第107話
第一回・公式ドロップ品オークションから一週間。
日本列島は、熱狂という名の新しい病に侵されていた。
すべては、あの一本の動画から始まった。
大学生ケンタが裏庭で鉄板を両断した、あの『試し斬り』の映像。
それは、装備を手に入れた一万人の「勝者」たちの心に眠っていた原始的な闘争本能と、そして幼い頃からのヒーロー願望に、強烈な火をつけた。
翌日から、日本中のSNSは似たような「検証動画」で埋め尽くされた。
『【神業】F級メイスで廃車をスクラップにしてみた!』
『【実験】F級鎧vsダンプカー! 生きてます!』
『河川敷の岩を砕いてみた。これもう工事現場いらないんじゃね?』
多摩川の河川敷では、毎週末、装備を手に入れた若者たちが集まり、即席の「見せびらかし会」が開かれている。彼らは巨大な岩を砕き、流木を両断し、その超常的な力を誇示し合う。
だが、その光景は決して平和なものではなかった。
周囲を取り囲むのは、数千人の「落選者」たち。彼らの眼差しには、純粋な羨望だけでなく、どす黒い嫉妬と、そして「自分たちには手に入らない力」に対する根源的な恐怖が混じり合っていた。
トラブルは必然だった。
「おい、ちょっと貸せよ!」と装備を奪おうとする者。
「危ないだろ!」と石を投げる近隣住民。
そして、ついに起きた傷害事件。
河川敷での小競り合いの最中、興奮した装備持ちの若者が振るった剣が、誤って野次馬の腕をかすめたのだ。
F級とはいえ鉄板を紙のように切る剣だ。傷は深く、鮮血が舞った。
そのニュースは、瞬く間に日本中を駆け巡った。
『探索者予備軍暴走! 一般市民に重傷!』
『力を持たせるのは早すぎたのか!? 規制強化を求める声、高まる!』
社会に充満する不安と不満。
「力を試したい」という若者たちの爆発寸前の欲求と、「他人の力が怖い」という市民の切実な叫び。
その二つの巨大なエネルギーが、今まさに正面衝突しようとしていた。
***
霞が関、ダンジョン庁長官室。
麻生太郎は窓の外の曇り空を見上げながら、苦い顔で玉露をすすっていた。
彼のデスクの上には、警察庁からの悲鳴にも似た報告書が、山積みになっている。
「……ふん。予想通りといえば予想通りだが、少し早すぎるな」
彼は報告書を放り出した。
「若者どもめ。せっかく高い金を払って手に入れたおもちゃだ。使いたくてウズウズするのは分かるが、これでは社会が持たん」
彼の前に立つ腹心の官僚が、青ざめた顔で進言する。
「大臣、規制を強化すべきでは? このままでは、半年後のダンジョン解禁前に市街地で内戦が始まってしまいます」
「馬鹿者。規制してどうする」
麻生は一蹴した。
「禁止すれば、奴らは地下に潜るだけだ。闇試合、賭博、抗争……。アングラ化すれば、それこそ警察の手には負えなくなる。それに、彼らの『力を試したい』という欲求自体は健全なものだ。それを押し潰せば、将来の優秀な探索者の芽を摘むことになる」
彼は椅子を回転させ、天井を仰いだ。
問題の本質は「力の出口」がないことだ。
有り余るエネルギーを、安全に、そして社会的に許容される形で発散させる場所。
それさえあれば、この破壊的な衝動は、建設的な情熱へと昇華できるはずだ。
そして、麻生の脳裏に、一つの悪魔的で、そしてあまりにも魅力的な閃きが走った。
「……そうか」
彼の口元が、三日月形に歪んだ。
「発散させる場所がないなら、作ってやればいいではないか」
「は?」
「殴り合いたいなら、思いっきり殴り合わせればいい。斬り合いたいなら、斬り合わせればいい。ただし、我々が管理する『檻』の中でな」
麻生は立ち上がった。その目には、久々に獲物を見つけた猛獣のような鋭い光が宿っていた。
「そして、それを『見世物』にするのだ」
「見世物……ですか?」
「そうだ。古代ローマのコロッセオを見ろ。民衆は、いつの時代も力と力のぶつかり合いに熱狂する。それを国家が主催し、エンターテイメントとして提供すれば、不満は熱狂へと変わり、恐怖は興奮へと変わる」
そして、彼は最も重要な点を付け加えた。
「ついでに、そこから金を稼げば一石三鳥だ」
彼は即座に、九条官房長官に連絡を入れた。
「九条君。KAMI様のアポを取ってくれ。今すぐにだ。……ああ、手土産は『とらや』の羊羹でいいだろう。面白い提案があると伝えれば、彼女は必ず食いつく」
***
一時間後、首相公邸地下執務室。
麻生と九条、そして沢村総理の四つの身体が、緊張した面持ちでソファに座っていた。
彼らの前には、いつものように唐突に現れたゴシック・ロリタ姿の少女が、羊羹を頬張りながら座っている。
「ふーん」
KAMIは麻生の説明を一通り聞き終えると、口元の餡子を拭いながら、面白そうに目を細めた。
「なるほどね。国民が暴れて困るから、安全に戦える場所を作りたいと」
「左様でございます」
麻生は恭しく頭を下げた。
「彼らの闘争本能は、もはや法律や道徳では抑えきれません。ならば、それをシステムとして吸収するしかない。KAMI様、あなたの力で、彼らが全力でぶつかり合っても死なない、そんな都合の良い空間を作ることは可能でしょうか?」
KAMIは、少しだけ考え込む素振りを見せた。
だが、その瞳の奥には、新しいおもちゃを見つけた子供のような、無邪気で残酷な光が宿っていた。
「……うん、いいわよ。面白そう」
彼女は、あっさりと承諾した。
「人間同士が本気で殺し合う……じゃなくて、戦い合うショーね。確かに、ただモンスターを狩るだけより、そっちの方が盛り上がりそうだし。視聴率、稼げそう」
彼女は指先で空中に、複雑な魔法陣のような図形を描き始めた。
「でも、本当に殺し合いさせちゃったら後片付けが大変よね。死体とか残るとグロいし。だから、これを使えばいいわ」
彼女が指パッチンをすると、空中に一枚のウィンドウが表示された。
そこには『HPシステム・結界モジュール(ベータ版)』という文字が輝いていた。
「じゃあ、特定のエリアだけに、この『HP制』を適用する結界を張ってあげる」
「HP制ですか?」
沢村が、ゲーム用語に疎いのか、怪訝な顔で尋ねた。
「ええ」
KAMIは、まるでゲームのチュートリアル画面のように、分かりやすく解説を始めた。
「この結界の中ではね、物理的な肉体へのダメージが無効化されるの。剣で斬られても、炎で焼かれても、痛みはあるし、衝撃で吹き飛んだりもするけど、血は出ないし傷も残らない。
その代わり、そのダメージ量に応じて、視界に表示される『HPバー』が減っていくの」
彼女は空中に緑色の長いバーを表示させ、それを指で弾いて減らしてみせた。
「そして、このHPがゼロになった瞬間、その人は『気絶』状態になる。システム的に強制シャットダウンされるわけ。目が覚めたらHPは全快してるし、どこも怪我してない。完全な無傷よ」
「……なんと」
麻生は、その完璧すぎる仕様に思わず唸った。
「つまり、擬似的な『死』を体験できるが、実際には死なない。殺し合いの緊張感を保ったまま、安全性を100%担保できると?」
「そうよ」
KAMIは得意げに胸を張った。
「これなら、思う存分、本気で殴り合えるでしょう? スポーツとして成立するわ。剣道やボクシングの、もっと過激で、もっと自由なバージョンね」
スポーツ。
その言葉が、麻生の脳内で巨大なビジネスモデルへと変換されていく。
死なない剣闘士。安全なコロッセオ。
それは、エンターテイメントとしてこれ以上ない素材だった。
「素晴らしい……! 実に素晴らしいご提案です!」
麻生は珍しく興奮を露わにした。
「これならば国民も納得するでしょう! いや、熱狂するに違いありません! KAMI様、その結界を設置していただける場所として、最適な施設がございます」
彼は東京の地図を広げ、その中心部にある巨大なスタジアムを指さした。
「ここです。新国立競技場」
東京オリンピックのために建設され、その後は負の遺産などと揶揄されることもあった、あの巨大施設。
それを新時代の闘技場として再生させる。
「ここを改修し、『国立ダンジョン・アリーナ』とします。そこで、装備を持つ者たちが技を競い合う、公式リーグ戦を開催するのです!」
「へえ、新国立競技場でバトルロワイヤルね」
KAMIは楽しそうに笑った。
「いいわね、その悪趣味な感じ。気に入ったわ。じゃあ、すぐに工事に取り掛かりましょうか。私、内装とか凝るタイプだから期待してて」
***
その翌日。
政府から、衝撃的なプレスリリースが発表された。
『国家空間輸送網整備計画(ゲート構想)及びダンジョン対策に関する緊急国民対話集会』
――という建前の下、 その実態は全く新しい国家プロジェクトの発表会だった。
麻生大臣は記者会見で、高らかに宣言した。
「昨今の探索者志望者による無秩序な訓練と、それに伴うトラブルを鑑み、政府は『公認訓練場』の設置を決定いたしました。場所は新国立競技場。そこでは、KAMI様より供与された特殊技術により、いかなる攻撃を受けても死亡することのない、完全な安全性が保障されます」
そして彼は続けた。
「この訓練場において、政府公認の模擬戦リーグ『ダンジョン・リーグ(通称:Dリーグ)』のプレシーズンマッチを開催いたします! これは、半年後のダンジョン本番に向けた実践的な予行演習であり、そして新たな国民的スポーツの祭典であります!」
Dリーグ。
その言葉は、瞬く間に日本中を駆け巡った。
殺し合いではない。スポーツだ。
怪我もしない。死にもしない。
ただ、最強を決めるための純粋な戦い。
そのコンセプトは、燻っていた若者たちの心に、爆発的な火をつけた。
「マジかよ! 公認で戦えるのか!」
「俺の強さを証明できる場所ができた!」
「テレビ放送されるって!? スターになれるチャンスじゃん!」
批判の声もあった。「暴力を助長する」「平和の祭典の会場を血で汚すのか」といった識者の声。
だが、それらは圧倒的な熱狂の波にかき消された。
人々は飢えていたのだ。
閉塞した日常を打ち破る強烈な刺激と、そして分かりやすいヒーローの誕生に。
そして、この「Dリーグ」構想に、誰よりも早く、そして鋭く反応した者たちがいた。
日本の経済界である。
大手町、経団連会館。
緊急招集された主要企業のトップたちは、目の色を変えて議論を戦わせていた。
「これは……ビジネスになるぞ」
大手広告代理店の役員が震える声で言った。
「視聴率、スポンサー収入、グッズ販売……。桁が違う。プロ野球やJリーグなんぞ目じゃない。世界中が注目するコンテンツになる!」
「選手の確保だ!」
自動車メーカーの社長が叫んだ。
「装備を持っている『当選者』を囲い込め! 彼らはもはや一般人ではない。プロのアスリートだ! 我が社のロゴを鎧に貼り付けて戦わせろ! 宣伝効果は計り知れん!」
「装備がないなら、買えばいい! 借りればいい!」
IT企業の若き創業者が、強気な発言をした。
「当選者の中には、戦う気のない者もいるはずだ。彼らから装備を買い取り、あるいはレンタルし、それを我が社が契約したプロ格闘家やアスリートに使わせるのだ! 柔道の金メダリストにF級装備を持たせれば、素人の当選者など敵ではない!」
企業の論理が動き出した。
彼らは「Dリーグ」を、単なるスポーツイベントではなく、自社の力と技術、そして資金力を誇示する、新たな「代理戦争」の場と捉えたのだ。
トヨタ、ソニー、ソフトバンク、楽天……。
名だたる大企業が、次々と参入を表明した。
『トヨタ・ガーディアンズ-重装歩兵部隊-』
『ソニー・ヴァルキリーズ-魔法・遠距離特化チーム-』
『ソフトバンク・ナイト-高機動剣闘士団-』
実在の企業名とファンタジー的なチーム名が融合した、奇妙で、しかし最高に興奮するラインナップが、次々と発表されていく。
そして、その狂乱のスカウト合戦の矛先は、当然のように、あの一人の若者へと向けられた。
動画で一躍有名になった「鉄板斬り」の大学生、ケンタである。
都内某所、ケンタの安アパート。
その狭い玄関前には、黒塗りのハイヤーが列をなし、スーツ姿の企業スカウトマンたちが、札束の入ったアタッシュケースを手に列を作っていた。
「ケンタ君! 我が社と契約を! 契約金は一億円、用意しました!」
「いや、うちは二億だ! 専属のシェフとトレーナーもつける!」
「君のその『片手剣』、我が社の技術で最高にチューンナップさせてくれ!」
ケンタは、ドアの隙間からその光景を覗き見ながら、膝を震わせていた。
「……まじかよ。俺、ただの大学生だぞ……?」
彼は自分の手に握られた、あのF級の片手剣を見つめた。
ただの鉄の塊に見えるその剣が、今や彼の人生を、そして運命を、とんでもない方向へとねじ曲げようとしている。
「……やるしかないのか」
彼は覚悟を決めたように、ドアノブに手をかけた。
この狂った世界の新しいスターとして。
あるいは、見世物小屋のピエロとして。
彼は、その第一歩を踏み出そうとしていた。
神の作った箱庭の中で。
人間たちの欲望と資本の論理が、最高に悪趣味で、そして最高にエキサイティングな「ショー」を、始めようとしていた。




