32.「君の身体について大変なことがわかった」
これも水にまつわる記憶だ。
頬に落ちてきた水滴は、『アル』の涙だった。
『アル、また遊ぼうね』『また?』『うん。また』『そうだね。また、会いたいなぁ……』
温かい両手がレイラの手のひらを包む。まるで祈るように『アル』はレイラの右手ごと両手を自身の額にぐっと押しつけた。満天の星を背にして彼は、小さく肩を揺らしていた。
『僕も、またレイラに会いたいよ。会いたい』
涙を頬に滑らせながら、『アル』が必死に笑みを作る。
「ばいばい、レイラ。ずっと大好きだよ」
その瞬間、レイラはそこではっきりと彼の顔を思い出した。瞳に張ってあった幕が剥がれ落ちて、全ての光景がクリアになる感覚。
白銀の髪に、揺れるラピスラズリ。――星空の瞳。
私はこの瞳を知っている。彼を知っている。
彼の名前は、アル。
アルベール・レ・ヴァロワ。
「アル――!!」
レイラは彼の名前を叫びながら飛び起きた。心臓がこれでもかと脈打ち、冷や汗がどっと身体中から吹き出る。荒い呼吸をなんとか整えると、途端に思考がまとまってきて、冷静さも戻ってきた。レイラは辺りを見回す。そこは、医務室だった。
(私、なんで医務室なんかに……)
レイラは必死に記憶を探る。確かレイラは、アルベールと一緒に収穫祭に行ったはずだ。
(そこで少年に声をかけられて、ニコラに――)
額に残る冷たい感触。レイラは慌てて自身の額を確かめた。しかしそこには穴も開いていなければ傷もない。次いでレイラは身体を確かめる。ペタペタと身体を触り、服をたくし上げ、袖を捲った。しかし、いくら調べても身体にも傷はなかった。
レイラはほっと息をつく。自身の身体に傷がなくて安心したのだ。しかし、安心ばかりもしていられない。
(でもなんでニコラがあんなところに。しかも、なんで私に? ニコラが狙うのは、アルのはずじゃ……)
少なくともゲームではそうだった。だからレイラはアルベールを守ろうと、躍起になっていたのに……。
そこでレイラはある一つの可能性に思い至った。あるじゃないか、アルベールを狙わずにアルベールにいうことを聞かせる方法が。とても簡単で、安易で、難なく出来る方法が。
レイラは息を呑む。彼女は一拍の間を置いてベッドから立ち上がる。そして、医務室内を確かめた後、扉を乱暴に開けて廊下も確かめる。しかし、やっぱりどこにもアルベールは見当たらなかった。養護教員もいない。
(きっと、脅されたんだ。私を使って――)
そうすれば、アルベールを難なく従わせることが出来る。しかもアルベールに何かをするより確実で簡単だ。時計を見れば、時刻は七時を過ぎたところだった。
(ゲームでは、アルベールが暴走するのは夜のはずよね)
外を見ればしっかり夜だが、今ならまだ間に合うかもしれない。レイラはそう思い、医務室から飛び出し、再び街に向かおうとした。しかし――
「おい、レイラ!」
廊下を走り出そうとしたところで、そう呼び止められた。振り返ればダミアンがいる。彼はレイラに駆け寄ると、「お前、動いて大丈夫なのかよ」と焦ったような声を出した。
「大丈夫って? ……それよりアル知らない!? いなくなっちゃったんだけど!」
「お前、アルベールのこと、憶えてるのか?」
「え?」
「いや、ちょっと前にアルベールが俺のところ来てさ、お前のこと頼むって。その時言ってたんだよ。『きっと、僕に会ってからのことを全部忘れてると思うから、フォローよろしく』って……」
「アルが!?」
意味がわからない。どうして急にレイラがアルベールのことを忘れるという話になるのだろうか。考えられる可能性としてはアルベールが自らレイラの記憶を消そうとした、と言う可能性だが……
(私を危険な目に遭わせないため? でもそれならなんで、私はアルのことを憶えてるの?)
「ってか、憶えてるなら話は早いな。アイツどうしたんだよ。急にあんなこと言いだして。なんか変なもんでも食ったのか? 表情もなんていうかこう、俺に対してなのに、柔らかいというか……」
「ダミアン!」
「な、なんだよ!?」
「お願い手伝って! アルが、アルが!」
必死の形相でレイラがダミアンに縋り付いたその時だった。レイラの背後に人の気配がした。そして同時に「見つけた」と声をかけられる。振り返ると、そこにはロマンがいた。
「お取り込み中のところすまないね。レイラ、至急君に知らせなきゃならないことが出来たんだ」
「今は、それどころじゃ――」
「至急なんだ。君の身体について大変なことがわかった」
「へ?」
その後に続くロマンの言葉に、レイラはこれでもかと大きく目を見開いた。
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