れ、何日も風呂に入っていない体からは酸っぱい汗の臭いが漂っている。
それがこの世界の「普通」だった。
「……おい、なんだあれ」
ジムは目を疑った。
陽炎揺らめく灰色の荒野の向こうから、一つの「点」が近づいてくる。
ゾンビの群れではない。車両でもない。
それはあまりにもこの世界に不釣り合いな、鮮烈な「黒と白」の色彩を纏っていた。
「……女の子?」
双眼鏡を覗いたジムの口から、間の抜けた声が漏れた。
そこにいたのは、まるで中世の貴族の絵画から抜け出してきたかのような豪奢なドレスを着た少女だった。
日傘をさし、瓦礫の道をまるで散歩でもするかのように優雅に歩いてくる。
奇妙なのはその服装だけではない。
彼女の服には泥一つ、血の一滴すら付着していなかった。
この汚泥にまみれた世界で、彼女だけが異常なまでに「清潔」だったのだ。
「……生存者か? いや、まさか」
ジムは慌てて無線機を掴んだ。
「本部! 正門前、未確認の接近者あり! 数は一名! 少女だが……様子がおかしい! 感染しているようには見えないが、服装が……とにかく来てくれ!」
数分後、KAMIはバリケードの前に到着した。
高い壁の上から、数人の武装した男たちが銃口を向けている。
その殺気立った視線を受けても、彼女は眉一つ動かさない。
「こんにちわー」
KAMIは鈴を転がすような声で挨拶した。
「ここ、人が住んでるのよね? ちょっと入らせてくれない?」
門番のジムが、壁の上から怒鳴るように問いかけた。
「止まれ! そこから一歩も動くな! ……お嬢ちゃん、一体どうしたんだ! どこから来た! というかその格好は何だ! ゾンビに襲われなかったのか!?」
彼の混乱はもっともだった。
こんな場所を、こんなふざけた格好でたった一人で歩いてくるなど、自殺行為にも程がある。
しかも彼女は無傷で、髪の一本まで手入れが行き届いているように見える。
明らかに異常だ。
「どこからって……まあ、遠くからよ」
KAMIは面倒くさそうに答えた。
「襲われたわよ? 途中で何匹か。邪魔だったから消し飛ばしたけど」
「消し飛ばした……?」
ジムは隣の仲間と顔を見合わせた。
狂っているのか、それとも隠語か何かか。
「……とにかく! ここは部外者立ち入り禁止だ! 感染のチェックもなしに入れるわけにはいかない! 怪しい奴は排除する決まりなんだ!」
銃口が明確な敵意を持って、彼女に向けられる。
KAMIは、ふぅと深いため息をついた。
(……これだから文明レベルの低い世界は面倒なのよね。話が通じない)
「あのね」
KAMIは日傘をくるりと回した。
「私はあなたたちに『お願い』してるんじゃないの。『通告』してるのよ。私はKAMI。あなたたちの言葉で言えば、そうね……『神様』みたいなものよ」
「はぁ? 神様?」
壁の上から失笑が漏れた。
「頭がおかしくなっちまったのか。可哀想に……。おい、どうする? 追い払うか?」
「待ちなさい」
KAMIの声がわずかに低くなった。
その瞬間、周囲の空気がピリリと震えたような錯覚を門番たちは覚えた。
「私、この世界に来たばかりでちょっと情報収集がしたいのよ。人間から話を聞きたいの。だから、ここの一番偉い人に会わせてちょうだい」
「だーかーら! 無理だと言ってるだろ!」
ジムが苛立ちを露わにする。
「我々は食料も水も余裕がないんだ! 頭のイカれたガキの相手をしてる暇は……」
「なら」
KAMIは冷たく言い放った。
「別の集落に行くけど? この近くにはここ以外にも、いくつか人間の反応があるわよね。別にあなたたちじゃなくてもいいのよ。
ただ、私を追い返したら、あなたたち一生後悔することになるわよ? 美味しいご飯も、温かいお風呂も、安全な寝床も。ぜーんぶ他の集落にあげちゃうことになるけど、それでもいいの?」
その言葉にジムの動きが止まった。
ご飯。お風呂。安全な寝床。
それはこの世界の住人が喉から手が出るほど欲している、しかし決して手に入らない「失われた過去の栄光」だった。
少女の言葉は、狂人の妄言にしか聞こえない。
だがその堂々とした態度と、異様なまでの清潔さが、彼の心に微かな迷いを生じさせた。
もし万が一。彼女が本当に何かを持っていたとしたら?
「……おい、リーダーを呼べ」
ジムは渋々といった体で仲間に指示を出した。
「判断はボスに任せる。……だが嬢ちゃん、変な真似をしたら即座に撃ち抜くからな。その綺麗な服が穴だらけになるぞ」
「はいはい。分かってるわよ」
KAMIは余裕の笑みを浮かべた。
「賢明な判断ね。褒めてあげるわ」
案内されたのは、ショッピングモールの管理事務室だった場所だ。
窓は鉄板で塞がれ、照明は薄暗いランタンの光のみ。
部屋の中は黴臭く、長年染み付いた汗と血の臭いが澱んでいる。
KAMIは出されたパイプ椅子に座ることを拒否し、自らの念動力で空中に浮かせた清潔なクッションの上に腰掛けていた。
その様子を見て、周囲の男たちは今度こそ言葉を失い、恐怖と畏敬の混じった視線を彼女に向けている。
宙に浮く少女。
それは彼女が「ただの人間ではない」ことの、何よりの証明だったからだ。
「……あんたがKAMIと言ったか」
部屋の奥、大きなデスクの向こうに座っていた男が重い口を開いた。
このコロニーのリーダー、ミラー。
元軍人だというその男は、顔の半分に大きな火傷の痕があり、鋭い眼光は猛獣のように油断がない。
だがその彼でさえ、目の前の少女の異質さには動揺を隠せないでいた。
「そうよ。あなたがここのボス?」
KAMIはミラーを値踏みするように見つめた。
「……えー、何これ。粗茶も出ないの? お菓子も出ないの? 客人を招いておいて、水一杯出さないなんて、随分と礼儀知らずな集落ね」
KAMIの不満げな声に、周囲の男たちが殺気立つ。
だがミラーは片手で彼らを制した。
「悪いな、嬢ちゃん。ここはそこまで上等な所じゃないからな」
彼は自嘲気味に笑った。
「水は貴重品だ。茶葉なんぞこの5年、見たこともない。菓子? そんなものは夢の中の話だ。
我々にあるのは、ネズミの肉と、泥水をろ過した液体だけだ」
「……うわぁ」
KAMIは顔をしかめた。
「想像以上に終わってるわね、この世界」
「ああ終わってるさ。地獄だ」
ミラーは机の上に両手を組んだ。
「で? 話を聞きたいと言っていたな。何者なんだい、あんた。
その浮く力。綺麗な服。そしてその態度のデカさ。どこの組織の人間だ? 政府の生き残りか? それとも新種の研究施設から逃げ出してきたミュータントか?」
「ミュータントと一緒にしないでくれる?」
KAMIは心外だという顔をした。
「さっきも言ったでしょ。私はKAMI。神よ。
正確に言うと、この世界をたまたま通りかかった神様が、調査のために置いていった探索ドローンみたいなものよ。
だからまあ、神様っぽいこと、奇跡っぽいことが出来るだけで、今は出力調整中なんだけど」
「神の……ドローン?」
ミラーは眉をひそめた。
あまりにも荒唐無稽な話だ。
だが目の前で、少女は浮いている。
「……信じられん話だが。百歩譲って、あんたが神の使いだとして。
その神様っぽいこととやらで、何ができる?」
「何ができるって?」
KAMIは待ってましたとばかりに、ニヤリと笑った。
「そうねぇ……。論より証拠ね」
彼女は右手を軽く上げた。
そして優雅に指を鳴らした。
パチンッ!
その乾いた音が響いた瞬間。
何もないはずの空間が光り輝き、ミラーの目の前の汚れたデスクの上に、突如として「それ」が出現した。
湯気を立てる美しい白磁のティーポットとカップ。
そして銀のトレイに乗せられた、色とりどりの焼き菓子とチョコレート。
「……なっ!?」
ミラーが椅子を蹴って立ち上がった。
周囲の護衛たちも銃を構えることさえ忘れ、呆然とその光景を見つめている。
部屋の中に甘く香ばしいバターと砂糖の香りが満ちていく。
それはこの腐臭漂う世界では、あまりにも暴力的で、そして懐かしい香りだった。
「粗茶とお菓子のセットよ。ほら、あなたの分も出してあげたから、どうぞ」
KAMIは自分用のカップを空中に浮かせ、優雅に紅茶を一口すすった。
「ん、悪くないわね。アールグレイよ」
「……幻覚か?」
ミラーは震える手で、トレイの上のクッキーに触れた。
温かい。焼きたてだ。
彼はその一枚を手に取り、恐る恐る口に運んだ。
サクッという音。
口の中に広がる、バターの濃厚な風味と砂糖の甘み。
「…………」
ミラーの動きが止まった。
屈強な大男の肩が、小刻みに震え始める。
彼が最後に「お菓子」を食べたのはいつだったか。
娘の誕生日に焼いたクッキーが最後だったか。
その娘も妻も、最初のパニックで失った。
甘いもの。それは平和の味だった。
失われた幸福の記憶そのものだった。
「……5年ぶりのお菓子だな……」
ミラーの声が震えていた。
「甘い物なんざ昔はいくらでも食べれたが……。今の世界で食えるとはな……」
彼の大粒の涙が、クッキーの上にポロリと落ちた。
「え、ちょっと。泣いてるの? お菓子で?」
KAMIは少し引いていた。
「……まあ、それだけ飢えてるってことね。可哀想に」
ミラーは涙を拭い、大きく息を吐いた。
そして憑き物が落ちたような顔で、KAMIを見つめた。
「……ああ、美味い。本当に美味い」
彼は椅子に座り直した。
その瞳から、疑いの色は消えていた。
「分かった。信じよう。あんたはただの人間じゃない。
……物質を無から生み出す力。それが、あんたの言う『奇跡』か」
「そうよ。理解が早くて助かるわ」
KAMIは頷いた。
「美味しい食料品を出すとか、安全な水を出すとか、病気を治す薬を出すとか。
だいたいのことはできるわ。
ただし」
彼女は人差し指を立てた。
ここからが本題だ。ビジネスの時間だ。
「タダじゃないのよ。対価が必要なの」
「対価……?」
「ええ。この世界は等価交換が基本だからね。私の力を使うには、それ相応のエネルギーリソースが必要なの。
具体的に言うと……貴金属類。金、銀、プラチナ。あとダイヤモンドなんかの宝石類。
あるいはレアメタルが含まれた電子機器のゴミとかでもいいわ。
とにかく、物質的に価値のある鉱物資源。
それらを対価として私に捧げれば、その価値に見合った分だけの食料や物資を、私が提供してあげる」
KAMIは商人の顔で微笑んだ。
「どう? 悪い取引じゃないでしょう?」
ミラーはあっけにとられたような顔をした後、突然腹を抱えて笑い出した。
「ハハハ! ハハハハハ!」
「何よ、何がおかしいの?」
「いや、すまん。……金か。ダイヤモンドか」
ミラーは涙を拭いながら言った。
「嬢ちゃん、あんたは神様かもしれんが、この世界のことはまだよく分かってないみたいだな。
今の時代、そんなものに何の価値もないぞ? 金塊の延べ棒より、缶詰一個の方が価値がある。ダイヤモンドより、抗生物質一錠の方が重い。
そんなゴミで奇跡を売ってくれるというのか?」
「私にとってはゴミじゃないのよ」
KAMIは平然と言った。
「私(の本体)はそれを集めているの。この世界で価値がなかろうと関係ないわ。
むしろ好都合ね。あなたたちにとっては無価値なゴミを、私にとっては貴重な資源として回収できる。
これぞウィンウィンの関係ってやつよ」
「……なるほどな」
ミラーの目が鋭く光った。
彼は優秀なリーダーだった。即座に、この取引がもたらす巨大な利益を計算したのだ。
この廃墟の街には、かつての文明の遺産が山のように眠っている。
銀行の金庫、宝石店、富裕層の屋敷。
それらは今や誰も見向きもしない瓦礫の山だ。
だがそれを集めてくるだけで、新鮮な食料と水が手に入るなら?
それは、無限の錬金術に等しい。
「集めようと思えば集められるか?」
KAMIが問う。
「ああ。腐るほどある」
ミラーは断言した。
「街に出ればいくらでも転がっている。ゾンビを避けて回収する手間はあるが、食い物のためなら俺の部下たちは喜んで地獄へでも行くだろうよ」
「交渉成立ね」
KAMIは満足げに頷いた。
「でも、まずは『お試し期間』よ。サービスしてあげる」
彼女は鼻をつまむ仕草をした。
「とりあえず、あんた達臭いのよ。耐えられないくらい」
「……風呂など、何年も入っていないからな」
「だから、大浴場付きの建物をここに作ってあげるわ。水とお湯もサービスするから、まずは全員体を洗いなさい。
話の続きは、綺麗になってからよ」
「……は?」
ミラーが、今日何度目かの絶句をした。
「ふ、風呂だと? この水のない荒野に? 数百人が入れるような大浴場を?」
「ええ。私の『建築スキル』を見せてあげるわ」
KAMIは立ち上がり、窓の方へと向かった。
彼女が手をかざすと、鉄板で塞がれていた窓が消滅し、外の景色が見えた。
そこは、コロニーの中央広場だった。
瓦礫が積み上げられた、ただの空き地。
「――創造:大衆浴場『極楽湯』・異世界支店」
KAMIが小さな声でコマンドを唱えたその瞬間。
ズズズズズ……!
地響きと共に、広場の瓦礫が勝手に動き出し、分解され、再構築されていく。
地面が隆起し、木材が組み上がり、ガラスが生成され、配管が走る。
まるで早送りの映像を見ているかのような速度で、そこに一つの巨大な建物が建築されていく。
それは日本の温泉旅館を思わせる、瓦屋根の立派な木造建築だった。
煙突からは、早くも白い湯気が立ち上っている。
「……ななんだあれは……!」
「建物が……生えてきたぞ!?」
広場にいた生存者たちが、腰を抜かして逃げ惑う。
「はい、完成」
KAMIは額の汗を拭うふりをした。
「中は男女別になってるわよ。シャンプーも石鹸も完備。お湯は源泉かけ流し(魔力生成)だから、いつでも適温よ。
さあ、行ってきなさい!」
ミラーは窓の外に現れた、その非現実的な建物をただ呆然と見つめていた。
「……マジかよ。風呂に入れるのか!? この地獄で!?」
その日、コロニー『ノアズ・アーク』はゾンビパニック発生以来初めての「叫び声」に包まれた。
それは恐怖の悲鳴ではない。
温かいお湯に身を沈め、垢を落とし、人間としての尊厳を取り戻した人々の歓喜の叫びだった。
「あったけぇ……!」
「生き返る……!」
「俺たちはまだ人間だったんだ……!」
湯気の中で男たちが泣いていた。
女たちが笑い合っていた。
子供たちがはしゃいでいた。
その光景をKAMIは建物の屋根の上から、いちご牛乳(これも生成した)を飲みながら退屈そうに眺めていた。
「……ふん。人間ってチョロいわね」
彼女は呟いた。
「たかがお湯くらいでこんなに感謝するなんて。
ま、これでしっかり働いてもらわないとね。
この世界中の金銀財宝、根こそぎ回収させてもらうわよ」
廃墟の世界に、一人の気まぐれな女神が降臨した。
彼女は救世主か、それとも搾取者か。
どちらにせよ、人類の反撃(とリサイクル活動)が、今ここから始まろうとしていた。




