弁当にかける情熱、というより意地
子がね、小さい頃はほんと食の細い人で。手をかければかけるほど食わねえ。
育児あるあるを地でいっていた。
実家でイ○イのハンバーグ食べ放題をしていたと聞いたときの脱力感。
言ってくれれば買ってくるのにと言いたくても言えない家庭環境だったため(主に義母とのたたかいという面で)、実家でやりたい放題を許容していたのは認める。ダメなことはきっちりド叱られる家だしな……。わたしのときより甘いけど(孫だからそんなもん
そんな人だったので、弁当が要るとなると気合いが。
とにかく食わせねばならぬ。ひと口サイズのものを品数いれて。残してきたらまあいいやくらいの感じで。弁当箱は小さいものを採用していた。
だれかにあげたという話も聞かなかったから、おそらく完食していた模様。
それが成長するとどうなるか。
人並みに食べるようになっても、弁当は品数を要求される。
家での食事は単品でも許されるのに、弁当は許されない。どうして。
おかげで中学生以降は弁当作りに難儀した。それでも食は細い方だと思う。八〇〇~一一〇〇ミリリットルの弁当箱ひとつでいけたからな……。
一応、中学では運動部に所属していたけど、活発な人と比べたら少なかったんじゃないかなー。
高校生のときはほんとしんどかった。明けても暮れても頭の中が弁当。
売店で販売されている日替わり弁当四五〇円、一度くらい買ってみればいいのに。隔離校舎(増築部分)に教室があった都合で、売店が遠くて行きたくなかったらしい。なんてこったい。
まあわからんでもない。増築を繰り返された結果校舎内が迷路みたいになっていて、行事で行く度に(校舎内では)迷子になっていたわたし。外から見ると普通の建物なのに。新館建てた百貨店の連絡通路みたいになっていた。本館の二階と南館の三階が繋がっているとかの。
そんなわけで、うっかり利き手を怪我した翌日のみ作れなかった(仕込みができなかったせいもある)けど、三年間ひたすら弁当を作り続けたのであった。
幼少期や特定のときだけ作っていた中学までと違って、毎日作ってるとなぜか埋まらないんだよ弁当箱。
どう詰めるか、でなく、どう埋めるか、なんだもの。
足りると思ったら隙間どころか大穴が空いて途方に暮れたり(ちくわに感謝),メインを多く入れると苦情がきたり。気がついたら副菜弁当になっていたりもした。
作りおきするしかなかった、今とは別の意味で。
弁当の記録は撮り続けた。ブログを書いていたこともあるが、作ったもの記録という意味合いの方が大きい。あとから見返すと、毎年同じ時期に同じものを作っていることに笑える。
そんな中で、けっこうイタズラを仕込んでいた。
SNSでグソクムシウインナーが流行ったときに自分のタイムラインにも流れてきたので、真似をしてカット。ブロッコリーの森の中に潜ませておく。
「すごく驚いたんだけど」怒られた。
そのわりによく要求された。
紫色のにんじん「パープルキャロット」を入手。思ったより甘かったので、軽く茹でて卵焼きの上に乗せておく。
昼にふたを開けたら青緑色のまだら模様になっていて、卵焼きにも色移りしていたそうな(時差)。アルカリ性だもんな、卵。相当気に入ったらしく、これは何度も要求される。
紫芋のあれこれを楽しんでいたから、あれの続きと思われていた可能性が高い。
所属コースや部活の合宿で使い捨て容器の弁当が要るときは、海苔弁。夏だけごはんをガリ入り酢飯に。隙間埋めはソーセー人にポーズを取らせて仕込んでおく。
先生方が見に来たとか。なんでや。
高校卒業したら弁当が卒業できると、信じていた。
学食の人混みに入っていけない人だったのを思い出すまでは。
卒業させてくれようー。
まあ大学は売店とかあるし、しょっちゅうサボったよね、弁当作り。実家に通いつめていた(その後体調を崩した)時期でもあったし。でも半分くらいは作ったかも。
結局、学部生のときは学食一度も使わなかったのではないか。
自分が自分に用意していた弁当とは雲泥の差だなあとも思いながら、よー頑張ったと褒めてやろうと思う。
ちなみに自分の弁当はほぼ主食。弁当箱一面炒飯とか。のっけ弁当も多かった。女子の弁当ではなかったな。
ごはん好きなもので、つい。
しみじみと書いてますが、今年卒業というわけではないです(まぎらわしい




