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つまらない女だと婚約破棄されましたが、浮気男はこっちから願い下げです〜行き遅れた秀才令嬢は、天才侯爵に溺愛されるようです  作者: 雨野 雫


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18.クリスの異変


「研究は順調?」


 研究室に向かう道すがら、ミラはシリウスと世間話をしていた。ジュダスと対峙していた時と打って変わって、彼は今とてもにこやかだ。本当に同一人物だろうかと思ってしまう。


「一進一退ですね。でも、とても楽しいです」


「そっか。成果を楽しみにしているよ」


「はい、頑張ります」


 そんなことを話しながら、研究棟の階段に差し掛かった時、ミラは少し歩を緩め、おずおずと彼に申し出た。


「あの……先程彼と揉めた件については私から先生に話しますので、それまでは内緒にしておいていただけませんか?」


 例のパーティーで、クリスはジュダスに対して大変物騒な感情を抱いていた。


 確か、「あんな低俗、さっさと燃やしてしまえばいい」とか、「ドラゴンの餌にでもしてやる」などと言っていたのだ。


 そのため、今回のことが変にクリスに伝わると面倒なことになると思い、できれば自分の口から説明したかった。本当は話さず秘密にしておきたかったが、彼を婚約者に仕立てた手前、説明しないというわけにもいかない。


「うん、わかった。言わないよ」


「ありがとうございます」


 シリウスは理由も聞かずに快諾してくれた。そんな彼に感謝しつつ、ミラは一体どんなタイミングでクリスに説明したものかと考える。できる限り彼の機嫌を損ねないようにしたいのだが。


 そんなことを考えているうちに、すぐに二階突き当りの研究室に到着した。ミラは実験室に戻る前に、まず居室右手の教授室に声を掛ける。


「先生、シリウス殿下がいらっしゃってます」


 いつものように開け放たれた扉をコンコンと叩いてから中を伺うと、椅子に座っているはずのクリスの姿が見当たらない。席を外しているのかと思いすぐに教授室を出ようとしたが、ふと視界の端にクリスの黒髪が見えた気がした。


 ハッとしてその黒を見ると、なんとクリスが床に倒れているではないか。


「先生!?」


 心臓がキュッと縮み上がり、ミラは慌ててクリスに駆け寄った。そばにしゃがみ込むと、彼の青白い顔が目に入る。呼吸は荒く、ひどく苦しそうだ。目はぎゅっと閉じられており、眉間には深いシワが寄せられている。


 ミラはクリスの肩を叩きながら、大声で彼に呼びかけた。


「先生、聞こえますか!? 先生!? って、熱っ!」


 服越しに触れたにも関わらず、その異様な熱が伝わってきた。クリスの額にそっと手を当てたが、あまりの熱さにとっさに手を引っ込める。


 ミラは頭から血の気が引き、彼に触れた手以外の全身が冷えていく感覚に襲われた。


「ど、どうしよう……ひどい熱……」


「確か居室の隣がクリスの仮眠室だったよね?」


 いつの間にかそばに来ていたシリウスにそう尋ねられ、ミラは慌ててブンブンと首を縦に振る。


 クリスは泊まり込みで研究をすることが多い。いやむしろ、ほぼ大学に住んでいると言っても過言ではない。


 居室の隣は、仮眠室という名の彼の第二の家なのだ。大学には食堂もあるし簡易な浴室もあるため、家に帰らずとも生活には困らない。


「僕がクリスを仮眠室に運んでおくから、ミラ嬢は医務室の先生を呼んできて」


「わかりました!」


 シリウスに指示を受けたミラは、大慌てで医務室へと向かった。


 現代の回復魔法では、怪我は治せても病気は治せない。そのため、最強の魔法使いシリウスでもクリスを治すことはできないのだ。


 ほんの十数分前までいた教育棟に急いで駆け込み、医務室にいる医師を連れて再び研究棟に戻ると、クリスは変わらず苦しそうに息をしながら仮眠室のベッドに横たわっていた。


 医師はすぐに診察に取り掛かり、ミラはその様子を固唾を飲んで見守った。


 もし大きな病気を患っていたら。命に関わるような流行病だったら。


 そう考えると、不安と恐怖で体が震える。見守ることしか出来ない自分がひどく情けなかった。


 その後、医師は診察を終えると、クリスの容態を説明してくれた。


「過労ですね。しばらく安静にすれば、熱も下がるかと。起きたらこの薬を飲ませてください」


「そうですか……ありがとうございます」


 命に別状はないことに深く安堵した途端、体から力が抜けていく。


 薬を受け取り医師を見送ったあと、緊張の糸が解けたミラは壁沿いに置かれた椅子に座り込んだ。ベッドとの距離はそう遠くなく、クリスの青白い横顔がよく見える。


 ここ数日、クリスは多忙を極めていた。


 研究に加え、侯爵家当主としての仕事と大学関連の事務仕事。到底一人でこなせる量ではないはずだ。


 それでも彼は、頑なに誰かを頼ろうとはしなかった。


「クリスのオーバーワークは今に始まったことじゃないけど、本当に困った癖だよね」


 そう言いながら隣に座ったシリウスは、やれやれというように肩をすくめていた。


 クリスは元々ショートスリーパーらしく、一日に三時間か四時間ほどしか眠らないという。ミラが出会った頃から彼はすでに働きすぎの傾向があり、最初はその仕事量に驚いたものだった。しかし今ではそれが当たり前なのだと慣れきってしまい、こちらの感覚も麻痺していたようだ。


 しかしどう考えても、最近の彼の仕事量は異常だった。止めるべきだったのだ。


「以前先生に、事務仕事は自分が引き受けますって言ったんです。でも、あっさり断られてしまって」


 彼が秘書を雇わないのは、恐らく研究成果を盗まれた一件があったからだろう。それは理解しているが、せめて自分には雑務を任せてほしかった。


(研究室に置いてくれているから、てっきり信頼されているのだとばかり……)


 しかし、そうではなかったのかもしれない。


 クリスに本当の意味では信じてもらえていないと思うと、悔しさと寂しさが込み上げてくる。ミラは思わず俯き、ぎゅっと拳を握った。


「先生が全部自分で抱え込もうとするのは、誰のことも信じられないからなんでしょうか……」


「あいつは自分のことしか信じられなかった期間が長かったから、それが影響してるのかもね。前に、クリスが人間不信気味だって話、したでしょう?」


 シリウスの言葉に、ミラは自然と顔を上げ、彼に視線を向けながら頷く。シリウスの表情は、クリスへの同情とはまた違う、どこか悲しみに暮れているようなものに見えた。


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