第31話 君のために
六限目の授業中、社会科教材室から黒板に貼る世界地図を持ってくるように言われた私は、教材室から教室に帰る途中、中庭にそっと足を踏み出した。
「神矢先輩……?」
中庭に生えた木の根元に瞳を閉じて寝転がっている神矢先輩を上から覗き込むようにすると、先輩の上に私の影が落ちた。
そっと声をかけると、ぱちっと目が開き、神矢先輩と視線がぶつかる。
「……っ、小森さん、か……」
どこか寝ぼけたような声音に、胸の中がくすぐったくなる。
先輩、寝てたんだよね……
社会化準備室に行く時、二階の渡り廊下から見えた中庭に、神矢先輩の姿を見つけて、帰りに思わず寄ってしまったのだけど。
私は丸めて筒状になった大きな世界地図を胸に抱えたままその場にしゃがみこむ。
「先輩、サボりですか……?」
腕をついて上半身を起こした神矢先輩に尋ねると、先輩は首を傾げて薄く苦笑する。
「まあ、そんなとこです」
「また、眠れてないんですか……?」
不安から声が震えてしまい、はっとする。
こんなこと聞くなんて、差し出がましいかな……
いくら、神矢先輩が私の事後輩として信頼してくれて、不眠症のこと話してくれたからって、口出ししていい内容じゃないよね。神矢先輩のプライベートで、トップシークレットなんだから。
しゅんと気分がへこんで俯いていたら、すご隣からくすっと笑い声が聞こえた
顔を上げると、お日様みたいなふわふわの笑みを浮かべて神矢先輩が微笑んでいた。
神矢先輩の手が伸びてきて、大きな手で私の頭をぽんぽんって撫でた。
「心配してくれてありがと。でも、自習だから抜けてきただけから」
きっと、自習だっていうのは本当なのだろう。
でも、それだけじゃないんだろうなっていう気もした。
私が落ち込んでいるのを見て、気づかわせないように、そういうふうに言ったんだってわるから、やるせない。
神矢先輩の方が大変なのに、私の方が先輩に気をつかわせてしまって申し訳なくなる。
世界地図を抱える両手にぎゅっと力を込めて、神矢先輩をまっすぐに見つめる。
「先輩はそうやっていつも人の事ばかり気づかって……、私でなにか力になれることがあったら言ってくださいっ! 神矢先輩には部活でお世話になりっぱなしで、いつも助けられてて。私でも少しはお役に立てますよ?」
神矢先輩を上目づかいで見上げる。
「少しでも先輩のためになることがしたいんですっ」
体を乗り出すように勢い込んで言って、はっとする。
こっちを見つめる神矢先輩が驚いたように瞳を見開いているから、頼ってほしいなんてずうずうしすぎたかなっと思って、だんだんと声が小さくなっていく。
「アロマとか、私、好きなんで、不眠に利くもの今度、紹介しますね……」
「ありがとう」
その声にちらっと神矢先輩を見上げると、うっとりするような微笑みを浮かべているから、心臓がうるさくて、私は慌てて視線をそらして、話題もそらした。
「あのっ、私、これを取ってくるように言われて」
「世界地図……? ああ、あいつ、人使い荒いよな……」
「まったくですよ……、使うなら最初っから自分で持って来いっていうんですよっ」
私の腕の中にある地図を見て、すぐに誰の授業中か察した神矢先輩の呟きに、苦笑して同意する。
「社会科係なんだ」
「そーですよ、じゃんけんで負けました」
「あー、小森さん、じゃんけん弱いって言ってたね。もう一人の係は? 小森さん一人じゃないだろ?」
「残念ながら、今日は相方休みなんです」
「そっか、一人で大変だな。それ、結構重いだろ?」
「先輩も社会科係やったことあるんですか?」
「いや、俺は係りじゃないのにその日の日付が出席番号だったからって運ばされたことがある」
苦笑する神矢先輩につられて、苦笑する。
係り以外でも扱き使うなんて、こんなに人使いが荒いって知ってたら絶対、社会科係にはならなかったのに……
来年は絶対に、社会科係にはならないようにしようっ!
「戻らなくていいの?」
「えっ?」
「それ」
言われて、自分の思考にトリップしていた私は、神矢先輩の視線を追って腕の中の大きな世界地図に自分の視線を落して、それからちょっと皮肉気な笑みを浮かべる。
「ちょっとくらい戻るのが遅くってちょうどいいんですよ。どうせ待てるのは先生だけなんですから」
生徒はきっと、地図が届くのが遅いなら遅い方がいいと思っているはずだ。地図が届かなくて授業が進まなくて困るのは先生だけだから。
「でも、あんまり遅いと注意されるんじゃない? 重いだろうし、教室まで俺が運ぶよ」
「えっ?」
突然の申し出に驚いてしまう。
確かに、あまり遅いとなにか言われるだろう。
でも、もうちょっと神矢先輩と話していた気持ちもある。
教室まで一緒に行ってもらえば、もう少し一緒にいることができるけど……
「大丈夫ですよ」
私は誘惑に負けそうになる気持ちを押し込めて、微笑む。
「だって、教室まで運んでもらったら神矢先輩が授業サボってたことばれちゃいますよ。だから、大丈夫です」
言いながら立ち上がった私は。
「小森さんの方だろ……」
ぼそっと呟いた神矢先輩の言葉は聞こえなかった。
芝生の上に座っている神矢先輩にお辞儀をして私廊下に戻り、教室に向かった。
教室に入るなり、「遅かったな」って言われたけど、「女子一人で運ぶには重すぎます」って言ったら、先生は押し黙った。
重いからって、教材を生徒に運ばせないでよ!
心の中で悪態をついて、私は自分の席に戻った。
もちろん、世界地図を黒板に広げてから数分も経たずに授業終了のチャイムが鳴ったことは言うまでもない。




