いただきもの
ご近所付き合いが密だと、いろいろといただきものをする機会が増える。
その頃、一帯で「畑を借りて菜園活動をする」ことが流行った。自治体がやたら借り手の募集をかけていたのだ。古くからこの地に住んでいるお宅は、広い庭の一角をどこからどう見ても畑に改造して楽しんでらっしゃるけど、適度な庭のお宅では、義家の庭と同様でちょこっとなにかを植える程度しかできない。
そこへ格安で農地の貸出とかあったら、飛び付くよね。ちょうど定年退職をされる層が多くて、行政は狙っていたと思われる。
ベッドタウンに開発された地域だから、住み始めた年代はだいたい似通っている。ということは、リタイアの時期も共通するわけだ。
で、なにが起きるかといえば。
お裾分けが集結するのだ。同じ野菜が。同じ時期に。自分も含めてだいたいみんな、同じもの植えるからね。
とてもありがたいのだけど、レパートリーの乏しさに泣く。鍛えられてその後増えたのが利点なのかそうなのか。
夏はほんと、きゅうりとゴーヤは買わなくてよかった。
たまになすとトマトがやってくる。
ロメインレタスをいただいたときは、アブラムシとナメクジとのたたかいだった。さすが無農薬。結局炒めて食べた。敗北感しかなかった。
冬になると、春菊とねぎと大根。大根六本(葉つきででかい)と冬瓜八玉(巨大)きたときはどうしようかと思った。お付き合いのあるお宅は大抵まわってるしね、皆さん。話を聞いた限りだと、だいたいうちに集結していたものと思われる。とくに冬瓜。
おかしいな、うちと同年代の世帯ははす向かいにもあったはずだが。
一部ジャムにして返品しておいた。冬瓜はあまり嵩が減らないのが難である。キラキラしてきれいだけど、それだけの品でもある。
冬瓜、植えたはいいけど豊作すぎて途方に暮れたのではなかろうか。豚肉と炒めた(塩胡椒のみか、中華スープの素を加える程度)らおいしかったとか、麻婆にした(味を入れる前によく炒める)らおいしかったとか、話したら感謝されたし。
冬瓜汁、食べてくれないんだよねえ。おかげで冬瓜レパートリーは爆発的に増えた。あれだけ食べても消費が間に合わなくて、一玉溶かしちゃったけど。
大根の葉は重宝した。早速切り落として茹でて、冷凍保存する分と菜飯にする分とに分けたり、茹でる前の葉を小口に刻んで納豆と炒めてごはんのお供にしたり。
ある日、電話がかかってきた。
「巨峰が『いっぱい』あるんだけど、もらってくれないかな。食べきれないの」
どういう状況だ、それは。
とりあえず、お伺いする。言われた通り、大きめの袋をもって。
そして、招き入れられた玄関で絶句する。
玄関ホール、巨峰で埋まっとるやん……。
ぶどう農家さんが事業をたたむということで、畑を潰すことにしたはいいけれど、まだ食べられる巨峰がもったいないから持っていけと、持たされたそうな。
どうやって運んだのかが気になる。けど訊けなかった。
これでもけっこう配ったのだけど、と苦笑されていた。玄関、やっと通れるくらいの通路しかない。「いっぱい」たしかにいっぱいだなあ。
「どれだけでも持っていって!(切実」ということで、我ながら図々しいなというくらいいただいたのに「それだけでいいの?」と言われる。たしか三~四キロほどもらってきた気がするんだけど。
いや、それだけって。ジュースとジャムにしていただいた。冷凍するとわたし以外食べないもので。
あれ以上の衝撃的ないただきものはしたことがない。ちなみに巨峰の人と冬瓜の人は同一人物である。




