第97話
深夜。首相公邸の執務室は、もはや時間の概念が溶融したかのような静寂と、しかしその水面下で絶えず情報が流れ続けるサーバー室のような、奇妙な熱気に満ちていた。
先日の自衛隊による渋谷ダンジョン先行調査の成功。そのニュースは日本中を、いや世界中を駆け巡り、半年後に約束された『ダンジョン・エイジ』への期待を、制御不能なレベルにまで煽り立てていた。
だが、その熱狂の中心地にいるはずの二人の男――沢村総理と九条官房長官、そして彼らの完璧な分身たち――の顔に、その熱狂の色はなかった。彼らは眠らない身体で、神が残していったあまりにも巨大な「置き土産」の後始末に、ただひたすらに追われていた。
ホログラムのモニターには、渋谷ダンジョン『最初の隘路』の内部構造を示す三次元マップと、そこから持ち帰られたドロップアイテムの膨大なリストが映し出されている。報告を行っているのは、今回の先行調査の現場指揮官を務めた榊一等陸佐と、つくばの『月読研究所』から派遣された数名のトップ科学者たちだった。
「――以上が、第一次先行調査で得られたデータの概要です」
榊一佐が、その冷静な、しかし隠しきれない興奮を滲ませた声で報告を締めくくった。
「結論から申し上げます。ダンジョン探索は、現状のF級レベルであれば、我が国の自衛隊の現有装備と訓練で、極めて安全に遂行可能であると判断いたします。ゴブリン等のモンスターの戦闘能力は、想定を遥かに下回るものでした」
その報告に、沢村の本体がわずかに安堵の息をついた。最悪の事態――すなわち先行部隊が壊滅するという悪夢――だけは避けられた。
だが、本当の「戦果」はそこではなかった。
モニターが切り替わり、今度は白衣に身を包んだ『月読研究所』の物理学者が、まるで少年のような輝きを目に宿して、早口で捲し立て始めた。
「総理! 九条長官! ご覧ください、この『魔石』を!」
彼がホログラムで拡大表示したのは、ゴブリンがドロップしたという、何の変哲もない黒曜石のような石ころだった。だが、その内部構造を示す解析データは、地球上のいかなる物質とも異なる、異常なエネルギーパターンを示していた。
「これはまさに奇跡です! KAMI様が事前に提供してくださった並行世界のデータ通り……いや、それ以上の可能性を秘めています! すでに我々は、この魔石から安定的に電力を取り出すことに成功しました! スマートフォンのバッテリーを満充電にするなど、赤子の手をひねるようなものです!」
彼は、さらに信じがたい実験結果を次々と提示していく。
「見てください! これは、魔石の粉末を水に溶かした溶液に浸した種籾です! わずか一日で、ここまで成長しました! これは世界の食糧問題を根源から解決する『即席栽培』技術への、確かな第一歩です!」
「そしてこれ! 魔石のエネルギーを利用し、特定の空間の次元構造に干渉する実験です! まだ基礎理論の段階ですが、いずれは倉庫やコンテナの内容積を三倍、いや十倍に拡張する『空間拡張技術』さえも……!」
科学者たちの狂喜乱舞。
それは、コロンブスが新大陸を発見した瞬間の、あるいはアインシュタインが相対性理論を完成させた瞬間の、人類の知性が新たなフロンティアに到達した瞬間の、純粋な歓喜だった。
沢村は、そのあまりにも眩しい未来のビジョンに、思わず目を細めた。
「……凄いな。本当に夢のような技術じゃないか。これさえあれば、我が国が抱えるエネルギー問題も、食糧自給率の問題も、そして狭隘な国土の問題さえも、すべてが解決するかもしれん。……未来は明るいか?」
久しぶりに彼の口から漏れた、前向きな言葉。
だが、その希望に満ちた空気を、九条の本体が、いつものように冷徹な現実で容赦なく斬り捨てた。
「総理。お喜びのところ恐縮ですが、問題は山積みです」
彼は科学者たちの熱狂には一切付き合うことなく、事務的に課題を列挙し始めた。
「第一に、倫理の問題。先ほどから『並行世界の商品をパクって』『データ通り』と、当然のように皆様仰っておりますが、これは厳密に言えば、他世界の知的財産権の侵害にあたる可能性も否定できません。まあ、KAMI様ご自身がそのデータを提供してくださったわけですから、我々に直接的な責任はないのかもしれませんが……」
「ええい、細かいことを!」
と科学者の一人が反論しようとしたが、九条はそれを手のひらで制した。
「神経質すぎると仰りたいのでしょう。ですが、この『借り物の技術』であるという事実は、常に我々の足枷となり続けるでしょう。いつその『オリジナル』の世界から、我々が『模倣者』として断罪される日が来ないとも限らない。そのリスクは、常に念頭に置いておくべきです」
そして、彼はより現実的な問題へと話題を移した。
「第二に、魔石の絶対量の不足です。これだけの夢の技術を実現するためには、F級のゴブリンが落とすような微々たる量の魔石では、全く話になりません。やはり半年後の民間解禁を待って、数万、数十万という規模の探索者の『マンパワー』によって、より高ランクのダンジョンから、より大量の魔石を安定的に供給する体制を構築しなければ、これらの技術は絵に描いた餅に終わります」
「……分かっている」
と沢村は頷いた。
「やはり民間の力が必要か。となると、やはりあの税制の問題を早急に……」
「はい。ですが、それ以上に急務なのが、探索者たちの『装備』の問題です」
九条はモニターに、先行調査部隊が持ち帰ったドロップ品のリストを映し出した。そこには、粗末な片手剣や革の鎧といった、RPGの初期装備のようなアイテムが並んでいた。
「榊一佐の報告にもありましたが、これらの一見すると時代遅れに見える装備品が、ダンジョン内部においては、我々の最新鋭の装備よりも遥かに高い防御力と攻撃力を発揮したと。これは、ダンジョンという特殊な環境が、地球の物理法則とは異なる『ルール』――おそらくは、アイテムのレアリティやレベルといった概念――によって支配されている可能性を示唆しています」
「つまり、自衛隊の最新装備よりも、ゴブリンが落とした剣の方が強いと?」
沢村が、信じられないという顔で聞き返す。
「現時点では、そう結論付けざるを得ません。そしてこれは、極めて重大な問題です。なぜなら、ダンジョンの深層に進めば進むほど、より強力なドロップ装備が手に入る。それはつまり、探索者の『強さ』が、国家が供給する兵器ではなく、ダンジョン内での『運』と『経験』によって左右されるようになる、ということです」
彼はその言葉が持つ恐るべき意味合いを、静かに付け加えた。
「国家による武力の独占。その近代国家の根幹を成す原則が、崩壊するかもしれないのです」
そのあまりにも不穏な指摘に、執務室の空気が再び重くなった。
だが九条は休むことなく、最後の、そして最も厄介な爆弾を投下した。
「そして第三の問題。それは、探索者自身の『人間離れ』です」
彼はモニターに、レベルアップした隊員のバイタルデータと、並行世界の事例報告書を並べて表示した。
「レベルアップによってHP……生命力そのものが増大する。これはほぼ確定です。並行世界の事例では、レベル20程度の探索者が、時速60キロのトラックと正面衝突しても、HPが半分削れただけで、骨折一つ負わなかったという、笑い話のような、しかし真実の記録が残されています」
「……超人だな」
沢村が呻くように言った。
「はい。問題は、その超人たちを我々がどうやって管理するのか、ということです」
九条の声がさらに低くなった。
「彼らがもし、その力をダンジョンの外……我々が暮らすこの町中で振るったら? 怒りに任せて自動車を持ち上げ、投げ飛ばしたら? 誰が彼らを止められるのですか? 警察ですか? 我々自衛隊ですか?」
彼は自問自答するように、そして絶望的な結論を口にした。
「おそらく止められるのは、同じ、あるいはそれ以上の力を持つ別の探索者だけでしょう。つまり我々は、探索者が引き起こした問題を、別の探索者に解決させるという、極めて不安定で危険な、マッチポンプのような治安維持体制を受け入れざるを得なくなるかもしれないのです」
「それは……」
沢村は言葉を失った。
「それは、もはや国家とは呼べんな……」
希望と絶望。光と影。
ダンジョンという神の置き土産は、あまりにも巨大な可能性と、それと同じくらい巨大な破滅への道筋を、同時に彼らの目の前に突きつけていた。
「……頭が痛いな」
沢村は、もはや何度目になるか分からない深いため息をついた。
「未来は明るいのか暗いのか。それさえも分からなくなってきたよ」
その、あまりにも人間的な、そして中間管理職の悲哀に満ちた主君の呟き。
それに九条の本体が、初めてほんのかすかな、しかし確かな感情をその声に乗せた。
それは同情でも諦観でもなかった。
ただ、このあまりにも理不尽で、しかしどこまでも面白い新しい世界に対する、究極の官僚としての静かな、そして揺るぎない覚悟の表明だった。
「……総理。どちらに転ぶかは我々次第です。そして我々の仕事はただ一つ。最悪の未来を回避し、最善の未来へと、この国を一ミリでも近づけること。たとえその道がどれほどの地獄であったとしても」
彼は、湯気の立つ新しい緑茶を、そっと主君の前に差し出した。
「さあ総理。休憩は終わりです。次の議題が山積みですので」
神の不在のまま。
人間たちは、自らが手にしてしまったあまりにも強大な火の力を前に、それでもなお、その火を未来を照らす灯火へと変えようと、足掻き続ける。
その愚かで、しかしどこまでも尊い終わりのない戦いは、またしても新たな、そしてより困難なステージの幕を開けたのだった。




