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最悪だ。
頭を抱えたかったが、あいにくここは木の上だ。あまり不安定な姿勢はできない。
木の下からメイドのエリの声がする。
「お嬢様! いつまでそんなところにいらっしゃるんですか! もうジェルマン様が到着なさいますよ。急いで着替えてくださいませ!」
ーーわかっている。
だって王都から帰ってくるジェルマン様の姿を少しでも早く見たくて、村が見渡せる裏庭の木に登ったんだもの。
でも、今はジェルマンの帰りを楽しみしていた気持ちはすっかり萎んでしまった。
遠くにジェルマンを乗せた馬車が見えても、心は弾まなかった。
その手には、一週間遅れで届く王都で発行された新聞が握られている。ニュースが届くのにも王都から何日も遅れるこの領地が今日ほど恨めしいと思ったことはなかった。
そんなことを思いながら木の上で震えているのは、リュシー・プティ。プティ子爵家の娘だ。
王都から馬車で五日はかかる片田舎の領地で慎ましく暮らしている子爵家の、領地を継ぐ予定のない娘に良い縁談があると言って紹介されたのが、婚約者のジェルマンだった。
「お嬢様! もう間に合わなくなりますよ!」
下で声を張り上げるエリに向かって、つぶやいた。
「いいのよ。会いに来たのはお父様にだから」
「え? なんですか? 聞こえませんわ。お嬢様?」
聞こえなくたっていい。これ以上大きな声を出すと、声ではないものが流れてしまいそうだ。
リュシーは、大声を上げるエリを無視して、木の上に座り続けた。
ジェルマンとリュシーが婚約を結んだのは、ジェルマンが十二歳、リュシーが十歳の時だった。
その日のことはよく覚えている。
夏の終わりのさわやかな風に吹かれながら、その日も、リュシーはお気に入りの木の上にいた。
小高い丘に建つ屋敷からさらに一段上がった裏山にある木に登ると、のどかな田園風景が一望できる。
「お嬢様、リュシーお嬢様! どちらにいらっしゃるのですか? いい加減戻ってくださいませ!」
足下からメイドの声がする。
もうそんな時間なのかしら。まだ、日はそんなに高くないけれど。
そうは思ったものの、ここで戻らないと、お説教が長くなるなと思ったリュシーは、おとなしく降りることにした。
座っていたお気に入りの大木のお気に入りの枝からするすると降りると、リュシー付きのメイドのエリではなく、メイド頭のアミイが立っていた。
「お嬢様! 今日くらいはおとなしくしてくださいませ。お怪我でもしたらどうするのですか!」
アミイは、腰に手を当てて仁王立ちだ。リュシーが赤ちゃんの時から世話をしてくれているアミイは第二の母と言っていい。むしろ子爵夫人としては、どうかと思うくらい細かいことを気にしない母より厳しくしつけてくれた。おそらくアミイがいなかったらリュシーは野生児となっていたと思う。
「はーい。ごめんなさい。ちょっと気持ちを落ち着けたかったの。私だって緊張くらいするのよ」
もちろん、今日が大事な日だってことは、リュシーもわかっていたから、ちょっと危険な冒険心をくすぐる木ではなくて、登り慣れたあまり高くない安定した木を選んだのだけれど、それは言わない方がいいだろう。リュシーが素直に謝ると、アミイはため息をつきながらも表情を緩めた。
「落ち着きましたか」
「うん。もう準備しないといけないんでしょう」
「ええ。今日は思い切りおめかししましょうね」
そうなのだ。今日は、おめかししないといけない日。リュシーの婚約者候補が挨拶にやってくる日なのだ。候補といっても、何人もいるわけではない。よほどのことがない限り、今日やってくる二つ年上の伯爵家の次男がこのまま婚約者になる。
「武芸に優れたご子息でね。家を継ぐ必要もないし、将来は騎士になるか、そうでなければ地方の小さな分領を任せて分家する予定だそうだ。田舎暮らしに理解があって、体を動かして働くことを厭わない活発な娘を探していると言ってね。叔父上がリュシーならピッタリじゃないかと言ってご紹介くださったんだよ」
苦笑いの父にそう言われた時には、それは貴族令嬢に求めるものなのかしらと思ったけれど、確かにリュシーはピッタリ条件に当てはまる気がする。大叔父様にまで、私のおてんばぶりは知られているのねと変に感心したくらいだ。
貴族とは名ばかりの田舎の子爵家に生まれたリュシーは、広々とした領地で伸び伸びと育った。もともと戦が続いた時代に戦功を立てた祖先が爵位を賜ったこの子爵家は、平和な時代には特に活躍する場もなく、とは言え、爵位をはく奪されるほどの失態を犯すわけでもなく、田舎の、食べ物だけは豊富に実るこの領地で農業を主産業として領民たちと慎ましく暮らしていた。
将来、領地を継ぐ予定の兄はもちろん、妹のリュシーにも両親は家庭教師をつけてくれた。けれど、そこで学ぶマナーなどは将来、結婚する相手によっては社交界に出ることもあるかもしれないなというぼんやりした目標に向けてのもので、新しいことを学べるのは楽しかったものの、実際にそれを何かに活かしたことはこれまであまりなかった。唯一、兄と一緒に収穫祭で領民のみんなに披露するバイオリンとフルートは頑張っている。娯楽の少ない田舎の数少ない催し物として毎年みんな楽しみにしてくれているのだ。
部屋に戻るとリュシー付きのメイドのエリが、真新しいドレスを用意して待っていた。エリはリュシーより五つ年上の十五歳。エリの祖母がお父様の小さいころから子爵家に勤めていた縁で昨年から歳の近いリュシー付きのメイドとなった。
「お嬢様、こちらに着替えられたら髪の毛も華やかな感じに結い直しましょうね。お化粧も少ししましょう」
おてんばと皆に言われるリュシーだって、木登りばかりしているわけじゃないし、可愛いものも大好きだ。きれいな新しいドレスを見てうれしくなって用意する。
婚約者。なんて大人な響きだろう。四つ年上の兄にはまだ婚約者がいない。自分が急に大人になった気がして十歳のリュシーはただ楽しみだった。
「いやあ、これはかわいらしいご令嬢だ」
目の前で父と同じくらいの年齢の品の良い男性がにこやかに話している。
しかし、リュシーはそれどころではない。その後ろに立っている少年に釘付けだった。
年は十二歳と言っていた。十四になるリュシーの兄よりは幾分小柄で線も細い。
だが、普段から鍛えているのだろう。歳のわりにはしっかりした体つきをしている少年はリュシーにはたいそう大人に見えた。赤毛に近い濃い茶色の髪は短く切られ、その下のまっすぐな眉と意志の強そうな焦茶色の瞳はまっすぐ前を向いていたが、ふとその目がリュシーを見た。
リュシーは固まった。生まれてこの方こんなに綺麗な人は見たことがなかった。
心臓がドキドキしてリュシーは思わずドレスのスカートを握り締める。手汗がひどくて、せっかくのドレスがしわになってしまうななんて的外れなことを考えた。
「リュシー、ご挨拶を」
父に言われ、披露したマナー講師仕込みのカーテシーは初めてと言うことを差し引いてもぎこちないものだったと思う。
「リュシー・プティでございます。お会いできて光栄です」
俯いたままぎこちなく挨拶したリュシーに、ほらと伯爵様が息子を促す声が聞こえる。
「……ジェルマン・ロベールです。これからよろしく」
声変わりを迎え掠れた声は、ぶっきらぼうだったが、少なくとも今後は会いたくないと言うほど嫌われていないことはわかった。
おてんばぶりはすっかりかげをひそめ、もじもじと俯くばかりのリュシーを、普段と違う状況に緊張しているのだろうと思ったのか、両親は不審がることはなかった。
相手の少年も最初の挨拶をした以外は無表情で黙って立っているだけだったし、それも父である伯爵によれば、緊張しているのだということだったからだ。
挨拶をした後は応接室でお茶をする。とは言っても両親同士が話しているのを聞いているだけ。リュシーと婚約者候補ジェルマンは、それぞれが両親の隣に座って黙ってお茶を飲みながらお菓子を食べるだけだっだ。
リュシーは、お茶を飲みながらこっそりと婚約者になる予定の少年を観察した。
座っていても絵になる少年は、大人たちの話に興味がないのか、目を伏せて淡々とお茶を飲んでいる。
ふっと、ジェルマンが目を上げた。こっそり見つめていたリュシーと目が合う。ドキンとリュシーの胸が高鳴ったのと、リュシーの母が口を開いたのは同時だった。
「あなたたち、こんなところで大人の話を聞いていてもつまらないでしょう。裏庭でも散歩してきなさいな。リュシー、ジェルマン様をご案内して」
「それはいいですね。ジェルマン、失礼のないようにな」
驚いて母を見る。子爵家の裏庭は、実際には裏庭などではなく「裏山」だ。リュシーが、よく登る木が立っているただの小山だ。
リュシーだって、一応マナー教師に習っているのだ。一般に貴族の館の庭というものがどういうものか、絵ではあるが見たことがある。きれいに整理された花々が並ぶ庭。もちろん、地面は平ら。子爵家の裏庭は決して「庭」ではないと思う。伯爵家のご子息をあんな自然のままの野山に案内してどうしようというのだろう。
「母上、裏山を案内してもジェルマン様が楽しめるとは思えないのですが」
兄のテリーがすかさずフォローしてくれる。兄はこの家の常識。唯一母に正論をぶつけられる人なのだ。裏庭ではなく正直に裏山と言ってしまったところにも兄の実直な人柄がよく出ている。
「あら、ジェルマン様も体を動かすのがお好きと伺っているわ。いつもリュシーが遊んでいる場所をご案内したらいいのよ」
お母さま。それは暗に、私のおてんばぶりを早めにジェルマン様に見せて慣れてもらえということかしら。リュシーはそう思った。母なら、考えかねない。
「では、ジェルマン。リュシー嬢にご案内いただきなさい。危ないことはしないように」
伯爵様にそう言われてしまっては、もう断れない。兄のテリーはまだ何か言いたそうだったが、父が伯爵の言葉にうなずくのを見て、口をつぐんだ。母が笑顔で無言の圧をかけてくる。仕方なく、リュシーは、ジェルマンに向き直った。
「楽しめるかどうかわかりませんが、裏の庭をご案内いたします」
「――ああ」
相変わらず無表情で、庭を案内されたいのか、されたくないのかはわからない。どちらでもいいと思っているのかもしれない。そのぶっきらぼうな様子も恰好いいとリュシーは思った。ああ、裏山を見て幻滅しないといいけれど。
「ジェルマン様、これが私のお気に入りの木です」
裏庭もとい裏山に来たリュシーは、もうどうにでもなれという気持ちだった。ジェルマンは、格好いい。都会の貴族様を体現したような見た目だ。リュシーだって貴族のはしくれだけど、同じ生き物とは思えない。そんな人をこんな小山に案内するなんて、少し惨めな気持ちだった。普段は、大好きな裏山も、今日はうらぶれて見える。
気が付くと、いつものお気に入りの木の前にいたので、半分やけくそでジェルマンに紹介する。
「――ああ」
ジェルマンは、何も言わなかったが、その表情は明らかに戸惑っている。それはそうだ。何の変哲もない木の前に連れてこられて、お気に入りだと言われても困惑して当然だ。しかし、そこは腐っても伯爵令息。表情はとりつくろえていないけれど、馬鹿にしたりはしなかった。
「どのあたりが気に入っているんだ?」
すごい。質問してきた。リュシーは感心した。どのあたりが気に入っているかって? 別に木の幹の模様や枝ぶりが気に入っているわけではない。園芸が趣味の大叔父様ならそういう見方もするかもしれないが。
リュシーは、自分をジェルマンに紹介した大叔父に対しても八つ当たり気味にそう思う。
「あの枝からの景色が素晴らしいのです。ご覧になりますか」
「え?」
ジェルマンの返事を待たず、リュシーはさっさと木に登り始めた。
「え? え?」
下から、ジェルマンの戸惑いまくった声が聞こえてくるけれど、丸っと無視した。いつもの枝までたどり着いて、腰を下ろすとジェルマンを見下ろす。
「さあ、ジェルマン様もどうぞ。ここから領地が見渡せますの」
なぜか俯いていたジェルマンだが、意を決した顔をして、木を登ってきた。幹だけをまっすぐ見つめて登ってくるのはなぜかしら。上を見ないと登りづらいと思うのだけれど。
リュシーの座っている枝まで来たので、ジェルマンにも座ってもらおうとしたけれど、そのままもう一本上の枝まで登ったジェルマンは、片足を枝にかけて、景色を眺めてからリュシーを見下ろした。
「すごいな」
そう言って笑った顔を見て、リュシーは心臓が止まるかと思った。
「え、ええ! 私は、ここからの景色がお気に入りで、よく登って眺めていますの」
もうやけくそだ。よく木登りをする令嬢なんて、ジェルマンは見たことがないだろう。さあ、あなたが紹介された婚約者はとんだおてんばなんですよ!
「ハルート卿に紹介された時は、半信半疑だったけど本当にじゃじゃ馬なんだな」
しみじみ言うジェルマン。なんですってとリュシーはむくれた。ハルート大叔父様がそう言ったのね。
でもその言葉には呆れた感じはなくて、意外なことに木登り令嬢に幻滅したりはしていないようだった。そして、リュシーを見て先ほどより親しみを込めた表情でにっこり笑った。その笑顔にリュシーのむくれていた気持ちはどこかに行ってしまった。
「一緒に木に登れる婚約者で光栄だ。これから、よろしく、リュシー」
初めて名前を呼ばれて鼓動がはねる。手を差し出したジェルマンに手を伸ばそうとして、バランスを崩す。慌てたジェルマンに腕を掴まれ、バランスを取り戻したが、リュシーは真っ赤になってしまった。
「危ないから、今日はもう降りよう。先に降りて受け止められればいいんだけど……。先に降りられるか?」
ジェルマンが心配そうに言うので、申し訳なくなる。いつもは一人で登って一人で降りているのだ。もちろん降りられる。だけど、たった今バランスを崩して落ちかけたのに、それを言っても説得力はないだろう。
「大丈夫です。ご心配おかけしてすみません」
そう言うと、リュシーはするすると地面に降りた。
リュシーが地面に降りたのを確認すると、ジェルマンはなんと枝から飛び降りた。足元の木の葉がガサリと大きな音を立てた。
「いい、庭だな。気に入った」
上から降ってきた婚約者候補を見て目を丸くしているリュシーにジェルマンは笑顔でそう言ったのだった。




