34.恋心はままならない
その日の午後、早速シリウスが研究室を訪ねてきた。
「大丈夫だった!? 大変な目に遭ったね、ミラ嬢。本当に心配したよ」
「申し訳ございません……わざわざシリウス殿下の手を煩わせてしまって……」
彼はもともとクリスに用事があったらしい。今朝の出来事の事情を聞きに来たのは、そのついでだ。だからそれほど気に病む必要もないのだが、それでも王族に動いてもらうのは気が引けてしまう。
ミラが萎縮していると、シリウスは珍しく眉を吊り上げ語気を強めた。
「そんなことないよ! 何かあってからじゃ遅いんだからね!? もっと自分のことを大切にしなきゃ!」
「あ、ありがとうございます、殿下」
シリウスに面倒をかけて申し訳ないと思いつつ、彼が事件の対応をしてくれて正直とても心強い。彼に任せておけば、この事態もすぐに収束するだろう。
その後、お互いソファに腰掛けながらシリウスに今朝のことを簡潔に伝えていると、クリスが慌てた様子で教授室から出てきた。
「悪い、学長に呼ばれた。少し出てくる」
ミラが何者かに狙われていることを受け、学長から説明を求められたのだろう。クリスは返事も待たず、居室の出口へと向かっていく。
「わかった。行ってらっしゃい」
シリウスの声を背中に浴びながら、クリスは白衣の裾をなびかせて出ていった。
大学側も何かしらの対応を取るのだろうか。自分のせいで多くの人に迷惑をかけていることを実感し、申し訳ない気持ちでいっぱいになってくる。
ミラが暗い顔をしていると、正面に座っているシリウスが優しく声をかけてくる。
「ひとつ言っておくけれど、ミラ嬢は何も悪くないからね。君が成し遂げた研究は素晴らしいものだ。それを妨害しようとする奴が悪い」
シリウスはこちらの心が読めているかのように、欲しい言葉をくれた。これまでに何人もの配下を従えてきたからこそ、身についた能力なのかもしれない。魔法師団の皆が団長である彼を慕う理由がよく分かる。
「僕はね、君の研究がこの国の転換点になると思ってるんだ。貴族制度の崩壊を危惧する派閥もあるにはあるけど、僕はそうはならないと思ってる。魔法で今の地位を確立した貴族ばかりではないからね」
シリウスが自分の研究に肯定的なことに安堵する。ミラの表情が少し和らいだのを見て、彼はにこりと微笑んだ。
「魔法使いの人口が増えれば、それがそのまま国力の増強に繋がる。だからミラ嬢の研究は、この国を大きく変えるんだ。いい方向にね。ここだけの話、僕の主導で、平民向けの魔法訓練所の創設を進めてるんだ」
「そうなんですか……!?」
国に「魔法補助装置」の開発の話を持っていった時、道理でトントン拍子に話が進んだはずだ。シリウスが主導しているのなら、クリスもそう教えてくれればよかったものを。
「うん。誰でも魔法が使えるようになるなら、それに合わせてルールや規制も必要になってくる。王城では法律の改定案を大急ぎで考えているところだよ」
初めて聞く話ばかりで、ミラは大いに驚いた。
自分が関わった研究が、多くの人を動かしている。それは、何とも感慨深い思いがした。
「今日ここに来たのも、クリスに法案について相談したかったからなんだ。もちろん、ミラ嬢が心配だったのもあるけどね。君の成した研究は偉業だよ」
「いえ、私だけの力では……先生の助言がなければ、あの研究は成功しませんでした」
ミラは苦笑した。王族であるシリウスに自分の研究を褒めてもらえたのは非常に嬉しいが、評価されるべきはクリスであり、自分ではない気がしている。
ミラは昔から優秀だった。兄よりも頭の出来がよく、学校でも常に成績トップ。しかし、ただそれだけ。
頭が良くても、誰かのために役に立った経験がない。魔法師団に所属する兄のように国を守ったことも、クリスのように研究で国を豊かにしたことも。
その事実が、ミラの自信を失わせていた。
今回の研究だって、クリスがいなければ成し遂げられなかった。これは事実だ。
魔道具商会との専売契約も、本当はクリスと共同で結ぶべきだったと思っている。かなりの収益が入ってくるだろうに、彼は「全てはお前の成果だ」と言ってその話を断った。
収益はミラの個人財産となるため、研究で親孝行ができて嬉しいと思う反面、収益を独り占めすることに後ろめたさを感じている。
「そんなことない。この研究を思いついたこと自体がすごいんだって、クリスも言ってたよ。研究アイデアのほとんどが君のもので、自分はほんの少し後押ししただけだともね。正真正銘、君の成果だ。もっと自信を持って」
「先生がそんなことを……」
直接言われるより、第三者経由で言われたほうが安心できるとは不思議なものだ。クリスの言葉を信じていない訳ではなかったが、彼が信頼している唯一の友人にそんな話をしていたのが、何とも嬉しかった。卑屈になっていた心が、スッと溶けていく。
ミラがかすかに頬を緩めていると、シリウスは少し前のめりになってニヤニヤとした表情になった。
「というかミラ嬢、とうとうクリスに惚れたんだ」
「惚れっ……!」
シリウスの指摘に心臓がドクンと跳ね上がり、一気に顔に熱が上る。誤魔化そうにも、慌てすぎて言葉が出てこなかった。
顔を真っ赤にするミラを見て、シリウスはさらにニヤニヤと口角を上げる。
「クリスへの視線が熱いからね。僕でもわかるくらいだから、クリスはとっくに気づいてるんじゃないかな。前に言ったでしょう? あいつは他人の感情に人一倍敏感だって」
「気づかれちゃだめなんですよ!」
反射的にそう答えてしまい、ミラはもう誤魔化すことは諦めることにした。こうなったらもう、シリウスに頼み込んで黙っていてもらうしかない。
「だから秘密にしておいてください! お願いします!」
そう言って深々と頭を下げると、シリウスは慌てて言葉を返してきた。
「だ、大丈夫大丈夫! 絶対言わないから安心して。でも、どうして秘密に? お互い決まった相手もいないんだし、別にいいと思うけど」
ミラが顔を上げると、心底不思議そうな表情で首を傾げているシリウスが目に入った。彼はミラがもうすぐ実家に帰ることを知らないのだろうか。
「先生を困らせたくないんです。それに私、もうすぐここを去らなければならないので……」
「ああ、そう言えばそんな話だったっけ。でもクリスは困らないと思うよ。むしろ大喜びすると思う」
彼にからかっている様子はなく、真面目一色だった。しかしミラは、彼の言葉をにわかには信じられず、ただただ苦笑を返す。
「絶対しないですよ、大喜びなんて。私は先生にとって、ただの教え子ですから」
その時ふと、学会最終日のあの夜が思い出されてしまった。
クリスはあの時、俺はお前の「先生」だと、はっきり線引きした。それはつまり、そういうことだろう。
(先生は、今まで誰かを好きになったことってあるのかしら……過去に婚約者の一人くらいいたっておかしくないわよね。もしかして、その人のことをずっと引きずっていて、誰とも結婚しない、とか……?)
ミラが頭の中でとりとめのない憶測をしていると、シリウスは誰にも聞こえないような小声で、溜息混じりにつぶやいた。
「全く……クリスは肝心なところで慎重すぎるんだから……」
「え?」
聞き取れなかったのですぐに聞き返したが、シリウスは笑って誤魔化した。
「ううん、何でも。ちなみにクリスは今まで一度も恋人とか婚約者はいたことないよ。今までは、自分に合う女性が見つからなかったみたいでね」
「殿下は心が読めるのですか!?」
ついさっき考えていた疑問の答えが返ってきたので、ミラは驚いて思わず声を上げてしまった。目を丸くするミラに、シリウスはクスクスと笑っている。
「やっぱり知りたかったんだ。顔に書いてたよ」
「いや、その……少し気になったというか……」
クリスに恋人がいなかった事実に、ホッとしている自分がいる。しかし、だから何だというのだろう。彼に恋人がいなくても、別に自分とどうにかなるわけではないのに。
そう思った途端、安堵が憂鬱に飲み込まれていく。
「……聞いても仕方がないことでした。私は両親が決めた相手と結婚しますし、先生は私のこと、教え子としか見ていませんから」
なんとか笑顔を作ってそう答えたが、自分でもわかるほどぎこちない顔をしている。
クリスとどうにもならないことはわかりきっていたのに、心の奥底に押し込んだ想いを抑えきれなくなるとは。全く、恋心とはままならないものらしい。
シリウスが気遣わしげに口を開いた時、ちょうどクリスが戻ってきた。走ってきたのか、少し息が上がっている。
「すまない、待たせたな」
「ううん、大丈夫。ミラ嬢とお話ししてたから」
先程までの雰囲気を気取らせないためか、シリウスはいつも通りの笑顔でそう答えた。しかし、その言葉にクリスは途端に渋面になる。
「お前、また余計な話をしてないだろうな?」
「顔が怖いなあ。そんなんじゃ、ミラ嬢に嫌われちゃうよ?」
そう言ってシリウスがからかうものだから、クリスの表情はさらに険しくなった。しかしこれ以上言い返しても無駄だと思ったのか、クリスは諦めたように溜息をつく。この二人は本当に気の置けない仲のようだ。
「余計なお世話だ。さっさと始めるぞ」
「はいはい。じゃあミラ嬢、実験頑張ってね」
シリウスはひらひらと手を振ると、クリスとともに教授室へと消えていった。




