39.お前がそれを言うか?
ロイド侯爵邸に到着したのは二十三時半を過ぎた頃だったが、そんな夜更けでも屋敷には煌々と明かりがついていた。
初めてこの屋敷に訪れたが、まずその大きさに驚かされる。窓から漏れ出る光で屋敷の輪郭がぼんやりと映し出され、暗闇の中でもその荘厳さがよくわかった。流石は侯爵家だ。
馬車を降り屋敷の玄関に入ると、すぐに初老の女性が出迎えてくれた。人の良さそうな彼女は、服装からしてこの屋敷の使用人のようだ。昔からロイド家に仕えている人なのかもしれない。
彼女はミラを見た途端、目を大きく見開きながら口元に手を当てた。
「あらあら、まあまあ……! 旦那様、こちらがあの?」
「ああ」
二人の会話から察するに、クリスは事前に屋敷へ連絡を入れていたようだ。使用人の彼女は、ミラのことを「ようやく会えた有名人」だと言わんばかりに目を輝かせながら見つめていた。
「なんて可愛らしい方なのでしょう。ミラ様、お会いできて嬉しゅうございます。この屋敷の使用人のエルゼと申します」
満面の笑みを浮かべた彼女にそう言われ、ミラは慌てて挨拶を返す。
「夜分遅くにご迷惑をおかけして申し訳ございません。ミラ・ハインズと申します。一晩お世話になります」
「いえいえ、ご迷惑だなんてそんな。ミラ様をお迎えすることができて、本当に嬉しく思っているのですよ」
にこにこと笑うエルゼの大歓迎を受け、ミラは少々困惑した。こんな夜更けによく知りもしない人間が押しかけてきたら、使用人とはいえ少しくらい嫌な顔をするだろうに。
反応に困っていると、隣のクリスが声をかけてきた。
「明日は丸一日休め。研究どころの気分ではないだろう」
「……それもそうですね。そうします」
クリスの提案に逡巡したが、ミラは結局そう答えた。
本当は休んでいる暇などないのだが、今日一日でいろんな事件に巻き込まれ、明日は実験に集中できる気がしない。明日で目一杯気分転換をして、明後日からまた研究に勤しむことにしよう。
「ではエルゼ、あとは頼んだぞ」
「かしこまりました。ミラ様、お支度は整っております。ささ、どうぞこちらへ」
エルゼに促され、ミラは屋敷中央にある大階段に向かって歩を進めた。するとすぐに背中から声をかけられる。
「おやすみ、ミラ」
クリスの優しい声が聞こえ、ミラはとっさに振り返った。佇む彼は、またあの優しい笑みを浮かべている。ほんの数十分前に見たあの笑顔は、やはり自分の見間違いではなかったらしい。
「……おやすみなさい、先生」
クリスに就寝の挨拶をするのは、何とも不思議な気分だった。それも、一晩同じ屋根の下にいるなんて。学会のホテルでは彼と隣部屋だったが、それとはまた違う、ソワソワとした気持ちがした。
ミラはエルゼに案内されるがままに湯浴みをし、寝衣に着替え、気づけば客室の寝台に横たわっていた。
寝台は大きくフカフカで、とても寝心地が良い。寮はもちろんのこと、実家よりも良質な寝具だった。
だからすぐに睡魔が意識をさらってくれるだろうと期待したのだが、残念なことになかなか寝付けない。明かりが消され真っ暗な部屋に、ひとりポツンといるのが何とも心細く、気を抜くとジュダスに襲われた光景を思い出してしまいそうになる。
疲れていて眠いのに、脳と心臓が落ち着かなくて眠れない、割と最悪な状態だった。
ようやく眠れそうになった時に限って、風が窓をガタガタと揺らし、飛び起きてしまう。またジュダスが現れたのではないかと、そんな怖い想像を働かせてしまうのだ。
(だめだわ、気分転換しましょう)
一時間経っても一向に眠れず、ミラは一度寝台から出て小さく明かりを付けた。そして、客室に備え付けられた本棚の前に行き、面白そうな書物がないか背表紙を目で追う。日付はとうに過ぎているが、寝台の上でヤキモキするよりいいだろう。
本棚の中身はそのほとんどが魔法に関する専門書で、客室には似つかわしくない本ばかりだった。
クリスの性格からして、客人を頻繁に招くとは考えにくい。恐らくこの部屋は、普段は使われていないのだろう。この本棚も、きっと彼の私物だ。
それが何とも彼らしく、ミラはくすりと笑みをこぼした。そして、書物の種類も、こだわりを感じる本の並び順も、その全てに彼を感じて、なぜか心がホッとする。
そんな調子でしばらく本の背表紙を眺めていたミラだったが、興味を引くタイトルを見つけ、本棚の最上段に手を伸ばした。
しかし、背伸びをしてもなかなか届かず、お目当ての本にようやく指が引っかかったと思えば、勢いよく引き抜いたせいでその周辺の本も何冊かバサバサと床に落としてしまった。
(しまった……! みんな寝静まっている時間帯になんてことを……!)
ミラは使用人たちが起きていないことを祈りながら、慌てて本を拾い集めた。するとその時、客室の扉を叩く、控えめな音が聞こえてくる。
その音にミラはビクリと肩を跳ね上げ、せっかく拾った本を再び床に取り落としてしまった。ミラはアワアワと慌てふためき、散らばった本と扉を交互に見遣る。やはり先程の物音のせいで、使用人の誰かを起こしてしまったのかもしれない。
「ミラ? 大丈夫か?」
扉越しに聞こえた小さな声は、クリスのものだった。よりにもよって、彼を起こしてしまったらしい。
ミラは急いで扉を開け、クリスに謝罪する。
「すみません、大きな音を立ててしまって。大丈夫です。なかなか寝付けなかったので本をお借りしようとしたんですが、落としてしまって。起こしてしまって本当に申し訳ありません」
「いや、今から寝るところだったから気にするな。少し仕事を片付けていた」
この時間まで仕事をしていた事実に驚く。彼は本当に生粋のショートスリーパーらしい。
ミラが呆気に取られていると、クリスはやや深刻そうな表情で尋ねてきた。
「眠れないのか?」
「ええと、その……風の音が、なんだか怖くて。でも大丈夫です。そのうち眠れるでしょうから」
ミラが苦笑を返すと、クリスは腕組みし、わずかに思案する様子を見せた後、「よし」と言ってスタスタと客室の中に入ってきた。
「え、先生!?」
クリスは散らばった本を棚に戻しつつ、その中の一冊を取って寝台横の椅子に腰掛ける。そしてあろうことか、そのまま読書を始めたのだ。
ミラが入口付近で呆然と立ち尽くしていると、クリスは本から顔も上げずにこう言ってくる。
「寝入るまでそばにいてやるから、さっさと寝ろ」
その言葉でクリスの意図をようやく理解したが、流石にそれはまずいだろう。色々とまずい。
お互い未婚だし、ミラはもうすぐ次の婚約者が決まるのだ。そんな時期に、男性の隣で眠るというのは、何ともまずい。
「女性の寝室に入ってくるのはいかがなものかと……」
ミラが至極真っ当な苦言を呈すると、クリスはたちまち渋面になった。どこか呆れも含まれている表情だ。
「お前がそれを言うか? 学会の最終日、ホテルの部屋から俺を帰そうとしなかったのはどこのどいつだったかな」
「ぐ……」
それを指摘されると何も言い返せなくなる。あのときは酔っていたとはいえ、あまり褒められた行動ではなかったと、翌朝起きてから猛省したのだ。正直あの日の記憶は消してしまいたかった。
「それにお前の寝顔くらい、何度も見たことはある。徹夜明けはいつもソファかデスクで寝てるだろう」
「それはそうですけど……私、一応未婚の女性ですよ?」
「つべこべ言わずにさっさと横になれ。疲れているだろう」
有無を言わさぬクリスの圧に、ミラは渋々寝台に横たわった。彼は一切こちらを見ることなく、黙々と本を読んでいる。ミラは目を閉じたが、やはり眠れるわけがない。
「先生がいると落ち着かなくて眠れませんよ……」
「邪魔か?」
クリスが問い返したちょうどその時、ひときわ強い風が吹き、窓がガタガタと音を立てた。ミラは思わず上掛けを頭の上まで被り、弱々しい声を出す。
「……いえ、いてください」
「わかった」
クリスはその言葉を最後に、何も喋らなくなった。一定間隔で本のページをめくる音だけが聞こえてくる。どうやら集中して本を読んでいるらしい。女性の寝室で読書に集中できる男の気がしれない。
ミラは上掛けを被ったまま眠ろうとしたが、やはりクリスの存在が気になって眠ることは出来なかった。恐怖心は消え去ったものの、代わりに溢れてくる緊張とドキドキとソワソワで、先程よりも目が冴えてきた気がする。
なんだか今の状況を深く考えるのも馬鹿らしくなってきて、ミラは思考を放棄した。眠れないなら、クリスと喋ろう。そうしよう。
ミラは上掛けからひょいと顔を出し、言いそびれていたことを口にした。
「あの……先生。先生に謝らなければならないことがあって」
「何だ?」
クリスは本に視線を落としたままだった。あまりこちらを見ないようにしているのかもしれない。
ミラは彼の横顔に向かって謝罪する。




