第109話
季節は巡る。神が作った箱庭の上でも、時間は無慈悲に、そして平等に流れていった。
あの日、麻生ダンジョン大臣が世界に向けて放った「半年後の約束」。
そのタイムリミットに向け、日本という国家は、いや人類という種は、かつてないほどの速度で進化し、適応し、そして変貌を遂げていた。
その半年間は、後世の歴史家たちによって『大いなる助走期間』と呼ばれることになる。
それは、熱狂と混乱、そして驚異的な技術革新がカクテルのように混ざり合った、あまりにも濃密な半年間だった。
***
【第一月:Dリーグの覇権】
金曜の夜、日本のゴールデンタイムは完全に塗り替えられた。
プロ野球でも、バラエティ番組でもない。視聴率40%超えを叩き出す国民的コンテンツ、それが『D-League』だった。
国立ダンジョン・アリーナは、毎週末、興奮の坩堝と化した。
その中心にいたのは、やはり彼だった。
“剣聖”ケンタ。
かつての平凡な大学生は、今や企業のロゴだらけのマントを羽織り、CMに引っ張りだこの国民的英雄となっていた。彼のトレードマークであるF級片手剣による「燕返し」のような剣技は、全国の少年たちの模倣の的となり、剣道場の入門者は前年比500%を記録した。
「ケンタが勝つか負けるか」。それが翌日の学校や職場での唯一の話題だった。
企業は彼に群がり、莫大なスポンサー料が動いた。
【第二月:魔石革命の衝撃】
KAMIの助言通り「EV車には使えない」という制限付きで発売された『魔石バッテリーシール(民生用)』。
その発売日、家電量販店の前には徹夜組の長蛇の列ができた。
価格は一枚3,000円。
それをスマートフォンの背面に貼るだけで、バッテリー残量は永遠に100%を維持する。充電ケーブルという概念が、この世から消滅した瞬間だった。
影響はそれだけにとどまらない。ノートPC、ドローン、電動アシスト自転車――あらゆる携帯機器が「無限の動力」を手に入れた。
株価は大乱高下した。電力会社の株が暴落する一方で、魔石関連企業の株は成層圏を突破する勢いで上昇した。石油業界は安堵のため息をつきつつも、来るべき「完全移行」への恐怖に震えながら、水面下でのロビー活動を激化させていた。
【第三月:超人警察(D-POL)の威信】
ある深夜、六本木の路上で起きた半グレ集団同士の抗争。
そこに投入されたのは、警視庁が極秘裏に編成し、訓練を終えたばかりの『D-POL』第一機動隊だった。
ニュース映像が捉えたのは、一方的な蹂躙劇だった。
金属バットやナイフを振り回す暴徒たちに対し、漆黒のプロテクターに身を包んだ隊員たちは、魔法による身体強化で弾丸のような速度で接近し、触れることさえ許さず制圧していく。
「公務執行妨害だ。――鎮圧する」
隊長が冷徹に告げ、指先から放った『スタン(麻痺)』の魔法が、数十人の暴徒を一瞬で意識喪失に追い込んだ。
その圧倒的な「暴力装置」としての性能に、国民は戦慄し、そして安堵した。
「力を持つ者が暴走しても、国が止めてくれる」。その安心感が、ダンジョンへの恐怖をわずかに和らげた。
【第四月:法と税の決着】
国会での不毛な議論は、ついに決着を見た。
『ダンジョン特別措置法』の成立。
未成年の探索活動は「条件付き許可」。税制については、麻生と財務省が押し切る形で「初年度は現行法維持(ただし事後調整あり公式オークションでの売却は非課税)」という玉虫色の決着となった。
だが、最も重要なのは、探索者ギルドの法的地位が確立されたことだった。
これにより探索者は「自営業者」でも「公務員」でもない、全く新しい法的身分『探索者』として定義され、専用のIDカードと口座を持つことが義務付けられた。
これは、国家による国民の「強さ」と「資産」の完全管理システムの完成を意味していた。
【第五月:第二次〜第五次オークション】
自衛隊の献身的な(というより過酷な)周回作業により、予定通り合計五万セットの装備品が市場に放出された。
価格は依然として高騰していたが、初期のような狂乱は落ち着きを見せ始めていた。
「F級装備は通過点に過ぎない」。
国民の目が肥えてきたのだ。彼らは来るべき「本番」で、自らの手でより強力なアイテムを掴み取ることを夢見始めていた。
***
そして運命の半年後。
ダンジョン開放まで、あと一週間と迫ったある日。
日本列島は再び、物理的な地殻変動にも似た衝撃に揺れた。
『国家空間輸送網』第一次工事完了及び一斉開業。
午前九時。
札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、福岡、那覇。
全国の主要八都市の中心部に設置された巨大な白銀のリングが、一斉に起動した。
「――接続確認。空間歪曲率正常。座標固定完了」
東京・新宿駅の地下深くに新設された『東京ゲートターミナル』。
その巨大なホールの壁一面に並ぶゲートの一つ、『東京-札幌』ラインの前で、記念すべき最初の渡航者が足を踏み出した。
コートを着込んだビジネスマンが東京のゲートをくぐる。
その一瞬後。
彼は雪の舞い散る札幌・大通公園の地下ターミナルに立っていた。
所要時間0.5秒。
東京の朝のコーヒーの温もりが冷めやらぬうちに、彼は北の大地の空気を吸い込んだのだ。
「……信じられない」
彼は震える声で言った。「本当に繋がっている……」
同じ奇跡が、全国八箇所で同時に起きていた。
那覇でTシャツ姿の若者がゲートをくぐり、次の瞬間には大阪・梅田の雑踏の中に放り出される。
博多でラーメンを食べた観光客が、その足で東京のオフィスに出社する。
距離の死。
日本列島という細長い島国が、実質的に一つの巨大な都市国家へと圧縮された瞬間だった。
メディアはこの革命を「列島改造論の最終形」と称え、経済界は物流コストの消滅による利益を計算して狂喜した。
だが、このゲート網の真の意義はそこにはない。
それは、一週間後に迫った「ダンジョン開放」のための血管だった。
「これで準備は整った」
官邸の執務室で、モニターに映るゲートの稼働状況を見つめながら、麻生大臣は静かに言った。
「地方の若者たちが、地元のゲートを使って瞬時に東京や大阪のダンジョンへアクセスできる。『東京一極集中』という批判は、この物理的な平準化によって封殺した。探索者は住む場所を選ばず、稼ぐ場所へと移動できる。……完璧な動線だ」
そう。このゲート網こそが、数千万人の国民をスムーズにダンジョンへと送り込み、そしてそこから産出される資源を効率的に回収するための、巨大なベルトコンベアだったのだ。
***
そして時は流れる。
カウントダウンは、ついに「ゼロ」へと近づいていく。
ダンジョン開放前夜。
東京・渋谷。
そこは、もはや日本の都市ではなかった。
戦場へ向かう兵士たちの野営地。あるいは、ゴールドラッシュに沸く開拓時代の宿場町。
スクランブル交差点の巨大なゲートを中心に、放射状に広がる通りという通りが、人で埋め尽くされていた。
その数、推定十万人。
警察の規制線などとうの昔に決壊し、道玄坂から宮益坂、果ては原宿方面に至るまで、アスファルトの上には無数の簡易テントや寝袋が敷き詰められている。
夜空を焦がすのはネオンの光ではない。
人々が持ち寄った携帯コンロの火や、魔石バッテリーで駆動するランタンの明かりだ。
あちこちから肉を焼く匂い、カップ麺の湯気、そして興奮した人々の熱気が立ち上り、渋谷の夜空に白い靄を作っていた。
「おい、装備のチェックは済んだか?」
「ポーションは? 包帯は持ったか?」
「明日の朝イチで突入するぞ。絶対に出遅れるなよ」
テントの中で、路上で、若者たちが円陣を組み、作戦会議を開いている。
彼らの装備は様々だ。
オークションで競り落とした正規のF級装備に身を包み、誇らしげに剣を磨く「ガチ勢」。
工事現場のヘルメットに、自作の槍や改造した農具を握りしめる「貧乏学生パーティ」。
そして企業ロゴの入った真新しいジャージを着込み、専属のコーチから指導を受ける「実業団チーム」。
彼らの瞳に宿っているのは、恐怖ではない。
希望だ。
今の生活を変えたい。
誰よりも強くなりたい。
大金持ちになりたい。
それぞれの欲望が、この渋谷という巨大な坩堝の中で煮えたぎり、飽和していた。
テレビの中継ヘリが、上空からその光景を映し出す。
『――ご覧ください! この光景を! 明日午前九時、このゲートが開く瞬間を待つ人々で、渋谷は埋め尽くされています! 彼らは皆、夢を見ています! この漆黒の穴の向こうに広がる新しい世界を!』
***
その熱狂を、地上から隔絶された静寂の中で見守る者たちがいた。
首相公邸地下危機管理センター。
沢村総理と九条官房長官。その四つの身体は、今夜ばかりは全ての業務を停止し、ただ一つのモニターを見つめていた。
そこには渋谷だけでなく、同時に開放される予定の大阪・梅田、名古屋・栄、札幌・大通、福岡・天神のゲート前の映像が、分割画面で映し出されている。
どこも同じような熱狂に包まれていた。
「……来たな、この日が」
本体の沢村が、ブランデーの入ったグラスを揺らしながら、ポツリと言った。
眠らない身体を手に入れて半年。
彼らが積み上げてきた法案調整、裏取引、その全ての結晶が明日試される。
「ええ」
九条の本体が静かに応じた。
「D-POLの配置は完了しています。全国のゲート周辺に計五千名の隊員を展開。万が一、暴動やモンスターの氾濫が起きても、即座に鎮圧可能な体制です」
「医療班も待機済みです。月読研究所の治癒魔法班も、緊急搬送に備えています」
万全だ。
人間ができる準備は、全てやり尽くした。
あとは、神のサイコロがどう転ぶか、それだけだった。
「……九条君」
沢村は、モニターの中の希望に目を輝かせる若者たちの顔を見つめた。
「彼らは幸せになれると思うか?」
その問いに、九条は少しだけ沈黙した。
そして、いつもの冷徹な声で、しかしどこか優しさを滲ませて答えた。
「……分かりません。多くは傷つき、挫折し、あるいは命を落とすかもしれません。ですが、少なくとも彼らは、昨日までの閉塞した日常にはなかった『可能性』を手にしました。自分の力で自分の運命を変えられるかもしれないという、その可能性を。……政治家として、我々が彼らに与えられたのは、それだけです」
「そうだな」
沢村はグラスを掲げた。
「……乾杯しよう。我々の長かった準備期間の終わりに。そして、彼らの冒険の始まりに」
チン。
静かな乾杯の音が、地下室に響いた。
***
そして、もう一箇所。
この世界の喧騒を、誰よりも高い場所から見下ろす部屋があった。
東京・橘栞のマンション。
部屋の明かりは消されている。
窓から差し込む月明かりと、ホログラムディスプレイの蒼い光だけが、二人の少女の姿を照らしていた。
ワークチェアに座る本体の栞。
ソファに寝転がる分身のKAMI。
「……いよいよ明日ね」
KAMIが、手元のタブレットでSNSのタイムラインを眺めながら呟いた。
「『明日から本気出す』って書き込みが、一億件くらいあるわよ」
「いいじゃない」
栞はコーヒーを一口すすった。
「みんな楽しそうで何よりよ」
彼女の目の前のモニターには、システム管理画面が表示されている。
『ダンジョン・システム:ステータス・オールグリーン』
『モンスター生成モジュール:スタンバイ』
『ドロップテーブル:F級・一般開放モードに設定完了』
「ねえ、私」
KAMIが、ふと真面目な顔で問いかけた。
「本当にこれで良かったの? この世界をこんな風に変えちゃって。明日から、たくさんの人が死ぬかもしれないわよ? 社会が壊れるかもしれないわよ?」
その問いは、分身としての彼女が、この半年間、人間たちと接する中で抱いた、ささやかな情の表れだったのかもしれない。
栞はゆっくりと椅子を回転させ、もう一人の自分を見つめた。
その瞳は、夜の闇よりも深く、そして星々よりも明るく輝いていた。
「……変えたんじゃないわ」
彼女は静かに言った。
「私はただ、選択肢を増やしただけよ。退屈で安全な檻の中で生きるか。危険で自由な荒野へ飛び出すか。それを選ぶのは、彼ら自身」
彼女は窓の外、眠らない東京の街を見下ろした。
無数の光の一つ一つに、明日への不安と希望を抱いた人間たちがいる。
「それにね」
栞はにこりと笑った。
「人間って、あなたが思ってるよりずっと逞しいわよ。並行世界を見てきた私が言うんだから、間違いないわ。彼らはきっと、この新しいルールを使いこなして、私たちが想像もしなかったような面白い物語を、勝手に作り出してくれるはずよ」
「……そうね」
KAMIもつられて笑った。
「沢村さんたちも、なんだかんだ言って楽しそうだしね」
「ええ。だから、私たちは特等席で、そのショーを楽しませてもらいましょう」
栞はシステム画面の最終確認ボタンに指をかけた。
「さあ、時間よ」
時計の針が午前零時を回る。
日付が変わった。Xデー。
栞の指が、エンターキーを叩く。
【システム・アナウンス:全世界のダンジョンゲートロック解除シークエンスを開始します】
【開放まであと9時間】
夜が明ければ、世界は変わる。
剣と魔法と、そしてスマホとSNSが交錯する、奇妙で残酷で、そして最高にエキサイティングな日常が始まる。
「おやすみ、世界」
栞は呟いた。
「良い夢を。……そして目覚めたら冒険の時間よ」
東京の東の空が、微かに白み始めていた。
新しい時代の夜明けが、すぐそこまで来ていた。




