第114話
とある日曜日の午後。
日本の政治の中枢、首相公邸の地下奥深くに存在する「開かずの間」――通称・対神特別応接室は、いつになく穏やかな、そして甘い香りに包まれていた。
そこは、世界を動かす激務の合間に、日本のトップとその頭脳である官房長官が、唯一ネクタイを緩めることを許された聖域。
今日のテーブルの上には、うず高く積まれた決裁書類や、悲鳴を上げるタブレット端末の代わりに、湯気を立てる極上の玉露と、漆塗りの菓子盆が置かれている。
盆の中身は黒く艶やかに輝く直方体。
室町時代から続く老舗『とらや』の羊羹である。
「……ん〜! やっぱり日本の甘味はレベル高いわねぇ」
ソファの上で足をぶらぶらさせながら、その羊羹を至福の表情で頬張っているのは、この世界の運命を握る絶対者・KAMI。
今日の彼女は、フリルのついた黒いヘッドドレスに、シックなワインレッドのゴシックドレスという装いだ。その小さな手には、場違いなほど高級な黒文字(菓子切り)が握られている。
その向かい側では、沢村総理と九条官房長官(の本体たち)が、まるで孫娘のおやつタイムを見守る祖父母のような、あるいは猛獣の食事を監視する飼育員のような複雑な表情で、茶をすすっていた。
「お気に召して何よりです、KAMI様」
沢村が好々爺のような笑みを浮かべて言った。
「麻生大臣が、『これを持っていけば機嫌が直る』と太鼓判を押しておりましたので」
「麻生さん、分かってるわね。あのおじいちゃん、性格は悪いけど舌は確かよ」
KAMIは次の一切れを口に運びながら、上機嫌で頷いた。
「この『夜の梅』の小豆の風味と寒天の食感のバランス……。これぞ『計算されたカオス』ね。素晴らしいわ」
平和だ。
ダンジョン開放の狂乱から数週間。世界は激変したが、少なくともこの部屋の中だけは、奇跡的な凪の状態にあった。
だが、その安らぎを九条という男の性分が許さなかった。
彼は茶を一口飲むと、その鉄仮面のような表情をわずかに引き締め、意を決したように口を開いた。
「……そう言えば、KAMI様」
「んぐっ、何よ?」
KAMIは口一杯に羊羹を頬張ったまま、不満げに眉をひそめた。
「今、羊羹の糖分が脳に染み渡るプロセスを楽しんでる最中なんだけど」
「いや、貴方、来た時に『暇つぶしに来た』と仰っていたではないですか」
九条は冷静に切り返した。
「暇つぶしならば、少しばかり我々の雑談にお付き合いいただいてもバチは当たらないかと。……それに、今まさに羊羹を食べているのは私とて同じです」
九条は、自らの皿の上の羊羹を、優雅な手つきで切り分けながら言った。
「……ちっ。屁理屈な眼鏡ね」
KAMIは悪態をつきながらも、話を聞く姿勢を見せた。
「で? 何よ? またどこかの国が文句言ってきたの? それとも装備のドロップ率上げろとかいう陳情?」
「いいえ。今日はもっと根本的な……いわば『経営』の話です」
九条は、その鋭い眼光をKAMIに向けた。
「ダンジョンについてですが……。正直に申し上げて、あの大盤振る舞いは異常です」
彼は蓄積されたデータを、脳内で展開した。
「無限に湧き出るモンスター。そこから得られる魔石という無尽蔵のエネルギー資源。食糧問題を解決する肥料、そして人間を生物学的な限界を超えて強化するレベルアップシステム……」
九条は羊羹を置いた。
「これらは全て、物理法則における『等価交換』の原則を無視しています。エネルギー保存の法則が崩壊していると言ってもいい。
これだけの恩恵を、人類という二十億もの個体に、恒久的に、しかもほぼ無償で提供し続ける……。
正直なところ、KAMI様の収支がちゃんと取れているのか、国家の運営を預かる者として心配でなりませぬ」
それは官僚としての、そして一人の理性の徒としての根源的な疑問だった。
タダより高いものはない。
この大盤振る舞いの裏で、KAMIは自らの身を削っているのではないか? あるいは、いつか突然「在庫切れ」を起こし、世界が梯子を外される日が来るのではないか?
その恐怖が、九条の心の奥底には常にあった。
「これ、本当に無限に続く物なんですか? KAMI様の今までの能力と比べても、群を抜いてコストパフォーマンスがおかしい気がしてなりませぬ」
そのあまりにも真面目で、そして深刻な問いかけ。
それを聞いたKAMIは、きょとんとした顔で瞬きを数回し、それから「あー」と間の抜けた声を出した。
「そういうことね。……ていうか、そういえば私、あなたたちに私の『能力』の正体、ちゃんと説明したことなかったわね」
「……能力ですか?」
九条と沢村が顔を見合わせる。
これまで彼女が見せてきた奇跡の数々――物質転送、創造、洗脳、因果律改変――それらは全て「神の御業」としてひとくくりに理解されていた。そこに体系的な「能力」の定義があるなどとは考えもしなかったのだ。
「ええ。神の力とか魔法とか、適当に呼んでるけど」
KAMIは黒文字を指揮棒のように振った。
「私の能力の正式名称は、『賢者の石(Philosopher's Stone)』よ」
「賢者の石……ですか」
沢村が呟く。
「あの、鉛を金に変えるという錬金術の?」
「ええ、まあそれっぽい能力ね」
KAMIは頷いた。
「私の能力の基本原理はシンプルよ。『あるAという対価を消費して、システムを通し、少し色々添加して出力したBという結果を出す』能力」
彼女は空中に指で図式を描いた。
『対価(Input)』→『賢者の石(System)』→『結果(Output)』。
「初期の頃、私がゴミ拾いしてたの覚えてる? あれはゴミという物質的価値(対価)をシステムに投入して、私の活動エネルギーや新しいスキルの解禁コストに変換してたの」
彼女は懐かしそうに目を細めた。
「対価の残量があればあるほど出来ることは増えていく。そして、私の気付きや行動経験によって、新しい機能がどんどんアンロックされていく。
ゴミ拾いから始まって、不法投棄の撤去、核廃棄物の処理……そうやって『対価』の規模を大きくしていって、ようやく国を動かしたり、異世界と繋がったりできるようになったわけ」
「なるほど……」
九条は唸った。
「KAMI様が我々人間に接触し、これほどアクティブに活動されているのは、単なる気まぐれではなく、より効率的な『対価』の収集と能力の拡張のためだったのですね」
(……うーん、まあ実際は暇だったから遊び半分で始めたのが9割なんだけど……)
KAMIは内心で苦笑しつつ、表面上は神妙な顔で頷いた。
「ええ、そうね! その通りよ! さすが九条さん、察しがいいわ」
「なるほど。ダンジョン以外の全ての行動原理が、それで説明がつきました」
九条は納得したように頷いた。
彼女が核廃棄物を喜んで引き受けた理由。
宗教家の信仰心を対価として求めた理由。
すべては等価交換、あるいは拡大再生産のサイクルの中にあったのだ。
「……しかし」
九条の眉間の皺がさらに深くなった。
「そうなると尚更分からなくなります。ダンジョンはどうなのです?
あれはどう見ても『法則』とズレています」
彼はその矛盾点を鋭く指摘した。
「ゴミや核廃棄物は物質です。それをエネルギーに変えるのは理解できる。
ですが、ダンジョンから産出される魔石や資源は、無から有を生み出し続けています。
しかも人間たちを強化し、スキルを与え、怪我を治す。
これらは全て、KAMI様側からの『持ち出し(消費)』ではありませんか?
対価を払うどころか、一方的にリソースを吐き出し続けている。これではいずれKAMI様のストックが枯渇し、システムが破綻するのではありませんか?」
九条の懸念はもっともだった。
どれほど巨大なダムでも、放水し続ければいつかは干上がる。
もしダンジョンがある日突然消滅したら、それに依存しきってしまった世界経済は即死するだろう。
その深刻な問いに対し、KAMIは羊羹の最後の一切れを口に放り込み、熱い茶をすすってから、あっけらかんと言った。
「うーん、そこなのよね。誤解してるのは」
彼女は湯呑みを置くと、まるで学校の先生が生徒に教えるような口調で言った。
「まず大前提として。
ダンジョンができるのが『自然』で、できないのが『異常』なのよ」
「……は?」
沢村と九条の声が重なった。
「えーっとね」
KAMIは説明の言葉を探すように空を見上げた。
「私が観測してきた並行世界の多く……数多の宇宙において、マナ(魔力)というエネルギーは、重力や電磁力と同じくらいありふれた、宇宙の基礎定数みたいなものなの。
だから、マナが溜まった場所にダンジョンが自然発生したり、生物がマナを取り込んで進化したり、あるいは人間がマナを使って因果律を改変(魔法)したりするのは、雨が降ったり風が吹いたりするのと同じ、ごくごく当たり前の物理現象なのよ」
彼女は呆れたように両手を広げた。
「でもこの地球……あなたたちの世界だけは、なぜかマナが極端に希薄な『マナの真空地帯』だった。
だからダンジョンも発生しないし、魔法も使えない。
その代わり、あなたたちは『科学』という、マナに頼らない独自の進化を遂げたわけだけど」
「つまり……」
九条が、信じられないという顔で反芻する。
「我々の世界の方が、宇宙の標準から見れば『イレギュラー』だったと?」
「そう! そういうこと!」
KAMIは我が意を得たりと指を差した。
「あなたたちの世界は、言ってみれば『砂漠』だったの。水がない、乾ききった異常な土地。
そこに私がやってきて、水路を引いて水を流し込んだ。それが今回のダンジョン計画の正体よ」
彼女は、その「工事」の仕組みを説明した。
「私は『賢者の石』の力を使って、この世界の物理法則を少し書き換えて、並行世界からマナが流入するように『穴』を開けたの。それがゲートであり、ダンジョンよ。
だから、魔石やモンスターは、私が自分の対価を消費して一から作ってるわけじゃないの。
並行世界や異次元から自然に流れ込んでくるエネルギーを、あなたたちが使える形に変換して出力してるだけ。
いわば、水力発電所みたいなものね。川の水は勝手に流れてくるから、私がやりくりする必要はないの」
「ほー、なるほど……」
沢村が感嘆の声を上げた。
「つまり、イレギュラーな状態を『修正(あるいは改造)』したから、KAMI様自体の継続的な負担は少ない、もしくはゼロに近いということですか?」
「正解!!! 頭いい人は話が早くて助かるわね!」
KAMIは嬉しそうに手を叩いた。
「そういうことよ。一度システムを構築しちゃえば、あとはメンテナンスフリーで勝手に回るの。これが『ダンジョンの永続性』の秘密ね」
「……しかし」
九条はまだ納得していなかった。官僚としての粘り強さが、彼に食い下がらせる。
「初期投資……つまり、その『水路』を作る工事費や、世界法則を書き換えるためのコストは莫大だったはずです。
それに、いくら自動運転とはいえ、維持管理コストもゼロではないでしょう。
KAMI様は、なぜそこまでして我々に無償でインフラを提供してくださるのですか?
ただの暇つぶしにしては、あまりにも割に合わない」
その鋭い指摘に、KAMIはニヤリと笑った。
それは慈善事業家の顔ではなく、冷徹な投資家の顔だった。
「鋭いわね、九条さん。そこが肝心なのよ」
彼女は、自らのスキルツリーの深層にある一つの重要なシステムを開示した。
「実はね、この世界を『修正』してあげると、宇宙の意思……みたいな大いなるシステムから、『修正してくれてありがとう報酬』みたいなのが定期的に入る仕組みになってるのよ」
「……宇宙からの報酬?」
「ええ。世界の歪みを正して、マナの循環を正常化したことに対する管理者ボーナスみたいなものね。これが結構、馬鹿にならない額なの」
そして彼女はさらに言った。
「それに加えて、もう一つ。これが一番大きいんだけど。
私はこの世界の全ての探索者たちを、システム上で『私の弟子』として登録しているの」
「弟子ですか?」
「そう。『弟子の成長を対価に変換する』スキル。この前、プーチン大統領をいじめてた時にゲットしたやつね。
探索者がモンスターを倒し、レベルアップし、強くなる。そのプロセスで発生するエネルギーの一部が、『師匠への上納金』として自動的に私のアカウントに振り込まれるようになってるの」
その言葉を聞いた瞬間、九条の背筋に電流が走った。
「……つまり」
彼は震える声で確認した。
「我々が国策としてダンジョンを推進し、国民に探索を奨励し、彼らが必死に強くなればなるほど……
それが全て、KAMI様の『利益』になっていると?」
「その通り!」
KAMIは悪びれもせずに満面の笑みを浮かべた。
「あなたたちが頑張れば頑張るほど、私は寝てても儲かる。
維持コストなんて、その収益のほんの一部で賄えちゃうくらいよ。
だから収支は完全にプラス。黒字もいいところよ」
なんという完璧なエコシステム。
人間はダンジョンの恩恵に預かり、富と力を得る。
神はその人間たちの活動をエネルギー源として吸い上げ、さらなる力を得る。
Win-Win。
だがその実態は、人類全体が神の巨大なエネルギー生産牧場の家畜になったようなものだった。
「なるほどなるほど……解説ありがとうございます」
沢村は呆れたように、しかしどこか清々しい表情で笑った。
「つまり我々が心配していたような『枯渇』はありえないということですね。
我々が欲望のままにダンジョンに潜り続ける限り、このシステムは永遠に回り続ける」
「ええ」
KAMIは頷いた。
「基本的には、もう私の手を離れてるもの。
私がこの世界に飽きて別の次元に旅立ったとしても、ダンジョンはこの世界に残り続けるわよ。
一度開いた穴は、そう簡単には塞がらないからね」
それは人類にとっての福音であり、そして永遠の呪いでもあった。
神がいなくなっても、ダンジョンは残る。
人類は未来永劫、この迷宮と付き合っていかねばならないのだ。
「ただし」
KAMIは少しだけ意地悪そうに付け加えた。
「私が管理しなくなったら、バランス調整が当たらなくなるからね。
放置してると、ダンジョンの難易度が勝手に上がって、地獄のような『深層』が口を開く可能性も無きにしも非ずだけど」
「……それは困りますな」
九条が顔を引きつらせる。
「ま、大丈夫よ」
KAMIは残っていたお茶を飲み干した。
「今のところ、この世界は見てて飽きないし。
あなたたちが頑張ってダンジョンSSS級まで攻略するのを見届けるまでは、私もここにいるつもりだから」
SSS級。
それは神の領域に足を踏み入れるほどの遥かなる高み。
あるいは、世界の終わりを告げる災厄の具現。
「……SSS級ですか」
沢村は遠い目をした。
「一体何年かかることやら」
「さあね。百年か千年か。
でもあなたたちなら、案外早いかもしれないわよ?
だって人間は、欲望のためならどんな無茶でもする生き物でしょう?」
KAMIは立ち上がった。
「さて、長話もしちゃったし、そろそろ帰るわ。
美味しい羊羹、ごちそうさま。
また面白いことがあったら呼んでちょうだい」
彼女は優雅にドレスの裾を摘んで一礼すると、光の粒子となって消えていった。
後に残されたのは静寂と空になった菓子皿。
そして、世界の真実を知ってしまった二人の男たち。
「……九条君」
沢村が湯飲みを両手で包み込みながら言った。
「我々はとんでもない大家さんに、店子として入ってしまったようだな」
「ええ」
九条は新しいお茶を淹れながら静かに答えた。
「ですが、家賃(対価)さえ払い続ければ、これほど快適で刺激的な物件はありません。
大家が気まぐれで、時々部屋の構造を勝手に変えてしまうことを除けばですが」
二人は顔を見合わせ、苦笑した。
神の掌の上で踊らされていることは分かっている。
搾取されていることも分かっている。
だがそれでも。
この新しい世界は、退屈だった昨日よりは、はるかにマシだ。
彼らは知っていた。
この世界にはまだ解き明かされていない謎が、そして攻略されていない階層が、無限に広がっていることを。
そしてその頂を目指す旅は、まだ始まったばかりなのだと。
「……さて、仕事に戻りますか」
「ああ。まずは麻生大臣にこの『ダンジョン永久機関説』を伝えてやらんとな。
きっと鬼の首を取ったような顔で、百年国債の発行計画を練り始めるだろうよ」
首相公邸の地下。
眠らない執務室に、再びキーボードを叩く音と、終わりのない議論の声が戻ってきた。
それは神に見守られ、そして神に試されている人類の、力強い鼓動の音だった。
外はもうすぐ夜明けだ。
今日もまた無数の探索者たちが、夢と欲望を抱いて漆黒のゲートへと吸い込まれていくことだろう。
物語は続く。
神が飽きるその最期の日まで。




