第108話
その夜、東京・千駄ヶ谷。
かつて平和の祭典が行われた『国立競技場』は、今や人類の歴史上、最も熱く、そして最も野蛮な興奮の坩堝と化していた。
『国立ダンジョン・アリーナ』。
麻生ダンジョン大臣の肝煎りで改修されたこの巨大スタジアムは、超満員の八万人の観衆で膨れ上がっていた。夜空を焦がすほどのカクテル光線が、アリーナの中央に設けられた一辺50メートルの正方形のステージを照らし出している。
そのステージの周囲には、KAMIから供与された『HP制・不可侵結界』発生装置が、淡い青色の光の壁を作り出していた。
「さあ、いよいよメインイベントの時間がやってまいりましたァ!!」
スタジアム中に響き渡る実況アナウンサーの絶叫。
同時に巨大なホログラムスクリーンに、今日の対戦カードと現在のオッズがデカデカと表示される。
『D-League プレシーズン 第12節 メインマッチ』
【赤コーナー】
チーム・トヨタガーディアンズ所属
“不沈艦” 大神 剛
(元柔道金メダリスト / 装備:F級・タワーシールド&ヘビィメイス)
VS
【青コーナー】
チーム・ソフトバンクナイト所属
“シンデレラ・ボーイ” ケンタ
(大学生 / 装備:F級・片手剣&レザーアーマー)
「うおおおおおおおおおッ!!」
「ケンタァ!! 頼むぞオイ!!」
「大神! 潰せ! 俺の給料全部賭けてんだ!!」
地鳴りのような歓声。
観客席には、企業のロゴが入ったタオルを振り回すサラリーマン、ペンライトを振る若い女性、そして赤鉛筆を耳に挟んだ競馬親父のような男たちが入り乱れている。
彼らの手にはスマホや端末が握られ、そこには公営ギャンブル『ダンジョンくじ(D-TOTO)』の投票画面が表示されていた。
このDリーグは単なるスポーツではない。
これは、国民の不満を吸い上げ、熱狂へと変換し、そして金へと変える、国家規模の巨大な集金装置だった。
***
アリーナの入場ゲート。
暗がりの中で、ケンタは深く息を吐いた。
心臓の音がドラムのようにうるさい。数ヶ月前まで安アパートでカップ麺をすするだけの平凡な大学生だった自分が、今は八万人の視線と、何十億円という賭け金を背負って立っている。
「……緊張してるか? ケンタ君」
声をかけてきたのは、チームの監督を務める元プロ野球選手だった。
「大丈夫だ。君の反射神経はアスリートの領域を超えている。自信を持て」
ケンタは、自分の腰に差した『F級・片手剣』の柄を、ぎゅっと握りしめた。
あの日、段ボールから取り出したただの鉄の塊。
だが今、この剣は彼の手の一部のように馴染んでいる。
「……行ってきます」
ゲートが開く。
眩い光と、爆音のような歓声が彼を包み込んだ。
「青コーナーより入場! 今や日本の希望の星!
あの『鉄板斬り』動画から全ては始まった!
才能か、それともただの幸運か!?
無敗の快進撃を続ける大学生剣士、ケェェェェェンタァァァッ!!」
ケンタがステージに上がると、対面には既に“不沈艦”大神が仁王立ちしていた。
身長190センチ、体重120キロ。その巨体を鋼鉄製の『F級・プレートメイル』で完全に覆い、左手には自身の身長ほどもある巨大な『F級・タワーシールド』、右手にはコンクリートさえ粉砕する『F級・ヘビィメイス』を構えている。
まるで歩く要塞だ。トヨタの技術陣が総力を挙げて調整した、現時点での防御力の極致。
「……いい目だ、若造」
大神が兜の奥から低い声で言った。
「だが、スポーツと殺し合いは違う。教えてやるよ、プロの重みを」
ケンタは無言で剣を抜いた。
切っ先を大神に向ける。
不思議と恐怖はなかった。
彼の中で何かが、静かに、しかし確実に覚醒しつつあった。
『才能』。KAMIが言うところの『適性』。
彼には見えていたのだ。
大神の纏う重厚な鎧の隙間、重心の移動、呼吸のリズム。それらが、まるで線となって視界に浮かび上がってくる。
『――レディ……ファイッ!!』
ゴングが鳴った。
「おおっと、大神選手いきなり突っ込んだァ!」
巨体が、信じられないスピードで突進する。
『スキル:シールドバッシュ』。
F級の補助輪スキルだが、大神の怪力が乗ったその一撃は、ダンプカーの衝突に等しい。
「くっ!」
ケンタは横に跳んだ。
ゴオォン!
彼がいた空間を、見えない衝撃波が通り抜ける。
「逃げんな、オラァ!」
大神がメイスを横薙ぎに振るう。
ブンッ!
空気が裂ける音。
ケンタはそれを剣で受け止めるのではなく、紙一重で上体を反らして回避した。
鼻先を、死の風が通り過ぎる。
(……見える)
ケンタの脳内時間は、極限まで引き延ばされていた。
大神の攻撃は重く、速い。当たれば一撃で、こちらのHPバーは消し飛ぶだろう。
だが、その軌道は直線的すぎる。
「そこだッ!」
大神が大振りのメイスを振り下ろした、その一瞬の隙。
ケンタが踏み込んだ。
速い。
観客の目には、彼の姿がブレて見えた。
『F級・疾風のブーツ』の加速効果に、彼自身の天性のバネが乗る。
ザンッ!
ケンタの剣が、大神の脇腹、鎧の継ぎ目を正確に捉えた。
「ぐうっ!?」
通常なら鮮血が噴き出し、内臓が断裂する致命傷だ。
だが、ここはDリーグ。
傷口からは血の代わりに、赤いデジタルな光の粒子が飛び散る。
そして、大神の頭上に浮かぶ緑色の『HPバー』が、ガクンと一割ほど減った。
「入ったァァァ! ケンタ選手の一撃! あの鉄壁の大神選手から、クリティカルヒットを奪ったァ!」
会場が揺れる。
だが、大神は倒れない。
「……軽いな、若造!」
彼は痛みに顔を歪めながらも、バックハンドで盾を裏拳のように振るった。
ドガッ!
回避が間に合わず、ケンタは盾の縁で弾き飛ばされた。
「がはっ……!」
地面を転がるケンタ。
彼のHPバーもまた、たった一撃で三割近く削り取られる。
「これぞ重量級のパワー! 一撃の重さが違う! ケンタ選手、大丈夫か!?」
ケンタはすぐに立ち上がった。
痛みはある。肋骨が軋むような鈍痛。
だが、彼の目は死んでいなかった。むしろ、より鋭く、より冷徹に光を増していた。
(……やっぱり正面からは無理だ。硬すぎる)
(なら削る。一点に集中して、装甲ごと貫く)
彼は剣を構え直した。
その構えを見て、VIP席で観戦していた一人の男が、思わず身を乗り出した。
「……ほう」
麻生ダンジョン大臣だった。
「あの若者、教わってもいないのに重心を変えたな。……あれは剣術の型ではない。もっと本能的な、殺すための構えだ」
ケンタが動いた。
今度は直線ではない。
ジグザグに変則的なステップを踏みながら、大神を翻弄するように迫る。
「ちょこまかと!」
大神がメイスを振り回す。
だが、当たらない。
ケンタは、まるで風のように、大神の攻撃の「間」を縫って近づいていく。
一撃。二撃。三撃。
ケンタの剣が、大神の鎧の「同じ場所」を正確に叩き続ける。
左膝の関節部分。
キンッ、キンッ、ガキンッ!
金属音が響くたび、大神のHPバーがわずかずつ、しかし確実に削れていく。
「な、なんだこいつ……!」
大神が焦りの色を見せた。
足が重い。ダメージの蓄積が、システム上の「状態異常」として反映され始めているのだ。
『ステータス異常:移動速度低下』。
「終わりだ!」
大神は勝負を急いだ。
彼は残りの魔力を全て注ぎ込み、必殺のスキルを発動させた。
「――グランド・スマッシュ!!」
彼がメイスを地面に叩きつける。
ドオオオオオン!!
アリーナの床が爆ぜ、衝撃波が全方位に広がる。
回避不能の範囲攻撃。
だが。
ケンタは跳んでいた。
衝撃波が広がるその一瞬前、彼は大神が振りかぶったその「タワーシールドの上」を蹴って、高く宙へと舞い上がっていたのだ。
「なっ……!?」
大神が見上げる。
照明の逆光の中、空中で剣を振りかぶったケンタのシルエットが黒く浮かび上がる。
ケンタの脳内で、何かが弾けた。
スキルジェムなど持っていない。魔法など使えない。
だが、彼の意志が、彼の渇望が、F級の粗末な剣に青白い燐光を纏わせた。
因果律への無意識の干渉。
『魔力放出』の萌芽。
「――はああああああッ!!」
ケンタは重力の加速と共に、その剣を大神の脳天――兜の最も硬い部分へと、一直線に突き下ろした。
ズドンッ!!
落雷のような音が響いた。
大神の巨体がその場に崩れ落ちる。
彼のHPバーが一瞬で赤色に変わり、そしてゼロになった。
【WINNER: KENTA】
巨大モニターに、勝利の文字が躍る。
一瞬の静寂。
そして爆発。
「「「ケンタ!! ケンタ!! ケンタ!!」」」
八万人の観衆が総立ちになり、その名を叫ぶ。
テレビの前で、何千万人の国民が拳を突き上げる。
賭けに勝った者の歓喜と、負けた者の悔し紛れの称賛が入り混じり、巨大な熱狂の渦となってスタジアムを揺らした。
ケンタは荒い息を吐きながら、剣を天に掲げた。
全身、汗まみれで足は震えている。
だが、その顔には、かつての自信なげな大学生の面影はなかった。
そこには、自らの力で運命を切り拓いた、一人の戦士の顔があった。
***
その熱狂を、VIPルームの防弾ガラス越しに見下ろしながら、麻生大臣は冷えたシャンパンを口に含んだ。
「……見事なもんだ」
彼は隣に座る九条官房長官にグラスを向けた。
「大衆はヒーローを求め、ヒーローは金を産む。今日の興行収入とD-TOTOの売上だけでおよそ500億円。このペースなら、三兆円の返済も、そう遠くない未来に終わるかもしれんな」
「ええ」
九条は手元の端末でデータをチェックしながら、淡々と答えた。
「それにケンタ君のデータ。興味深い数値が出ています。最後の一撃、あれは単なる物理攻撃ではありません。微弱ですが、魔力の放出が観測されました。スキルジェム無しでの魔力操作……。彼は間違いなく『Tier 5(原石)』から『Tier 2(特殊作戦級)』へと、覚醒しつつあります」
「ほう。化けたか」
麻生は面白そうに笑った。
「結構なことだ。彼のようなスターがいれば、若者たちはこぞってダンジョンを目指す。労働力不足は痛いが、まあ強い日本人が増えるのは悪いことじゃない」
彼らの視線の先では、ケンタが企業のロゴが入ったマントを羽織らされ、インタビューを受けている。
『えー、応援ありがとうございます! ソフトバンクの通信回線のように、僕も速さを意識しました!』
言わされている感満載のコメント。だが、観客はそれに熱狂する。
「……平和だな」
麻生は呟いた。
「血も出ない。死人も出ない。金が回り、国民は熱狂し、強い兵士が育つ。KAMI様々だよ。あの性格の悪さを除けばな」
だが、その平和な光景の裏側で、世界は確実にきな臭さを増していた。
九条の端末に、緊急のアラートが表示される。
『CIAより極秘情報。中国の『紅龍』チームが次回のDリーグへの参戦を打診。メンバーは全員、人民解放軍の“魔法兵士”と推測される』
『ロシアのイワノフ氏が、日本の探索者数名に対し、法外な金額での引き抜き工作を開始』
「……総理にはまだ言わなくていい」
九条はそのアラートを静かに消去した。
「今夜くらいは、この勝利の美酒に酔わせてあげましょう」
アリーナでは、ケンタへのコールが鳴り止まない。
「ケンタ! ケンタ! ケンタ!」
それは、来たるべきダンジョン本番に向けた、あまりにも華やかで、そしてあまりにも商業的な壮行会だった。
日本は今、バブルの頂点にいた。
その泡が弾けた後に何が待っているのか。
それを知るのは、神のみぞ知るだった。




