7.「アル。また、遊ぼうね」
それを思い出したのは、きっと水にまつわる記憶だったからだ。
最初に思い出したのは、屋敷の近くにある川が泥水を流す音だった。前日の大雨で、その日の川の水量は大きく膨れ上がっており、叔父さんと叔母さんから、川には近づいてはいけないと何度も口酸っぱく言われていた。だけど川の様子を見に行った叔父さんがなかなか帰ってこなくて、不安に駆られた私は叔母さんの目を盗んで叔父さんを探しに川の様子を見に行った。小高いところに建っている屋敷から飛び出して、道を駆け下りる。幸いなことに雨は降っていなくて、道はぬかるんでいたけれど、さしたる障害もなく私は川にたどり着いた。
初めは大きなゴミが落ちているのだと思った。
白い布に包まれた大きなゴミ。それは私の身長よりも長くて、とても重そうに見えた。ゴミを包んでいる布は水を吸っていて、泥だらけ。だけど良い布だってことは一目でわかって、私はその物体に近づいて様子を確かめた。布を捲ってしまったのは、きっと興味から。その長細い物体がなんなのか気になったのだ。
そして、私は驚きの声を上げてしまう。
「えぇ!? 子供!?」
そこにあったのはゴミではなかった。人だった。人がいた。
七歳になったばかりの私よりも、年上だろう少年。白銀の髪を持つ、お兄ちゃん。流されてきたのだろう、彼は泥だらけで顔も青白かった。呼吸だけはなんとか確認できて、私は慌てて立ち上がった。そして、大人を呼びに行こうと屋敷に走ろうとする。
「誰も、呼ばないで……」
ひんやりとした体温のない手が、私の手首をしっかりと握った。振り返ると少年が私の手首を掴んでいる。私は焦ったような声を出した。
「でも! でも!」
「迷惑を、かけたいわけじゃないんだ。お願い、だから」
少年がゆっくりと身体を起こす。そして、伏せていた瞼を開けた。
そこには大きくて綺麗なラピスラズリ。星のきらめく夜空の瞳。
なんて綺麗なんだろう。そう思ったところで、場面が切り替わった。
◆
「レイラは、弟さんが生まれるから、こっちでお世話になってるんだね」
次に思い出したのは、少し元気になった少年の声だった。彼は自分の名前を『アル』と名乗った。どうしても大人に見つかりたくないと言うので、私は彼を自分の秘密基地へ連れて行った。秘密基地というのは、屋敷の近くに建っているほったて小屋だ。そこは昔、叔父さんが狩猟するときに使っていた場所だった。三年前に叔父さんが足を悪くしてからはもう使われておらず、アルは叔父さんが使っていたベッドで暫く寝起きをして、三日ほどである程度の元気を取り戻した。
「レイラはお父さんとお母さんに会いたいの?」
「うん。でも、まだ迎えにはこれないみたいでさ」
七歳の子供だった私は、年齢が近いだろう彼に会う度にそんな相談をしていた。
弟が生まれてくること。それ自体は嬉しいけれど、両親に会えないのは寂しいこと。叔父さんの家には同世代の子供がいなくてつまらないこと。お父さんとお母さんが、弟が生まれた後、自分を見てくれるか不安なこと。弟と仲良くしたいこと。
アルはそれを零すことなく全て聞いてくれて、「がんばってるね」「すごいね」「大丈夫だよ」と私の頭を撫でてくれた。
「僕、魔法が使えるんだ」
アルがそう言ったのは、出会って五日ほどが経った時だった。まだ自分の中に魔法の適性があることを知らない私は、その告白に無邪気な声を出した。
「まほう? 魔法ってあれでしょ? えらい人とかすごい人が使うやつ! アルも使えるの!? すごいね! 素敵だね!」
私のはしゃいだような声にアルは「素敵かどうかわからないけど……」と前置きをして、どこか重い口を開く。
「君の屋敷がどこにあるのかわからないから連れて行ってあげることは出来ないけど、君の記憶を元にして、どこかの鏡に君の両親を映すことなら出来ると思う」
「え?」
「なにか、君に、お礼がしたくて……」
アルは視線を合わせることなく、か細い声を出した。どうして彼が視線を合わせないのか、言いにくそうにしているのか。それらを私は何も理解しないまま彼に齧りついた。
「そうなの? 見せて見せて!」
「うん。それじゃ、何か鏡あるかな?」
「鏡? 鏡かぁ……」
「それなら、その器に水を張って水鏡にしようか」
アルが指したのは、私が彼のことを看病するときに使っていた金属製の桶だった。彼はそれに川の水を張って水鏡を作ると、私の手を握った。男の子のに手を握られるなんて初めてで、私が目を白黒とさせていると、彼はふっと表情を崩して「記憶が必要だからね」と手を握った理由を明らかにした。そして私の手を握っていない方の手を彼は水鏡にかざす。
アルの手のひらが熱くなる。それと同時に私の手のひらも熱くなった。そして、彼の白銀の髪がわずかに浮き上がり、水鏡にかざしている方の手が淡く輝く。
私は初めて見る神秘の力に「わ! わわ! すごい!」は声を跳ねさせた。
しかし――
「あれ?」
水鏡にかざしていた手の光はすぐさま消えてなくなった。同時に彼の手のひらからも熱が消えうせる。魔法が成功して水鏡に両親が映っているのかと思った私は、桶を覗き込んだ。しかし、そこには揺蕩っている水に自分が映り込んでいるだけで、両親はどこにもいなかった。私はアルを振り返る。
「魔法、失敗しちゃった? それとも使えなくなっちゃった?」
「ち、違う! ちょっと待って! もう一度やってみるから!」
それから何度かチャレンジしてみたけれど、やっぱり水鏡に両親は映らなかった。
両親の姿が見れると思っていた私はショックを受けた。でもそれ以上に、アルがショックを受けているように見えた。その顔は絶望していると言っても差し支えがないほどで、私は思わず彼の手を取ってしまう。
「アル、大丈夫?」「ごめん。ごめんね、レイラ」「私は――」「僕にはこれだけしかなくて……。だから、その……」
私の手を握るアルの手が小刻みに揺れる。
「こんなに良くしてもらったのに、僕は君に何も返せない」
泣きそうな声だな、と思った。私も少し前に出したことがある声。これは、多分、置いて行かれるのを怖がる声だ。どこにも行かないで欲しいと叫んでいる声色。どうしてアルがそんな声色を出すのかわからない。だけど、このままにはしておけなかった。
私はアルがそうしてくれたように、手のひらを彼の頭に乗せるとゆっくりと動かした。身長差があって上手に撫でられているとは言いがたかったけれど、それでも丁寧に彼の白銀を透くように。
「大丈夫だよ。私ね、アルがいてくれるだけで楽しいよ! だってさ、アルいっぱい話を聞いてくれるし、この前、お花だって摘んでくれたでしょう? 無花果だって取ってくれたし、なによりこうしていっぱい撫でてくれるし!」
「レイラ……」
「魔法が使えなくても良いよ。私ね、アルがいてくれて良かった! いてくれるだけで十分! だから何か返そうとか思わなくても良いよ。それよりずっとお友達でいてよ。ずっと一緒に遊ぼうよ」
「……うん」
ラピスラズリが揺蕩って、星を一粒転がした。
頬を滑るそれを見て、私は微笑みを強くした。
◆
最後の記憶は暗い水の中から始まった。誰かに頭を押さえつけられている。川のせせらぎが聞こえることから、私が顔をつけられている場所が川だと言うことだけがわかる。閉じた瞼の上から光を感じないから、きっといまは夜なのだろう。
怒りと悲しみと混乱と焦り。感情がぐちゃぐちゃになったアルの泣きそうな声が耳に刺さる。
「お願いだ! 大人しく戻るから! 彼女を殺さないでやってくれ! お願いだから!」
それは懇願だった。顔を見ていないのにわかる。きっと今彼は泣いているのだろう。
私を助けるために声を張って、私の顔を川に沈めている人に必死に懇願をしている。
「お前たちの言うとおりに動くから! 人だって殺すから! もう逃げ出したりなんかしないから! お願い、だから……」
それでも、私の頭を沈めている人の手の力は緩まなかった。私の髪の毛を強く掴んで、頭を水の中に押し込んでいる。きっと殺す気なのだろう。それだけはわかる。
大人しく殺されるつもりなんてない私は、必死に両手足を動かして抵抗をしてみたが、子供の力が大人の力に叶うわけがなく、ただ無駄に酸素だけを消費した。
苦しい。辛い。もうやめて。逃げたい。嫌だ。やめて。
苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。
意識が遠のきかけた時、意識の端で「わっ!」「何をするんですか、殿下!」という男の声が聞こえる。その後、すぐさまアルの必死な声が空気を震わせた。
「彼女を殺したら、僕もここで死ぬからな! わかってるのか! 本気だぞ!」
直後、頭上で男の舌打ちが聞こえた。そして、頭を押さえている手の力が緩まる。私は髪を掴まれた状態で川から出され、地面に放り投げられた。身体が地面を撥ねて、ごろごろごろと転がる。身体が跳ねた拍子に肺の空気が全部吐き出されて、すごくすごく苦しかったけれど、助かった安堵で、嬉し涙が目の端を伝った。
仰向けに寝転がって、目を開く。すると、そこには満点の星が溢れていた。
(あぁ、そういえば私、これを二人で見ようと……)
「ごめんね。ごめんね、僕のせいで」
「アル……」
気がつけばアルが隣にいた。彼の手には先ほど脅しに使ったのだろう小さなナイフが握られている。私の方はびちゃびちゃだったけれど、彼の方はどろどろで。私は彼の頬についている泥を親指で拭った。すると、彼の目元に、更に沢山の涙がたまる。
「忘却薬は飲ませますよ。わかっているとは思いますが、殿下のことは……」
「あぁ! それはいい! わかってる!」
怒鳴るようにそう言って、アルは再び私に視線を落とした。瞬きをした拍子に零れた彼の涙が、私の頬に落ちて温かかった。その温もりに頬が緩む。
私はアルの小指をぎゅっと握ると、掠れた声を絞り出した。
「アル、また遊ぼうね」「また?」「うん。また」「そうだね。また、会いたいなぁ……」
くしゃりとアルの表情が歪む。その表情は未来を願っているようにも、諦めているようにも見えた。興奮して熱くなったのだろうか、いつもより体温の高い彼の両手が私の右手を包む。そして私の右手ごと両手を額にぐっと押しつけた。
「僕も、またレイラに会いたいよ。会いたい」
「さ、殿下。どいてください」
アルを押しのけて、黒ずくめ男が私の隣に膝をついた。そして身体を起こし、口元にピンク色の液体が入った小瓶を近づける。
「毒じゃないから飲め。俺はアイツとは違って、お前を殺したいと思っているわけじゃない。ただ、憶えてもらっていては困ることがあるんだ」
「……」
「ちゃんと飲んだら解放してやれる」
どこか同情するような声の響きに、私は素直に小瓶に口をつけた。そして、流し込まれるがままに中身を飲み干す。蜂蜜と砂糖水の間のような甘ったるさに、遠くに感じるわずかなハーブ。美味しいわけではないけれど、吐き出すほどマズいわけではない。私が中身を全て飲んだことを確認して、男が私の身体をその場にそっと寝かせる。
「獣除けはしといてやる。……それじゃ、行きましょうか。殿下」
「……あぁ」
二人の男に挟まれるようにして、アルが私に背を向ける。
「アル……」
私は小さくなっていく彼の背中に手を伸ばす。だけど、薬のせいか白い靄がかかりだした頭では、もうまともな言葉を呟くことが出来なくなっていた。
アルの瞳のような満点の星が私をじっと見下ろしている。
「アル。また、遊ぼうね」
その言葉を呟いたことだけは、アルのことを全て忘れた後でも、なぜか鮮明に覚えていた。
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