第100話
その日の朝、財務大臣室は珍しく穏やかな空気に包まれていた。
財務大臣・麻生は、湯気の立つ極上の玉露を静かにすすっていた。彼の脳裏には、数日前の深夜、官邸の執務室で繰り広げられた、あの激闘の記憶が鮮やかに蘇っていた。
三兆円。
九条官房長官が、あの鉄仮面のような無表情で突きつけてきた、国家予算を揺るがす「神の請求書」。それを、麻生は完璧な交渉術で捌いてみせたのだ。
『未来のギルド収益を担保とする借款』。
結果として、彼の、そして財務省の金庫からは、今この瞬間、一円たりとも支出されていない。彼は、自らの省の完璧な勝利に、密かな満足感を覚えていた。
(ふん。神だか悪魔だか知らんが、財政規律の前では無力よ。沢村総理も九条君も、まだまだ甘い……)
彼がその勝利の余韻に浸っていた、まさにその時だった。
執務室の内線が、けたたましく鳴った。
「――大臣、官邸の沢村総理から、至急執務室へお越しいただきたいと……」
秘書官の、どこか緊張した声。
麻生は怪訝な顔で眉をひそめた。このタイミングで一体なんだ? 借款の書類に不備でもあったか?
彼は残りの玉露を一気に飲み干すと、重い腰を上げた。
まだこの時の彼は知る由もなかった。
自らが今から足を踏み入れようとしているのが、勝利の祝杯の場などではなく、神の代理人たちが仕掛けた、巧妙で、そしてあまりにも悪質な、新しい地獄の入り口であることを。
***
首相執務室。
そこには、本体と分身――四つの身体を持つ沢村と九条が、まるで四天王のように彼を待ち構えていた。
その、あまりにも異様な光景に、麻生は一瞬たじろいだが、すぐにいつもの飄々とした仮面を被り直した。
「総理。いかがなさいましたかな、こんなに慌てて。例の三兆円の書類なら、今、担当部署が不眠不休で作成させておりますが」
「ああ、麻生大臣。よく来てくれた」
沢村は、その疲弊しきった顔に、なぜか満面の笑みを浮かべていた。
その笑顔が、麻生の心の奥底に、得体の知れない悪寒を走らせた。
「いや、他でもない」
沢村は、まるで親友に吉報でも伝えるかのように、その肩を叩いた。
「君のあの交渉手腕、実に見事だった。感服したよ」
「はあ……それはどうも」
「そこでだ」
沢村は、にっこりと――この世で最も残酷な笑顔で言った。
「君に、新しい椅子を用意させてもらった」
九条が差し出した一枚の辞令書を、沢村が麻生に手渡す。
そこには、墨痕鮮やかにこう記されていた。
『財務大臣 麻生太郎 兼ねて 内閣府特命担当大臣
(ダンジョン経済及び安全保障特命室担当)を命ず』
通称――『ダンジョン大臣』。
「…………は?」
麻生の思考が停止した。
「いや、嫌がらせなんかじゃないんだよ?」
沢村は慌てたように言いながら、その目は全く笑っていなかった。
「君があの時こう言ったんだろう? 『ダンジョン関連の支出は、ダンジョンで得られる利益から出すべきだ』と。実に慧眼だ。全くその通りだ。
つまり、ダンジョンの未来への『投資』の全てを君が仕切るということになったわけだ。
ならば、その投資の責任者である君が、その投資先であるダンジョン行政の全てを、トップとして管理・運営するのが、最も合理的で、最も筋が通っているじゃないか?
縦割り行政の弊害をなくすためにもね」
完璧な論理だった。
麻生は、自らが放った言葉によって、自らの首が完璧に絞め落とされたことを悟った。
彼は、沢村と、その背後で微動だにしない九条を、交互に睨みつけた。
眠らない四つの瞳が、一斉に自分を嘲笑っているように見えた。
「……総理。私は財務大臣として、国の財政を――」
「もちろん、それも続けてもらうよ!」
沢村は、悪魔的なまでの無邪気さで言った。
「だから『兼任』じゃないか。
ああ、そうだ。我々と違って、君にはKAMI様から授かった『分身スキル』はないだろうが……。
まあ、君ほどの優秀な政治家なら大丈夫だよね?
頑張ってね! 期待しているよ!(嫌がらせ)」
万事休す。
麻生は、その場に崩れ落ちそうになるのを必死でこらえた。
そして、その老獪な政治家の口から、本音が呻き声となって漏れた。
「……恨みますよ、総理……ッ!」
その日、日本に新しい大臣が誕生した。
神のスキルを持たない、ただの生身の人間。
そして、その両肩には、この国の――いや、この世界の――全ての矛盾と、全ての地獄が一手に乗せられることになった。
***
そして地獄は、大臣の就任初日に、その全ての門を一斉に開いた。
霞が関の一等地に急遽あてがわれた『ダンジョン大臣室』。
そこは、まだ引っ越しのダンボールさえ片付いていないというのに、この世のあらゆる問題が、吸い寄せられるかのように集まってきていた。
麻生の、すでに疲れ果てた執務机の上に、最初の、そして最も厄介な「宿題」が叩きつけられた。
「大臣。警察庁の高梨長官がお見えです。議題は『銃刀法』についてだと……」
秘書官の青ざめた声。
麻生は、もはや死人のような顔で、「……通せ」と呟いた。
入室してきた高梨は、もはや九条や沢村に見せるような、下手な遠慮は一切見せなかった。
彼は単刀直入に、その現実を、新任大臣の顔面に叩きつけた。
「――麻生大臣。ご就任おめでとうございます。で、どうなさるおつもりですか」
彼は一枚のタブレットに、渋谷での自衛隊員が『片手剣』をドロップした瞬間の、高解像度映像を映し出した。
「『銃砲刀剣類所持等取締法』。
この国では、正当な理由なく刃渡り15cm以上の剣を所持することは、重罪です。
国民の非武装こそが、我が国の奇跡的な治安の根幹です。
ですが、神が提示した未来では、『探索者になること』イコール『銃刀法違反(現行犯)』という、完全な法的矛盾が成立してしまっている」
高梨は冷徹な目で、麻生を見据えた。
「我々警察組織は、法の執行機関です。
半年後、渋谷のゲートから、剣を腰に提げた若者たちが歓声を上げて出てきたその瞬間。
我々は、彼らを全員逮捕しなければならなくなりますが。
大臣。あなたはそれを、お望みですか?」
その、あまりにも究極で、不条理な問い。
麻生は、頭痛をこらえるようにこめかみを押さえた。
「……馬鹿な。そんなことがあってたまるか。……これは、探索者に限り例外措置を設けるしかないではないか……」
彼が絞り出すようにそう言う。
「ほう。例外ですか」
高梨は、待ってましたとばかりに続けた。
「では、その『例外』を誰がどうやって認可するのですかな?
ライセンスを持てば、誰でも剣や槍を持って街を歩いても良いと?
その剣がダンジョンの外で凶器として使われた場合――その責任は誰が取るのですかな?
それを認可した、ダンジョン大臣。……あなたご自身ですか?」
「ぐっ……」
麻生は言葉に詰まった。
「……まあ、これは探索者は例外措置とするしかないですよね……。だよね? これで良いよね……?」
彼はもはや、誰にともなくそう呟くしかなかった。
高梨は、その哀れな姿に小さくため息をつくと、冷徹に言い放った。
「法案の整備は結構です。ですが、その結果起きるであろう治安の悪化。その全ての責任は――大臣、あなたが負うことになる。
……それだけは、お忘れなく」
そう告げると、一礼し、部屋を退出していった。
***
だが、麻生の地獄は、まだ始まったばかりだった。
高梨と入れ替わるように、今度は経済産業省と厚生労働省の官僚たちが、雪崩れ込んできた。
彼らが突きつけてきたのは、『ゴールドラッシュ』による社会崩壊の序曲だった。
「大臣! 大変です! 労働力の蒸発が止まりません!」
厚労省の官僚が、悲鳴に近い声を上げる。
「『俺も探索者になる!』と、若者を中心に現職を退職する者が続出しております!
彼らはジムに通い、剣道場に入門し、渋谷のダンジョンゲート前でテントを張って野宿するなど、
『レベルアップに備えた訓練』を開始しております!
このままでは半年後、この国の物流は止まります! 医療も介護も崩壊します!」
「大臣! 不動産バブルが制御不能です!」
経産省の官僚が続いた。
「『ダンジョンは東京近辺に集中する』という、あのKAMI様のたった一言のリークで、東京西部の地価が異常な高騰を見せております!
国民は、まだ存在しないゲートの出現場所を予測し、全財産を投機に回している!
そして、これをご覧ください!
『KAMI様公認・探索者養成アカデミー』、『必ずランクになれる魔石投資セミナー』!
悪質な詐欺商法や新興カルトが、雨後の筍のように出現し、全国で被害者が続出しております!」
その、あまりにも巨大な社会の歪み。
麻生は、もはや怒鳴る気力さえ失っていた。
「……国民はさぁ……。
一体何を考えておるのだ。ダンジョンは、まだ開いてもおらんのだぞ……」
彼は力なく呟いた。
「……とりあえず出来ることはないが……その詐欺商法だけは、どうにかしないといけないな。
……高梨長官を呼び戻せ。警察に一斉摘発させるのだ」
だが、その麻生の耳に、秘書官のさらに絶望的な声が届いた。
「だ、大臣!
先ほどから防衛大臣と高梨長官が、大臣室の前でお待ちでして……
その『超人警察構想』の指揮権と管轄権について、大臣の直接のご裁可を仰ぎたいと……」
麻生は、窓の外の平和な霞が関の風景を、虚ろな目で見つめた。
(……ちょっと待て。これ、半年で本当に終わるのか……?)
彼は、自分の元に毎日、防衛省と警察庁のトップが、この世の終わりのような顔で押しかけてきて、
「指揮権は我々に!」「いや、警察の管轄だ!」という、不毛な縄張り争いを目の前で繰り広げるという、
地獄の未来図を幻視した。
(……俺の元でそれをやられても困るぞ!?)
彼の、人間としてのか弱い理性が悲鳴を上げた。
その時、彼の視線が、机の上の最後の報告書に吸い寄せられた。
『装備品に関するパラドックス』。
先行調査で、自衛隊の最新鋭のアサルトライフルよりも、ゴブリンが落とした粗末な『片手剣』の方が有効であったという、あの信じがたいレポート。
初期装備のジレンマ。
半年後にダンジョンに挑む民間人は、一体何を持って潜ればいいのか。
その絶望的な問題の羅列の中で。
麻生の老獪な、そして「財務省の鬼」とまで呼ばれたその頭脳が、一つの悪魔的な「解」を見つけ出した。
彼の口元に、数日ぶりに、あの不敵な笑みが浮かんだ。
「……そうか。武器がない。金もない」
彼は、誰に言うでもなく呟いた。
「ならば、答えは一つしかないではないか」
彼は内線電話のボタンを、力強く押した。
「秘書官か。……すぐに官邸の九条長官に繋いでくれ。
いや、待て。ついでに経団連の会長と、全国銀行協会の会長にもだ。こう伝えるのだ」
彼は、自らがこれから放つ言葉の、その重みを楽しむかのように言った。
「――『史上初のドロップ品オークションを開催する』と。
自衛隊が確保した先行備蓄品を、一ヶ月後に公開オークションにかける。
もちろん最初は高値がつくだろう。だがそれは仕方がない。市場原理だ。
そして、その売却益は全てギルドの設立準備金――
すなわち、あの三兆円の最初の返済原資として、国庫に納めてもらう。
財政にもなるしな……」
その日、神のスキルを持たない一人の老政治家は、
神がもたらした、この世の全ての混沌と矛盾を、
ただ一つ、自らが最も得意とする武器――『金』と『欲望』によって、
解決しようと(あるいは、さらに大きな地獄の釜へと放り込もうと)決意した。
彼の孤独な、そして眠れない戦いは、今まさに、その幕を開けたのだった。




