31.「ばいばい、レイラ。ずっと大好きだよ」
十七年間生きてきて、彼女といたあの数日間だけが、僕の人としての時間だった。
僕は人ではなかった。少なくともそう言われ育てられてきた。
食事は、身体を動かすエネルギーで、
言葉は、命令にYESと言うときにだけ使うもので、
身体は、命令を正確に実行するためのもので。
心臓は、身体を動かすための血液のポンプだった。
でも、初めて戦争に駆り出され、人を殺した瞬間、僕は震えた。かろうじて人を残していた身体の中心がその行為に嫌悪感を憶えた。それが人を殺した罪悪感によるものなのか、それとも、ただ単に殺される人に自分を重ねてしまっただけなのかは今でもわからない。殺した実感があるわけではなかったし、殺した感触があるわけでもない。だけど、頬に散った血が自分の体温よりも温かくて、動揺してしまったのだ。
だから僕は逃げた。戦場から逃げ出した。もうこれ以上、人を殺したくなくて、自分を殺したくなくて、嫌悪感を感じたくなくて、僕は逃げた。どこをどう走って、飛んで、逃げたのかはわからない。憶えてない。わかるのは無我夢中だったことと、途中で隣国に繋がる川に落ちてしまったことだけだった。
『えぇ!? 子供!?』
そして、彼女に出会った。
彼女は、自分のことを『レイラ』と名乗って、叔父が所有しているのだという近くの小屋を貸してくれた。濡れた服を剥ぎ取り、暖かい毛布で僕をくるんで、彼女は暖炉の近くに僕を案内した。
『貴方の名前は?』
『え? アル……』
『アルね! 良い名前』
そこで僕は初めてちゃんと彼女の顔を視認した。亜麻色のまとまりの多い髪の毛。エメラルドの瞳。暖炉に火を入れるのに苦労したらしく、彼女の鼻は煤で汚れていた。その姿に初めて心が温かくなった。
レイラと出会って、僕は人になった。
食事は、誰かと食べると美味しいものになり、
言葉は、誰かに気持ちを伝えるためのものになり、
身体は、心によって勝手に動くものになり、
心臓は、気持ちを身体中に伝えるための器官になった。。
それは僕にとって革命で、だけどレイラにとっては当たり前のものだった。
ある日、レイラは僕の手を取りながら言う。
『アルの手っていつも冷たいのね』
『……なにをしてるの?』
『暖めてるの。寒いんじゃないかって。こうやって息を吹きかけると、もっと温かいよ?』
『……』
『アル? どうして泣いているの?』
恥ずかしい話だが、人の手のひらが温かいことを、僕はこの時初めて知った。
だって、セレラーナでは誰も僕に触れてこない。話かけてもこない。命令があるまでずっと部屋にいて、一日に一度だけある魔法の訓練の時だけ外に出れた。それでも訓練する場に教師がいるわけじゃない。練習も一人だ。だから、本を読んで黙々と僕は魔法を育てていくことしか出来なかった。
ずっとこの時が続けばいいと思っていた。ずっとずっと永久に。
でも知っていた。この世界に、ずっと、なんてものはないことを。少なくとも、化け物である僕には与えられるものではないことを。
『貴方たちでしょ、アルをあんなひどい目に遭わせたのは! アルは私が守るんだもん』
扉の外で聞こえたそんなレイラの声に、僕は小屋の中で目を覚ました。身体を起こすと小屋の中は真っ暗で、窓の外を見てもまだ日が昇っていなかった。僕は慌てて外に出る。すると、小屋の外に人がいた。闇夜に紛れるための黒い服を着た男が二人。片方の男の手にはレイラの細い首が握られていた。
『何をして――』
『あぁ、ようやく見つけましたよ、殿下』
その言葉で、僕は彼らの正体を知る。彼らは僕を迎えに来たのだ。セレラーナから、はるばるこんな他国まで。
『殿下のことはまだ秘密なのに、目撃者までいるとはな。しかも他国に』
レイラの首を掴んでいた男は、おもむろにレイラを川に投げ入れた。そして、彼女が顔を起こす前に、彼女の後頭部を押さえて川につける。
『やめろ――!』
苦しくて必死に暴れるレイラを見て、僕は咄嗟に魔法で男を殺そうとした。だけど魔法はなぜか発動出来ず、そうしている間に僕はもう一人の男に拘束されてしまう。呼吸が出来なくて苦しいのだろう、レイラが男の腕の中で暴れている。必死に生きようともがいている。
僕は声を張り上げた。
『お願いだ! 大人しく戻るから! 彼女を殺さないでやってくれ! お願いだから!』
それは懇願だった。嗚咽の混じった、必死の懇願だった。
『お前たちの言うとおりに動くから! 人だって殺すから! もう逃げ出したりなんかしないから! お願い、だから……』
男はその言葉を無視して、レイラの頭を川の中で押し込んだ。僕は目の前が真っ赤になった。僕は自分を拘束している男に肩から体当たりをすると、彼の足についていたナイフを抜き取る。そして、それを自分の首に押し当てた。
『彼女を殺したら、僕もここで死ぬからな! わかってるのか! 本気だぞ!』
そこでようやく彼女は解放され、僕は国に帰ることになった。
『なぁ、彼女の記憶はもう戻らないのか?』
走る馬車の中で、自分を拘束していた男に僕はそう聞いた。
『戻りませんよ。彼女に飲ませたのは、そんじょそこらの忘却薬ではないですから』
『そうか』
その言葉の通りに、再会してもレイラは少しも僕のことを思い出さなかった。
◆
アルベールは医務室のベットで眠るレイラを見つめる。頬に手を当てればちゃんと温かくて、安心した。
「あのときと一緒だね。僕がレイラをひどい目に遭わせて、記憶を奪って」
前髪を梳いても彼女は起きなかった。せめてもう一度だけ、彼女のエメラルドを見たいと思っていたけれど、せめてもう一度だけ声を聞きたかったけれど、どうやらそれは叶わないようだった。
「せめて、記憶ぐらいには、残りたかったなぁ」
ニコラのいっていることは正論だ。彼女の記憶が残っていて良いことなんてなにもない。レイラは優しいから、きっと自分の死を悲しんでくれるだろう。でもそんなのただの自己満だということを、アルベールはわかっていた。
アルベールは懐からピンク色の液体が入っている小瓶を取り出す。それは過去にレイラの記憶を奪った忘却薬と同じものだった。
『私はアルも一緒に幸せになりたいよ?』
「僕もレイラと一緒に幸せになりたかったよ」
過去の彼女の台詞とそんな会話を交わして、アルベールはレイラの身体を抱き起こした。そうして唇に小瓶の口を当てる。薬をゆっくりと口に流し込むと彼女は咽せることなくそれを飲み干した。
残った小瓶を懐に入れ、アルベールは医務室を後にする。
「ばいばい、レイラ。ずっと大好きだよ」
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