第110話
夜明け。
東京・渋谷の上空には、いつもの煤煙交じりの空ではなく、まるで新しい世界の始まりを告げるかのような、突き抜けるような青空が広がっていた。
スクランブル交差点の中心、漆黒のダンジョンゲートの前には、徹夜組を含めた数万人の探索者予備軍が幾重もの列をなして、その時を待っていた。
空気は興奮と緊張、そしてかすかな汗の匂いで満ちている。誰もが手元のスマートフォンで時間を確認し、あるいは震える手で装備のベルトを締め直している。
上空には各テレビ局の報道ヘリが旋回し、その轟音が地上の熱気と混じり合っていた。
地上では特設スタジオが組まれ、アナウンサーたちが声を張り上げている。
「――おはようございます! 歴史的な朝を迎えました! 渋谷スクランブル交差点前、特設スタジオから生中継でお伝えしております!」
アナウンサーの背後には、黒いゲートと、それを囲む人の波。
「ご覧ください、この熱気! まるで初詣のような、いや、それ以上の熱狂です! あと数分でこのゲートが開きます。人類が初めて、自らの足でダンジョンへの一歩を踏み出す瞬間です!」
彼女は手元のフリップをカメラに向けた。重要なルールの確認だ。
「さて、改めて本日開放されるダンジョンの『仕様』について確認しておきましょう。政府からの事前発表によれば、ダンジョン内部は通常『インスタンス・ダンジョン』と呼ばれる形式になっています。つまり、パーティーごとに個別の空間が生成され、他のグループと鉢合わせることはないというシステムです」
彼女は言葉を切り、ゲートの方を振り返った。
「……ですが! 本日のように、あまりにも多くの探索者が同時に殺到した場合、システムは一時的に『共有空間モード』へと移行するとのことです! 具体的には、一つのダンジョン空間に最大で100名前後の探索者が同時に収容される形になります。これは、いわば『混雑時の入場制限』のようなものですが、逆に言えば、多くの仲間と共に探索できるという安心感もあるかもしれません!」
その解説の最中、ゲートが低い唸り声を上げ始めた。
午前9時。
ゲートの内側の闇が、ゆっくりと渦を巻き始める。
「――開きました! ダンジョンゲート、オープンです!!」
「うおおおおおおおおおおおおッ!!!」
地鳴りのような歓声と共に、最前列の集団が一斉にゲートへと雪崩れ込んでいく。
D-POLの隊員たちが「押さないでください! 順番に!」と声を枯らして叫ぶが、その声は熱狂の渦にかき消されていく。
***
その熱狂の渦の中に、一人のベテラン記者とカメラマンの姿があった。
テレビ局の取材クルーだ。彼らもまた、特別に許可を得て第一陣の探索者たちと共に、ダンジョンへと足を踏み入れようとしていた。
「……よし、行くぞ。カメラ回せ」
「了解です」
記者はマイクを握り締め、ゲートの直前でカメラに向かってレポートを始めた。
「えー、現在続々と探索者たちがゲートをくぐっていきます! 私もこれから、彼らの後を追って内部へと潜入取材を敢行します!」
彼は列に並んでいた一人の若者にマイクを向けた。
新品の『F級・革の鎧』に身を包み、手にはスポーツ用品店で買った野球のバットを握りしめている大学生風の男だ。
「すいません、ちょっといいですか? 今の心境は?」
「えっ? あ、はい!」
若者は緊張と興奮で顔を紅潮させていた。
「緊張してますか?」
「そりゃあ……緊張してないって言ったら嘘になりますね(笑)。手が震れてますもん」
彼はバットを握る手を見つめた。
「でも、今日まで友達と河川敷で素振りとかして訓練してきたんで! イメトレは完璧っす! 大丈夫だと思います!」
「なるほど、頼もしいですね! 不安はないですか?」
「いやー、いざとなったら周りにこれだけ人がいますからね! 共有空間って聞いて逆に安心しましたよ。みんなでタコ殴りにすれば勝てるっしょ、みたいな(笑)」
若者はそう言って仲間たちと笑い合った。その笑顔には、未知への恐怖よりも祭りへの期待感が勝っていた。
「ありがとうございます! 気をつけて!」
記者は彼らを見送り、そして自らもゲートへと足を踏み入れた。
視界が一瞬、真っ白になる。
浮遊感。
そして次の瞬間。
「おお……」
記者の口から感嘆の声が漏れた。
そこは薄暗い洞窟だった。
だが決して真っ暗ではない。岩肌に密生した淡い青色の苔が、蛍光灯のように周囲を照らし出し、幻想的な光景を作り出している。
空気はひんやりとしていて、どこか土と鉄の混じったような、不思議な匂いがする。
「……凄いですね。これがダンジョンですか……」
カメラマンがその光景を360度パンして撮影する。
「洞窟ですよ、本当に。でも足場は悪くないですね。舗装された道路みたいに平らです。これなら普通の運動靴でも問題なく歩けそうです」
彼らは先行する探索者たちの集団について、洞窟の奥へと進んでいった。
数十メートルほど進んだところで、開けた空間に出た。
そこには先に入った100人ほどの探索者たちが、武器を構えて何やら待ち構えている様子だった。
「お、あそこで止まってますね。行ってみましょう」
記者は集団の中に割って入った。
「すいませーん! 〇〇テレビです! 取材良いですか?」
声をかけられたのは、作業着姿の中年男性と、その同僚らしき数人のグループだった。手には工事現場で使うような鉄パイプやツルハシを持っている。
「おっ、テレビ? いいですよー、映して映して!」
男性は気さくに応じた。
「今、何を待っているんですか?」
「ああ、ゴブリンの『リポップ』待ちですわ」
男性は洞窟の奥の暗がりを指さした。
「さっき先行組が倒しちゃってね。どうやらこのエリア、1分間に1体くらいのペースで湧くみたいなんですよ。だから、こうやってみんなで順番待ちしてる最中です」
「なるほど、順番待ちですか! まるで人気ラーメン店の行列ですね」
「ハハハ、違いない!」
その時、前方の空間が歪み、緑色の小柄な影が姿を現した。
ゴブリンだ。
「おっ! リポップしましたね!」
最前列にいた若者グループが声を上げた。
「よし、俺たちの番だ! 釣るぞ!」
一人が小石を投げてゴブリンの注意を引き、自分たちの方へと誘導する。
「こっちだ、こっちだ!」
ゴブリンが奇声を上げて追いかける。その隙に、他の探索者たちは手を出さずに見守っている。
「へえー、こうやって一匹ずつ別に引っ張っていくんですね」
記者は感心したように実況した。
「無法地帯になるかと思いきや、皆さん意外とマナーが良いというか、秩序立っていますね」
「まあねえ」
作業着の男性がタバコをふかしながら(本当はダンジョン内禁煙だが、誰も注意しない)言った。
「いきなり全員で殴りかかったら危ないし、取り分でもめるからな。早いもん勝ちってことで、暗黙の了解ができてるみたいよ」
その時、戦闘中のグループから歓声が上がった。
「やった! 倒したぞ!」
「おい、何か落ちた!」
ゴブリンが光の粒子となって消え、その場に黒い小さな石が転がった。
「魔石だ! 魔石が出たぞ!」
記者は慌ててカメラマンに合図を送る。
「撮れましたか!? 今、魔石がドロップしました! 取材したところによりますと、このゴブリンの魔石、ギルドの買い取り価格は、なんと一つ『1万円』からスタートとのことです!」
彼はカメラに向かって指を立てた。
「1万円ですよ、皆さん! あの小石一個で! いやー、美味しいですねぇ。これは夢がありますよ!」
「ドロップ率が気になるところですが……」
記者は作業着の男性に尋ねた。
「どうですか? 結構落ちてますか?」
「ああ、悪くないね」
男性は頷いた。
「さっきから見てるけど、3体に1回くらいは落ちてる感じだ。まあ、一日粘れば5個くらいはドロップするんじゃないか? との事前情報もあったしな。このペースなら5万円は堅いですよ」
「5万円! 日当5万ですか!」
記者は大袈裟に驚いて見せた。
「いやー、探索者凄いですね……。これなら高い装備を買った甲斐もあるというものです」
「装備といえば」
記者は男性の持っている鉄パイプに目を向けた。
「お父さんたちは、その……専門の装備ではないようですが、危険ではないんですか?」
「ああ、これ?」
男性は鉄パイプを軽く振ってみせた。
「全然平気。事前情報より敵が弱くて拍子抜けしてるくらいだよ。こいつで一発殴れば、ゴブリンなんてイチコロだ。まあ、防具は一応バイク用のプロテクター着込んでるけどな。これさえあれば、噛みつかれても痛くも痒くもない」
「なるほど……。バットと防具さえあれば余裕ということですね」
記者はカメラに向かって頷いた。
その表情からは、入洞前にあった緊張感は完全に消え失せていた。あるのは、目の前の「あまりにも美味しい現実」に対する純粋な興奮だけだった。
「視聴者の皆さん、ご覧の通りです! 事前の懸念とは裏腹に、現場は非常に和やか、かつ順調な滑り出しを見せております! モンスターも想像以上に弱く、一般の方でも十分に太刀打ちできているようです! ここは危険な迷宮ではありません! 宝の山です!」
その時、また別のグループから大きな歓声が上がった。
今度は少し離れた場所に陣取っていた大学生風の集団だ。
「うおっ! また魔石だ!」
「こっちも出たぞ! これで今日3個目だ!」
会場のボルテージが一気に上がる。
薄暗い洞窟内は、パチンコ店で大当たりが連発している時のような、射幸心と歓喜が混ざり合った熱気に包まれていた。
「おっ、また魔石が出たみたいですね! 初日だからでしょうか、ドロップ率が良いですね!」
記者は興奮気味に伝えた。
「レベルアップの報告はまだのようですが、この調子なら時間の問題でしょう!」
先ほどの作業着の男性が、ニヤリと笑って言った。
「へへっ。まあ魔石もいいけどよ、俺が本当に狙ってるのは『ユニーク装備』ですよ」
「ユニーク装備ですか!」
「ああ。事前のオークションには出なかった、特殊能力付きのレアアイテムだ。噂じゃ、F級でもドロップする確率はゼロじゃない。もし出れば、買い取り価格は100万円してもおかしくないとか、ギルドの表にも書いてあったしな……。もしそんなのがポロッと落ちたら、明日から俺は社長だぜ!」
「ハハハ! 夢がありますね!」
記者はカメラに向かって満面の笑みで締めくくった。
「……というわけで、渋谷ダンジョン内部より、熱狂の様子をお伝えしました! 今のところ、大きな混乱や怪我人はゼロ! 皆さん、順番待ちのルールを守って安全に、そして着実に稼いでおります! 以上、現場からでした!」
***
その中継映像は、日本全国のお茶の間にリアルタイムで届けられていた。
そして、その映像がもたらした衝撃は、数ヶ月前のゲート実験の時以上だった。
「……おい、見たかよ」
都内のオフィスで休憩中のサラリーマンたちが、テレビに釘付けになっていた。
「鉄パイプで殴るだけで一万円だぞ? 時給いくらだよ」
「俺の残業代より高いじゃないか……」
「防具さえあれば安全って、マジだったんだな」
「すげえ……本当にゲームみたいだ」
大学の食堂で学生たちが騒然とする。
「魔石一個で一万!? 俺のバイト代の何倍だよ!」
「俺、家に金属バットあるぞ。今から行かね?」
「行こうぜ! 乗り遅れるな!」
テレビの前でまだ迷っていた人々が、次々と立ち上がった。
「死ぬかもしれない」という恐怖は霧散し、代わりに、強烈な「乗り遅れたくない」「損をしたくない」という焦燥感と欲望が鎌首をもたげていた。
そして、SNSのトレンドは一色に染まった。
『#ダンジョン余裕』
『#魔石ドロップ』
『#時給5万』
『#今すぐ渋谷行け』
『#バットでOK』
初日の混乱もなく、死者もゼロ。
懸念されていたようなパニックは起こらず、むしろそこにあったのは、新しいゴールドラッシュに沸く、あまりにも健全で、あまりにも景気の良い熱気だけだった。
官邸の地下司令室でその様子を見ていた麻生大臣は、ほうっと安堵の息をつき、そしてニヤリと笑った。
「……勝ったな。国民は味を占めた。これでもう誰もダンジョンを怖がらん。金になる木だと分かれば、日本人は勤勉に働くさ」
日本は今日、貧困や閉塞感を打破する無限の富への入り口を、完全に手に入れたのだ。
その、あまりにも順調で、あまりにも夢のあるスタートに、国中が酔いしれていた。
誰もが、明日はもっと稼げると信じて、希望に胸を膨らませていた。




