暗殺者 9
ハインリッヒとヒューゴを背に乗せて、ミュンミュンは風になった——。
なお、移動距離は然程長くはなかった模様。
目に見える距離だもんな、鹿。
ミュンミュンも鹿も体がデカすぎて、遠近感が狂う狂う。
鹿はいきなり急接近してきた巨体生物:角の生えた馬に緊張を目に見えて高めた。
忙しない動作で、ミュンミュンへの警戒を表している。
それでも振り落とされない、目を回した赤太郎。どうなってんだ、アイツ。
吸盤か? 吸盤でもついてるのか? 尻に。
怪訝な気持ちで見守る中、いよいよ手も触れそうな間近に接近したミュンミュンが——いや、止まらない! 更に勢いと速度を乗せて強く踏み込む!
まさか……っ!
固唾を呑んで誰もが息を詰める中、ついにその時がやってくる。
どがっ
質量の塊、全身を使った突進攻撃。
体当たりだー!!
一歩手前のとこから胴を投げ出すようにして、自身の横っ腹から当たりに行ったミュンミュン。流石にあの重量全部を使っての体当たりには踏ん張りも利かず、鹿は大きく体勢を崩す。それでもなお、振り落とされない赤太郎。ここまで来ると、なんか鹿の付属物に見えてきた。
最高に、これ以上ないほど馬と鹿の距離が近づく。だって接触している。見事に零距離ってヤツだ。
そして、銀色が翻った。
風を切って躍り出たヒューゴの髪が、光を反射する。
セディやラキアの真似は無理って、前、何かの折に言ってたと思うんだけどな。
アレも十分な軽業じゃん。私はそう思う。
だって、一瞬だった。
一瞬、瞬きも躊躇うような僅かな時間で、ヒューゴは鹿の背に綺麗に収まっていた。
背にかかる重量の変化に気づいてか、唸りを上げる鹿。今度こそ重荷を振り落とそうというのか、無茶苦茶に暴れ出す。
対してヒューゴは、前に赤太郎を抱えるような位置取りだけど……いつの間にか、両の手でしっかりと鹿の生やした樹木の枯れ枝みたいな二本の角を握り掴んでいる。強く角を握り込む両手が目を引くけれども、でもそれ以上にヒューゴの然して太そうにも見えない両の腿が鹿の胴をぎりぎりと締め上げる。目立たないけど私は知っていた。ヒューゴは細そうに見えるけど、ぎゅっと凝縮するかのように引き絞られた筋肉をお持ちの細マッチョと呼ばれる人種である。体脂肪率は確実に十%以下だ。だって見たし。何を隠そうレディ・シルバーの衣装を作る時、ヤツの採寸をしたのは私である。
ヒューゴの肉体は天然生身の拘束具と化し、鹿の自由を支配し奪いつくさんと抑え込む。
ふと、一瞬。なんとなく。
唐突に前世で目にしたヤンキー漫画の、改造マシマシバイクに跨る特攻服を幻視した気が……いや、多分気の所為ですわね。うん、気のせい気のせい。きっと気のせい。
ともかく、ミュンミュンの大活躍とそれを御したハインリッヒの助力により、ヒューゴは見事鹿の背に。そのまま手綱……ではなく角を握り、今度はヒューゴが鹿を御そうという構え。
鹿は暴れた。大いに暴れた。
最初はミュンミュンに体当たりを喰らった衝撃で呆然としていた為か、ヒューゴが背にいる事に気付くまでちょっと間があったけど。気付いてからは暴れ鹿。暴れ牛もかくやの狂乱ぶりだ。
飛んで跳ねて飛んで跳ねて身を捩っては振り落とそうと踊り狂う。
ヒューゴは流石、暴れ牛や暴れ猪なら経験があるといった言に違わず、巨体に振り落とされず食らいついている。むしろヒューゴより、なんで赤太郎が振り落とされないのか。
赤太郎の後ろ、というか赤太郎から見れば前方へと身を滑り込ませていた為、鹿の首と自分の身体で挟んで固定するように赤太郎を保護している。
そうしながらも、なんか……あれ? ヒューゴが鹿の角から片手を外し、何やらごそごそやり始めたようですぞ……? 急に自分を抑え込もうとしていた腕が一本離れた事で、バランスを崩したのか。一瞬、鹿の身体が横に流れて転倒しかけた。だが耐える。しっかりと四つ足で大地を踏みしめ、堪え切る。
そうして生まれた僅かな瞬間。
自身の身体を支える為に、静止した鹿の上。
ヒューゴはその隙を逃すまいと、手早くぱぱぱっと手を動かしていた。
アレは何をやっているのか?
懐から携行していたらしき、短刀を取り出して……? うん? 赤太郎に使うのかな?
刺すの? 刺すの? ぷすっと刺しちゃうの???
あれ、ヒューゴってそんな赤太郎に殺意漲らせるような事、何かあったっけ。
ちょっとドキドキ胸を高鳴らせながら、ついヒューゴの動向を見守ってしまう。その短刀を一体何に使おうって言うんだい。
だけど私の動悸を乱してくれた予想とは異なり、ヒューゴの短刀が振るわれた先は赤太郎本体……では、なかった。
仕方ねぇなあって、そんな副音声でも聞こえてきそうな顰め面。
忌々し気にヒューゴが短刀を伸ばした先は、鹿の角。
え? 鹿の角斬り落とすの?
その短刀じゃ厳しくない?
というか角落としちゃったら御せなくない?
ヒューゴが何をしたいのか、まるで分らない。
何をやろうとしているのか、出来る事は見ている事だけ。
まあ、なんだかんだ言ったけどヒューゴ自身は割と常識人枠だ。余程の事がない限り、ヒューゴが変なことをするとは思えないけれども……
ぶつり
硬いナニかを断ち切る音がした。
硬いと言っても角みたいな感じじゃなくて……そう、革紐みたいな?
そんな音をさせるようなブツが、どこに……?
疑問が解消するのを待たずに、ヒューゴはさくさくと次の動きに移る。
赤太郎を、投げ捨てた。
思わず二度見したわ。
驚嘆交じりの悲鳴が、鹿を取り囲んでいた周囲からも大絶叫だ。
入学直後から比べると、うちのクラスの赤太郎に対する扱いって雑になったもんだよね。色んな意味で。まあ、雑に扱っている筆頭は私だけども。
いきなりの赤太郎投げ捨て事件に悲鳴が四方八方から鹿へと浴びせかけられる。正確には、その背に跨ったヒューゴに向けられた悲鳴だけども、鹿にはそんなことわからないだろう。鹿にとっては自分を取り囲む周囲からいきなり大声を上げられたようなもんで、鹿がびくっと後ずさる。動揺からかおろおろ周囲を見回している。そりゃ突然、ただ事じゃない悲鳴が大発生だもんな。意味わからんだろうし、取り乱す気持ちはわかる。私だって周囲を取り囲む民衆からいきなり自分に向かって悲鳴を挙げられたら挙動不審になる自信はあるね。
なお、ヒューゴによって投げ捨t……放り投げられた赤太郎については、すかさずハインリッヒが受け止め、ミュンミュンの背へと回収している。掛け声も何もなかったのに、まるで読んでいたかのようだ。これも一つの以心伝心ってやつなんだろうか。
「ヒューゴ! お前、何を……っ」
「剣帯の飾り紐と金具が角に引っかかっていた。少々複雑に、な。後は殿下ご本人が咄嗟に離脱困難と見てか、振り落とされないようにベルトを鹿の胴に通して固定していた。いっそ、素直に振り落とされた方がマシだっただろうに」
「その場合、剣帯が鹿の角に引っかかったままなら、最悪殿下が宙吊りになっていたんじゃ……?」
「流石に殿下の体重と衝撃で切れるだろう。剣帯の方が」
「……確かその剣帯は、殿下の妹姫からの贈り物では」
「だから切れないように気を遣ったって? 残念、俺が断ち切った後だ。一刻も早い殿下の身柄確h……保護が求められる場面だろう。いくら王女殿下からの贈り物でも、殿下の身柄には代えられない。殿下本人が自分の身より剣帯を優先していたとしても」
「殿下……」
赤太郎を見るヒューゴの目が、言っていた。
何やってんだ、こいつ——と。
目は口程に物を言うね、ヒューゴ。赤太郎が目を回していて良かったじゃん。
だってヒューゴのあの冷たい目を直に見ていたら……赤太郎が一枚分厚い心の殻を装備しかねない。流石はヒューゴの美貌に目の眩んだ並み居る野郎共の心を圧し折ってきた氷の眼差し……いっそ讃えたくなるほどのひんやりぶりだった。美人の冷たい目って、それだけで心に負荷をかけてきそうだしね!
真っ赤なロイヤルファミリーの家族仲がどんなもんかは知らんが、意外と妹さん思いだったらしい赤太郎。その健気な兄心がこんな事態を引き起こすなんて……機会があったら、是非、赤太郎の面白珍事十選の一つとして妹姫様にお教えして差し上げたい。その時、果たして妹姫様はどのような反応をされるだろう。泣くか、笑うか、感動するか呆れかえるか……直接お会いしたことはないから、どんな性格かわからんしな。予想を立てる事も出来やしない。
いつか絶対にお教えしたろうと、私は心の中のやりたい事リストにしっかりと記載した。
「――さて」
鹿の背から無事(???)に赤太郎を退避させることに成功した、ヒューゴ。
後はヒューゴが鹿の背から離脱すれば、鹿さんと穏便な話し合い(比喩)にて事態の解決を図るのみである。まあ、通訳の到着を待つ必要はあるけど。
だというのに、何故だろう。
ヒューゴが鹿の背から降りようとする素振りが、見えないのは。
むしろ硬直が解けてヒューゴの振り落としに再チャレンジし始めた鹿の背に、未だに居座る様子を見せている。四肢を暴れさせて跳ねまわる鹿。そこに留まるのは、絶対に負荷が大きい筈なのに。
近くでヒューゴも回収しようとミュンミュンを待機させているハインリッヒも、同じことを思ったんだろう。赤太郎の身体をミュンミュンの上で支えながらも、ヒューゴに疑問符たっぷりな視線を向けている。
「ヒューゴ? 下りないのか……っ?」
「降りる前に、やることがある」
「それは一体………………ヒューゴ? 何をしているんだ?」
ヒューゴの両手は、鹿の角を掴んでいたはずだった。
だけど気付いてみれば、何故だろう。
いつの間にかヒューゴの両腕は、抱き着くようにして鹿の首に回って……?
「せっかく絶好のポジションにいるんだ。この期に無力化させてしまっても良いだろう」
「ヒューゴ!?」
あ、あれは……っ!?
鹿の首のサイズが大きいし太いしで、ヒューゴが全身で抱き着いているように一見見えるけど!
よく見たら、ヒューゴの腕は極まっていた。
「チョーク・スリーパー・ホールド……っ! またの名を裸絞め!?」
なんと言うことでしょう。
通訳の到着を待たずして、鹿騒動沈静化の予感がした。
ヒューゴ
「殺す気はないよ」




