第111話
陽が西の空へと沈み、東京の空が茜色から群青色へと変わる頃。
『ダンジョン・エイジ』の記念すべき初日は、その興奮を冷ますことなく、むしろより濃厚な熱気となって一つの場所に凝縮されていた。
渋谷・道玄坂の巨大なオフィスビルを丸ごと一棟借り上げて設営された『日本探索者公式ギルド・渋谷中央支部』。
その一階広大なロビーホールは、まるで戦場の野戦病院と証券取引所と祭りの屋台を足して割ったような、形容しがたいカオスと熱気に支配されていた。
早朝からダンジョンに潜り、泥と汗、そしてモンスターの返り血(光の粒子となって消えるため実際には濡れていないが、精神的な感触として)にまみれた探索者たちが、戦利品を抱えて長蛇の列を作っているのだ。
彼らの顔には、肉体的な疲労の色が濃い。だが、その瞳は一様に、異様なまでの輝きを放っていた。
獲物を手にした狩人の目。あるいは、宝くじの当選番号を確認しに来たギャンブラーの目。
ホールに設置された数百の電光掲示板には、リアルタイムの魔石相場と混雑状況が表示されている。
そして、無機質だが彼らにとっては天使のラッパよりも美しいアナウンスが、絶え間なく響き渡っていた。
『――整理番号1008番の方。1008番の方。5番買い取りカウンターまでお越しください』
呼ばれたのは、くたびれたジャージ姿の中年男性だった。手には、スーパーのレジ袋に入ったゴツゴツとした黒い石ころ――魔石が、無造作に詰め込まれている。
彼は震える足でカウンターへと進み、その袋をトレイの上に開けた。
カウンターの中に座るギルド職員(大手銀行から出向してきた精鋭たちだ)が、手慣れた手つきで魔石を鑑定機にかける。
ピピピ。
軽快な電子音と共に、モニターに査定金額が弾き出される。
「……はい。F級魔石が7個、欠けや不純物の混入なし。良品です」
職員は事務的な、しかし丁寧な口調で告げた。
「本日の買い取りレートに基づき、小計7万円。
それに加え、討伐証明部位として持ち込まれたゴブリンの牙などが数点。こちらの素材買い取りが合算されまして……」
職員は領収書となるタブレットを提示した。
「本日の買い取り総額、8万2,500円となります」
「……は、八万……」
男性の喉がゴクリと鳴った。
たった数時間。慣れない武器を振り回し、恐怖に耐えながら洞窟を歩き回っただけで。
彼が普段、警備員のバイトで一週間かけて稼ぐ金額が、今確定したのだ。
「送金手続きは完了いたしました。ご登録の銀行口座へは、明日の朝9時に反映されます」
職員はにっこりと、営業用スマイルを向けた。
「本日はお疲れ様でした。明日も良い探索を。――では、次の方! 1009番の方、カウンターへどうぞ!」
男性は夢遊病者のようにふらふらとカウンターを離れた。
その手には、明細書代わりのレシートが握りしめられている。
彼はホールの隅で立ち止まり、そのレシートを何度も何度も見返した。
そして、溢れ出しそうになる涙と笑いを同時にこらえながら、小さくガッツポーズをした。
「……勝った。俺は勝ったぞ……」
その光景は、ホールの至る所で繰り返されていた。
学生、主婦、フリーター、サラリーマン。
かつて「持たざる者」であった彼らが、今、自身の力で「富」を掴み取り、その重みを噛み締めている。
この日、渋谷のギルド支部だけで動いた金額は、数十億円に達しようとしていた。
***
その狂乱の様子を、ギルド建物の外に設置された特設スタジオから、ニュース番組が生中継で伝えていた。
「――ご覧ください! 現在時刻は午後6時を回りましたが、買い取りカウンターの列は途切れるどころか、仕事終わりのサラリーマン探索者なども加わり、さらに伸び続けております!」
アナウンサーが興奮気味にまくし立てる。
その隣には、日本探索者公式ギルドの広報部長(経産省からの出向官僚)が、額の汗を拭いながら座っていた。
「部長、凄まじい熱気ですね。初日の集計状況はいかがでしょうか?」
「はい」
広報部長は手元のタブレットを見ながら、慎重に、しかし誇らしげに答えた。
「全国の支部からのデータを集計中ですが……現時点での探索者一人当たりの平均買い取り金額は、およそ『8万円』となっております」
「は、8万円ですか!?」
アナウンサーが素っ頓狂な声を上げる。
「平均でですよ!? トップ層ではなく、平均で8万円! これは日本の平均日給の数倍に当たります!」
「ええ、想定以上の成果です」
部長は頷いた。
「内訳としては、やはり『魔石』が収益の大部分を占めています。ゴブリン一体から得られる魔石のエネルギー価値が、産業界での評価により高値で安定していることが大きいです。
探索者の皆さんが、安全マージンを取りつつも着実に数をこなした結果と言えるでしょう」
「なるほど……。では装備品などはどうでしょうか? 武器や防具のドロップもあったと聞いていますが」
「はい。ドロップ装備の持ち込みも、既に数千件確認されています」
部長は説明を続けた。
「装備品に関しては、ギルドが定額で買い取るのではなく、『公式オークション』への出品代行という形を取らせていただいております。
明日から開催される第二回オークションにて、これらの品が競売にかけられ、落札額から手数料を引いた額が発見者の口座に振り込まれる仕組みです」
「気になるお値段ですが……?」
「現時点でのプレ入札の状況を見る限り……F級の一般的な装備で、およそ『10万円前後』で安定しそうです」
「10万円! 前回の政府放出分と同じ水準ですね!」
「ええ。政府が上限キャップを設けたわけではありませんが、供給量が増えたことで市場原理が働き、適正価格に落ち着きつつあるようです。
今日拾った剣が、明日には10万円になる。
探索者にとっては、魔石以上のボーナスとなるでしょう」
そしてアナウンサーは、誰もが気になっている「あの質問」を切り出した。
「ところで部長……。SNSなどでは『ユニーク装備』の噂が飛び交っていますが、本日は持ち込まれましたか? 特殊な能力を持った、一攫千金のレアアイテムは!」
その問いに部長は一瞬だけ言葉を濁し、そして苦笑した。
「……えー、本日の時点では、公式カウンターへのユニーク装備の持ち込みは『ゼロ』です」
「ゼロですか? やはり確率は低いのでしょうか」
「いえ、確率論から言えば、これだけの人数が潜っていれば数個はドロップしているはずです。
ですので……『ドロップしていない』のではなく、『ドロップしたが持ち込まれていない』と見るのが妥当でしょう」
「ああ、なるほど!」
アナウンサーは納得したように手を打った。
「手に入れた探索者の方が、売るのを惜しんで自分で装備したか、あるいは……」
「あるいは、もっと高値で売れるタイミングを見計らって、隠し持っているかですね」
部長はカメラの向こうの「幸運な誰か」に向けて、苦言を呈するように付け加えた。
「ギルドとしては戦力向上のためにも、ぜひご自身で使っていただくか、公式ルートでの適正な取引をお願いしたいところですが……まあ、個人の所有物ですので強制はできません」
「なるほど……。夢がありますねぇ」
アナウンサーは、スタジオの空気を明るく締めくくった。
「ともあれ、探索者一日目は大きな事故もなく『順調』ということでよろしいでしょうか?」
「はい、極めて順調です」
部長は力強く頷いた。
「全国のギルド支部からも、目立ったトラブルの報告はありません。
当初懸念された『場所の奪い合い』や『ドロップ品の横取り』といった事案も、驚くほど少ない。
皆様、譲り合いの精神を持って、非常に治安良く、秩序ある探索活動をしていただいております。
日本人の民度の高さを、改めて証明した一日と言えるでしょう」
その言葉は嘘ではなかった。
人々はルールを守っていた。なぜなら、ルールを守って普通に狩りをしているだけで、十分に、あまりにも十分に儲かるからだ。
誰もが幸福な「ポジティブ・サム」のゲームの中にいた。
争う理由などどこにもなかったのだ。今はまだ。
***
夜が深まるにつれ、熱狂の舞台は現実の渋谷から、電子の海――インターネットへと移行していった。
ダンジョンから帰還し、シャワーを浴びて人心地ついた探索者たちが、次々と「本日の戦果」をSNSに投稿し始めたのだ。
X(旧Twitter)のタイムラインは、札束の画像と興奮したテキストで埋め尽くされていた。
『【悲報】ワイ高校生、学校サボってダンジョン行ったら日給8万稼いでしまうwww』
『もう学校行ってる場合じゃねぇ! これ一ヶ月続けたら年収1000万コースだぞ?』
若者たちの、既存の社会システムに対する強烈な嘲笑と勝利宣言。
「汗水垂らして働く」という美徳が、音を立てて崩れ去っていく音が聞こえるようだった。
『F級ダンジョン攻略スレ Part.105』
562 名無しさん@探索者
今日の結果報告。パーティ4人で6時間潜って、魔石32個ドロップ、武器2本。
一人頭の取り分、約12万円。笑いが止まらん。
570 名無しさん@探索者
>>562
おま勝ち組すぎんだろ。俺なんかソロで、ビビリながら入り口付近ウロウロしてただけで3万だぞ。
それでもバイト一週間分だがな!
588 名無しさん@探索者
てかマジでチョロいな。ゴブリンとか動きトロいし、防具ありゃノーダメだし。
これ、現代人がやる「狩り」じゃねえよ。「収穫」だよ。農家のおっちゃんが野菜収穫するのと変わらん。
605 名無しさん@探索者
問題は明日からだな。今日の結果見てビビってた連中も、絶対雪崩れ込んでくるぞ。
入場制限かかる前に並ばないと、ヤバいかもしれん。
620 名無しさん@探索者
俺、明日会社に辞表出してくるわ。課長に「体調不良」って嘘ついて休んで今日行ったんだけど、もうあの席に戻れる気がしねえ。
俺の本当の居場所は、あの暗い洞窟の中にあるんだよ。
ネットの掲示板も動画サイトも、どこもかしこも「ダンジョン・バブル」一色だった。
誰もが、自分の成功体験を語りたがり、まだ見ぬ成功を夢見ていた。
そしてその熱狂の裏側で、確実に進行している「社会の歪み」に、まだ多くの人は気づいていなかった。
教室から生徒が消え、オフィスから若手社員が消え、工場から作業員が消えていく。
額に汗して働くことの尊さが、「日給8万」という圧倒的な現実の前に、急速に色褪せていく。
それは、国家というシステムが内側から溶解していく、甘美で、そして致死的な毒のようだった。
***
官邸地下司令室。
麻生ダンジョン大臣は、モニターに映るSNSの惨状を見ながら、渋い茶をすすっていた。
「……『学校行ってる場合じゃねぇ』か。まあ、彼らの気持ちも分からんでもないがな」
彼は苦々しく笑った。
「勤労の義務、納税の義務、教育を受けさせる義務。
国民の三大義務が、ダンジョンというブラックホールに吸い込まれていくようだ」
隣に立つ九条の分身が、淡々と報告する。
「文科省からは、全国の高校・大学での欠席率が異常値を記録したとの悲鳴が上がっております。経団連からも、若手社員の退職ドミノに対する懸念が表明されています。
このままでは、実体経済が空洞化します」
「分かっておる」
麻生は茶碗を置いた。
「だが今は泳がせておけ。人間、急激に手に入れた金は、急激に使いたくなるものだ。
彼らが稼いだ8万円は、明日には最新のスマホになり、焼肉になり、あるいは次の装備代に消える。
金は天下の回りもの。消費が爆発すれば、景気は良くなる。
労働力不足は痛いが、まあ移民政策かAI化で埋めるしかないだろうな」
彼は冷徹なリアリストとして、このカオスさえも計算に組み込んでいた。
「それに……」
麻生はモニターの片隅に映る、あるデータを指さした。
それはD-POLが作成した『要注意人物リスト』の更新データだった。
「今日一日でレベルアップを果たし、Tier 4(潜在的脅威)に認定された民間人が、推定で三千人。
彼らは力を手に入れた。そして金も手に入れた。……増長しないわけがない」
彼は予言した。
「明日の夜あたりから、街の空気が変わるぞ。酒が入れば気も大きくなる。
『俺は選ばれた人間だ』と勘違いした若者が、一般市民相手に力を誇示し始める。
……高梨長官には、D-POLの夜間パトロールを強化させておけ。祭りの後は、決まって喧嘩が起きるものだ」
順調すぎる初日。
それは、これから始まる本当の混乱への、静かな助走に過ぎなかった。
日本は今、ブレーキの壊れたジェットコースターに乗って、未知の領域へと加速し始めていた。




