令嬢の憂鬱
寝起きと深夜の空想から湧いたイメージをそのまま固めました。
お嬢様のお部屋には、大きな本棚が5つほど配置されている。
それは壁となり、主の小さな机まで続く狭い通路を形成していた。
私は扉の前へ立って、お嬢様をお呼びする。
「昼食のご用意ができました」
――返事はない。いつものことであった。
部屋のそこら中に本が散らばっていた。
ほとんどは無造作に床へ積まれ、開かれてもいない様子である。
本棚に空きがないのとは違う。むしろ、きちんと収まった本の方が稀であった。
お嬢様は本がお好きだ。
正しく言えば、本というアイテムそのものがお好きだ。読む読まないに関わらず、身近に取り寄せる趣味がある。
打ち捨てられたアイテムには新しいものが多い。作者に意図された役割を果たすこともなく、まるで石ころのように転がっている。
この場においては、良く言っても、空間を形成するための素材程度にしか認識されないだろう。
ふと足元へ目をやると、転がった本の中に魔導書がある。専門的な知識を必要とする類の、どちらかと言えば魔導師向けのものだ。
お嬢様はこの分野に専門性をお持ちではない。したがって、理解のためには魔法学の基礎からご習得されなければならないだろう。
しかし関係ないのである。お嬢様は一行さえ読まないのだ。すべてはそこにあるだけだ。
この本はお嬢様の手から離れた瞬間、即ち、お嬢様の関心からも解放されてしまった。
旦那様から初めてこれを受け取った時、お嬢様の瞳は興味に満ちて輝いたことだろう。
おそらく、その輝きは半日さえ保たれなかった。大方、自室の机に戻る頃には手放してしまわれたのである。
お嬢様にとって、本とは決まってそういうアイテムなのだ。求めて、得て、飽きる……そんな仕組みが内蔵された玩具だ。
私は散乱する本を棚へしまいながら、ゆっくりお嬢様の元へと向かう。
お嬢様は机に頬杖を突き、天蓋付きのベッドへ差し込む陽を眺めていた。
役目もなく垂れ下がった方の手には、ユーロップ大陸の神話について書かれた本がぶら下がっている。
それは今にも手から滑り落ちそうな具合で、分厚い表紙を持て余していた。
「執事」
お嬢様は私を呼んだ。
私が旦那様から仰せつかった役職名は『執事』であった。
無論、私個人の名前はある。しかし、お嬢様は執事の名前に興味がない。
他人に対する感覚や価値観は、本と同じなのだと思われる。
「はい」
私は返事をして、お嬢様の言葉を静かに待つ。
「…………」
お嬢様はなにも仰らない。
もはや私のことなど忘れたような表情で、窓の外へ黄昏ていた。
それでも神話の本は手から離れない。
持っているという事は、もしや読む気があるのではないだろうか。
「執事」
お嬢様がまた私を呼んだ。
「はい」
2度目のやりとりでも、お嬢様のお顔はこちらへ向かないままである。
すると、窓の外になにかがあるのかもしれない。
とはいえ、余計な気を利かせるのは控えるべきだ。お嬢様は繊細であるため、なにに不愉快をお感じになられるか分からない。
「私はね」
お嬢様は私に向けて言葉を発せられた。
視線は窓の向こうにあったが、おそらく私がいることを理解した上での発言だ。
独り言にしては、些か込み入った表現であるため。
「……好きでお嬢様になったワケじゃないの」
それだけ仰って、また沈黙なさる。
断片的な言葉からは前後の文脈も知りようがなく、汲み取れるのは雰囲気だけである。
ご本人は今もってなお、僅かな陽の光線へ想いを馳せていらっしゃるようだ。
察するに、刹那の心象を私へ一方的にぶつけただけであろう。
私はなにも言わないことにした。
「…………」
「……執事」
「はい」
「今、私のことをバカにしたでしょう?」
お嬢様の視線が初めてこちらへ向いた。
その眼差しに哀しみの影がちらついている。
「正直に言いなさい」
瞳には弱弱しさを纏いながらも、整った眉や目鼻立ちから凛々しさが溢れている。
それが一層、フィクション的な令嬢の憂鬱を引き出していた。
お嬢様の優雅な命令によって正直になれるほど、私は情熱的な人間ではない。
なので、正直者を装って嘘を言った。
「はい。私は今、お嬢様を美しく感じました」
私の言葉に、お嬢様は動揺なされた。
それはたった一瞬だけ、睫毛の上下によって表された。
しかしすぐに平静を取り戻し、お嬢様は再びそっぽを向いた。
「あなたは詩人向きだわ」
「さようでございますか」
「大嘘つき」
どうやら多少の怒りを買ってしまったらしい。
しかし、『嘘ではございませんよ』とは言わないことにした。
この疑心暗鬼な少女に対して、自分の言葉は懐疑の対象にしかならないであろう。
私は再び黙り、お嬢様の傍に待機する。
お嬢様が昼食へ降りる気配はない。おそらくまだ気分が乗らないのだ。
そのうち黄昏に飽きれば、気分転換にお食事を召し上がる。いつもそうだ。
「あの靴磨きの彼、またキスしたわ」
……いや、今日はもう少し掛かるかもしれない。
視線の先にあるものは、漠然とした興味とは違うようだ。
お嬢様は頬杖を改め、机の上に神話の本を放置する。
そうして、興味津々の様子で窓の外を眺めた。
私のために現場を指差してまで、熱心に観察していた。
「また。4回目よ」
お声の抑揚が弾んでおられた。
私の立つ場所から窓は見えないため、お嬢様の焦がれる光景は永久に謎だ。
「さようでございますか」
付き添いとして、相槌だけを私は返した。
連載が書けない。




