第113話
その日、成田国際空港と羽田国際空港の到着ロビーは、かつてないほどの熱気と多言語が飛び交う喧騒、そしてむせ返るような人間の欲望の臭いに満ちていた。
『ダンジョン開放宣言(インバウンド・解禁)』。
日本政府が、そして背後にいる四カ国政府が、ついに重い腰を上げて世界に向けて発したその号令は、地球上のあらゆる大陸でくすぶっていた「持たざる者」たちの魂に火をつけた。
「JAPAN! ダンジョン!」
「魔石! マネー!」
バックパック一つを背負った若者たちが、ゲートから雪崩れ込んでくる。
東南アジアの貧困層から抜け出そうとする若者、南米の政情不安から逃れてきた元兵士、ヨーロッパの閉塞感に飽き飽きした失業者、そしてアフリカの奥地から一族の期待を背負ってやってきた勇者たち。
彼らの瞳には、不安よりも遥かに強い、ギラギラとした野心が宿っていた。
入国審査場はパンク寸前だったが、日本の入管職員たちは、事前に導入された『ダンジョン・ビザ』システムによって、驚くほどスムーズに彼らを捌いていた。
このビザの取得条件は、シンプルかつ残酷だ。
『身元保証金の預託』あるいは『出身国政府による保証』。そして、何より重要なのが『KAMIによるブラックリスト(テロリスト)照合』のクリアだ。
ゲートをくぐる際、赤いランプが点灯した者は、問答無用で別室へと連行され、即時強制送還される。神の目は誤魔化せない。その絶対的なセキュリティが、この無秩序な移民ラッシュを、ギリギリのところで制御していた。
***
渋谷スクランブル交差点。
そこは今や『世界で最も危険で最も稼げる交差点』として、その名を地球の裏側にまで轟かせていた。
日本人の探索者たちに混じり、多様な肌の色、多様な言語を持つ外国人探索者たちが、長蛇の列を作っている。
「Hey, move!(どけ!)」
「Non, c'est ma place!(いいやここは俺の場所だ!)」
小競り合いが起きそうになる。言葉は通じない。文化も違う。列に並ぶという習慣がない国から来た者もいる。
一触即発の空気。
警備にあたるD-POLの隊員たちが警棒を構えて割って入ろうとした、その時だった。
割り込もうとした大柄な男が、突然見えない壁に弾かれたように後方へと吹っ飛んだ。
ドサッ!
尻餅をつく男。
彼の頭上の空中に、深紅の文字で、誰の目にも明らかな警告文が浮かび上がった。
【警告:迷惑行為を確認。ダンジョンへのアクセス権を24時間停止します】
男は青ざめて再び列に戻ろうとする。だが、彼の身体はダンジョンの入り口に近づくことさえできない。見えないゴムまりのような弾力が、彼を拒絶するのだ。
「No! No! Please!」
男が泣き叫ぶ。一日入れないということは、数万円の損失を意味する。渡航費を借金してまで来た彼らにとって、それは死活問題だった。
周囲の外国人たちが、息を呑んでその光景を見ていた。
噂は本当だったのだ。
『KAMIが見ている』。
『トラブルを起こせば、神によって物理的に排除(BAN)される』。
その瞬間、混沌としていた列に奇妙な秩序が生まれた。
誰もがおとなしくなった。列を乱さず、静かに順番を待つようになった。
警察の警棒よりも、法律の罰則よりも、神による「稼ぐ権利の剥奪」こそが、最も効果的な規律となったのだ。
***
ダンジョン内部。F級・渋谷『最初の隘路』。
そこは、国際色豊かな戦場と化していた。
「Go! Go!」
「Right flank!(右翼!)」
言葉は通じなくとも、殺意と利益の共有は、人間を最も効率的に結びつける。
即席で組まれた多国籍パーティが、ゴブリンの群れに挑んでいた。
彼らの装備は貧弱だ。
母国から持ち込んだマチェット(山刀)、工事現場の鉄パイプ、あるいはクリケットのバット。
正規のF級装備を持つ日本人の「ガチ勢」に比べれば、あまりにも見劣りする。
だが、彼らには日本人が失いかけていたものがあった。
ハングリー精神だ。
「死ぬ気でやれ! 一匹倒せば家族が一ヶ月暮らせるんだぞ!」
彼らは恐れない。傷つくことを厭わない。
ゴブリンの棍棒を腕で受け止め、泥にまみれながら組み付き、原始的な暴力で敵をねじ伏せる。
その戦い方は、スポーツ化した日本のDリーグとは対極にある、生々しい生存競争だった。
そして夕刻。
ギルドの買い取りカウンター。
「――買い取り額合計11万5千円になります」
職員の言葉に、ボロボロの服を着た東南アジア系の青年が、震える手で現金を受け取った。
11万円。
彼の国の平均年収の半分に相当する金額が、たった一日でその手の中にあった。
「……神よ……感謝します……」
彼はその場で膝をつき、床に額を擦り付けて祈った。
周囲でも同じような光景が広がっていた。
初日から10万円超えを叩き出す猛者たちが続出したのだ。
彼らの目は、もはや不安に揺れてはいなかった。
「稼げる」。その確信が、彼らをより強欲な、そしてより強力な「探索者」へと変貌させていく。
日本のダンジョンは、世界中の野心家たちにとっての約束の地となった。
***
そして、その外国人探索者たちの熱狂が冷めやらぬ数日後。
日本のダンジョン情勢を、より強固に、そしてより健全なものへと進化させる大きなニュースが飛び込んできた。
東京・六本木の高級ホテル、ギルド管轄グランドボールルーム。
そこに集められたのは、国内外の主要メディアと、そしてSNSで影響力を持つインフルエンサーたちだった。
ステージの背景には巨大な満月のロゴマーク。
そして金屏風の前には、一人の男が立っていた。
年齢は30代半ば。整えられた髭と理知的な瞳。仕立ての良いスーツを着こなしているが、その体躯からは隠しきれない武のオーラが漂っている。
彼の腰には一本の剣が佩かれていた。
鞘に収まっていてもなお、周囲の空気をピリピリと震わせるような異様な存在感を放つ剣。
「――皆様、お集まりいただき感謝します」
男はよく通る声で言った。
「私の名は、月島 蓮。本日ここに、日本初となる大規模非公式ギルド『月読ギルド』の設立を宣言いたします」
非公式ギルド。
それは政府が管轄する「日本探索者公式ギルド」とは異なる、民間の互助組織だ。
月島は、穏やかな、しかし熱のこもった口調で、その理念を語り始めた。
「現在、政府主導の公式ギルドによる運営は、秩序あるダンジョン探索の基盤を築き上げました。これは素晴らしいことです。
しかし、行政という性質上、どうしても手の届かない領域があります。
それは『持たざる者』へのきめ細やかな支援です」
彼は会場を見渡した。
「資金がなく装備を揃えられない若者たち。彼らは今、バット一本で命を懸けざるを得ない状況にあります。
これを『自己責任』の一言で片付けるのは、同じ日本人としてあまりにも忍びない。そして、何より未来の優秀な探索者を失うことは、国家的な損失でもあります」
「我々『月読ギルド』は、公式ギルドを補完する『共助』の組織です!
我々は志ある探索者に対し、独自ルートで確保した武器や防具を『無償』、あるいは『極めて低廉な価格』で貸与いたします!
初心者講習、パーティのマッチング、そしてベテランによる引率。
公式ギルドがインフラを支え、我々民間がソフトを支える。
そうやって日本中の誰もが、安全にダンジョンに挑める環境を作りたいのです!」
「おおっ……!」
会場からどよめきと歓声が上がる。
政府批判ではない。むしろ、官民一体となってこの国を盛り上げようという前向きなメッセージ。
「し、しかし!」
一人の記者が質問した。
「それだけの物資と資金をどうやって確保するのですか? ボランティアでは限界があるはずですが」
その問いに、月島は不敵に微笑んだ。
そして彼は、腰の剣をゆっくりと引き抜いた。
シャァァァァン……!
澄んだ金属音が、会場に響き渡る。
現れた刀身は、まるで夜空を切り取ったかのように蒼く、そして内側から脈動するように光を放っていた。
ただの鉄ではない。F級装備とは次元が違う。
それを見た誰もが本能的に理解した。これが噂に聞く『ユニーク装備』であると。
「――これが私の答えです」
月島はその剣を掲げた。
「ユニーク・ウェポン『蒼月の太刀』。
効果は『魔力吸収』と『範囲斬撃』。
私はこの力を使って、既にF級ダンジョンの深層を単独で攻略し、莫大な魔石とドロップ品を確保しています」
フラッシュが、嵐のように焚かれる。
日本で初めて公の場に姿を現したユニーク装備の所有者。
そして、その圧倒的な「力」を背景にした組織の設立。
「私には力がある。運もある。
だからこそ、その恩恵を独占せず、同胞たちに分配するのです。
我々は既に日本探索者公式ギルド様とも協議を始めております。
我々が育てた新人が、公式ギルドを通じて魔石を納品し、国を富ませる。
この循環こそが、日本の未来を拓くと信じています!」
熱狂的な拍手。
それは、対立ではなく、調和と発展を予感させる温かい拍手だった。
***
官邸地下執務室。
麻生ダンジョン大臣は、月島蓮の演説をモニターで見ながら、いつになく上機嫌で玉露をすすっていた。
「……ふん。月島か。なかなかどうして、出来た若者ではないか」
彼は満足げに頷いた。
「『共助』とは良い言葉だ。
政府が税金を使って貧困層に装備を配れば、また『バラマキだ』『不公平だ』と野党やメディアが騒ぎ立てる。
だが、民間が勝手に善意でやってくれるなら、これほど有り難いことはない」
隣の九条が、タブレットを操作しながら補足する。
「ええ、大臣。実は月島氏からは事前に接触がありまして。
『月読ギルド』の活動を公認してくれれば、治安維持やマナー啓発にも全面的に協力すると。
D-POLの手が回らないような、ダンジョン内の細かなトラブル仲裁も引き受けてくれるそうです」
「素晴らしい!」
麻生は膝を打った。
「渡りに船とはこのことだ。
本来なら我々がコストをかけてやらねばならん『福祉』と『教育』の部分を、彼らがタダで肩代わりしてくれるわけだ。
財務省としても大助かりだよ」
沢村総理も、ホッとした表情を浮かべた。
「ユニーク持ちの強力な個が、反社会的勢力やテロリストにならず、こうして秩序の側に立ってくれたのは、僥倖と言っていいな。
彼らとは密に連携を取っていこう」
「はい」と九条が頷く。
「既に公式ギルドとのホットラインは開設済みです。
彼らが装備を貸し出し、成果を上げた探索者が公式ギルドで換金する。
システムとしても、非常に綺麗な補完関係が成立します」
その時。部屋の空気がふっと軽くなった。
いつものようにソファの上にKAMIが現れたのだ。
今日の彼女は、月島蓮のグッズ(なぜかもう販売されている)のうちわをパタパタと仰いでいる。
「あら、いい男じゃない。月島くん」
KAMIはモニターの中の英雄を、楽しそうに眺めた。
「彼、私が隠しておいた宝箱を最初に見つけた子なのよ。
『独り占め』じゃなくて『みんなで分ける』っていう選択肢を選ぶあたり、日本人っぽくて面白いわね」
「KAMI様」
九条が尋ねた。
「海外の動きはいかがでしょうか?」
「んー、バラバラね」
KAMIは世界地図を空中に投影した。
「中国では『青龍ギルド』ができたわ。あれは実質、軍の下部組織ね。完全なトップダウンで、効率重視の工場みたいにダンジョンを攻略してる」
「アメリカは『キャピタル・ギルド』。完全な営利企業よ。高い会費を払った会員だけが、良い装備とサポートを受けられる。格差社会の縮図ね」
「ロシアは『冬の狼』。マフィアと元軍人が混ざった、力の信奉者たち。まあ、あそこはあそこで秩序立ってるけど、ちょっと野蛮かしら」
彼女は、日本の月読ギルドのマークを指さした。
「それに比べて日本は、『公式ギルド(お役所)』と『非公式ギルド(ボランティア)』が仲良く手を取り合って進めようとしてる。世界でも珍しい、優しいモデルケースね」
「……優しいですか」
麻生は苦笑した。
「まあ、我々としては『使えるものは何でも使う』というだけですがな。民間が育ってくれれば、それだけ税収も増える」
「ふふ、素直じゃないわね」
KAMIは笑った。
「でも、いいバランスよ。
政府が土台を作り、民間がその上で自由に踊る。
この形なら、日本のダンジョン攻略は、案外世界で一番安定して進むかもしれないわね」
日本独自の官民連携エコシステム。
公式ギルドという絶対的なインフラの上に、月読ギルドという柔軟な互助組織が乗ることで、日本は「誰一人取り残さないダンジョン攻略」への道を歩み始めたのだ。
「よし」
麻生は立ち上がった。
「月読ギルドには感謝状……いや、補助金を出してもいいくらいだが、まあそれは今後の成果を見てからだな。
とりあえず、彼らの活動がスムーズに行くよう、法的な障壁があれば取り除いてやれ。彼らは我々の味方だ」
世界がそれぞれの色で、ダンジョンという未知に染まっていく中。
日本は「和」をもって、その混沌を飼い慣らそうとしていた。
こうして日本のダンジョン・エイジは、公式と非公式が噛み合い、奇跡的なまでの安定成長軌道に乗ることとなった。
不安視されていた治安の悪化も、格差による分断も、日本特有の「空気を読む」力と、したたかな政治判断によって最小限に抑え込まれていた。
日本は今、世界で最も平和で、そして最も効率的にダンジョンを利用する国家として、新しい時代を歩み始めていた。




