「巨大地震で被災したら」を考える
おそらく楽観的すぎる視点になると思うのだが、子どもの頃から東海地震だ、東南海地震だ、南海トラフ地震だと変遷してきた巨大地震について考える。いつの間にやら範囲がものすごく拡がっているのだが。
居住地は弱く見積もって震度五弱、強く見積もって震度七が予想される地域ではあるが、幸いなことに津波の警戒度が低い。川を遡上してくる津波への警戒は怠れないにしても、その水が山越えをしない限りこちらへは来ない。
小規模な用水路も含めて、そう結論づけた。山を切り拓いた土地なうえに坂の上の方だし。
ちょっと掘ると粘土質にぶち当たることから、液状化の心配が少ない土地柄でもある。これは自治体のハザードマップにもしっかり載っている。とはいえ、この粘土質の層が滑る可能性もなくはない。
子が高校生の頃も、家族で話し合うようにと指導を受けて、一応の確認をした。当時は子がまだ携帯電話の所持を拒否していた時期でもあったため、連絡手段に今はなき伝言ダイヤルサービスを設定(当時はまだ動いていたから……)して担任に驚かれたという。
「なんかそういうの、母が詳しくて……」なにやら誤解を招きそうな文言だな。
わたしが学生の頃はまだ、携帯電話を皆が持っているわけではなかったから、多地域の人たちとの待ち合わせ用に利用していたこともあって知っていただけである。公衆電話を探すのにも困らなかったし。
現在は携帯キャリアが災害用伝言ダイヤルサービスを解放してくれるから、そちらに頼ろうと思う。問題は「そのとき使えるのか?」だが。
繋がらなかったら諦めろ、とりあえず生き延びていたらそのうち連絡はつくだろうから。そういうことになっている。端から見たら薄情かもしれない。
現在の地に住み始めた頃から一貫しているのは「火災や倒壊などで居られなくならない限りは、基本在宅避難」である。
アパート上階だから水が流せないことと、夏だと灼熱地獄な点がネックにはなるが、避難所へ向かう選択肢がない。理由はシンプルで、避難所に皆が収容できるわけではないから。ついでにいえば、そういうところで過ごすには向いていない性質をもつ。社会不適合一家なもので。
だったら可能な限り自分でなんとかするしかないのである。特にわたしの食糧事情が悪化の一途をたどっていることもあり、支援物資がいただけても口にできない可能性が高い。家族用にはいただくけれど、自分には受け取れない。
だったら自炊するしかないのである。
前提条件として、鍋でごはんは炊ける。しかし、水の使えない状況で普通の調理はできるはずもなく、必然的に湯煎調理となる。あまり得意ではないが。
普通にごはんを炊く。パスタとトマトジュース、ツナ缶あたりで調理する。蒸しパン生地を茹でる。
あまりレパートリーがないのと使える材料に偏りがあるのとで、現状はこれくらいしか思い付かないが。包丁でわざわざ切ってなどいられないし。
そのときになれば何かしら思い付くだろうとも考えている。ごはんさえ炊ければどうにかなる。
食い意地を舐めてはいけない。
せめて食べられるレトルトがあれば(未練
しかし、それよりも最大の問題は。
巨大地震の揺れと建物の倒壊等で生きていられるかどうか、である。
でも案外しぶといんだよね、人間て。
こういうときに死ぬか生きるか、どちらが正解なのか。未だにわからないでいる。
ふと、めんどくさいきょうだいが脳裏をよぎって「(大災害時は)このまま死んだほうが楽になれるのかなあ」とか考えてしまったりするせいだ。
しかし、あれよりも自分の家庭への責任の方が断然重いので、思いとどまることができているのが現状。
水害(台風)に関しては本文で述べたような立地のため直接被害を受ける場所ではないのだけれど、市町村の境と反対側の隣市町村に川があることから場合によっては物流に問題が起きると考えられるため、それはそれで考える必要がある。




