01 約束
2025.7/7
今回の更新は全7話です。隔日で更新していきます。
咲弥が祖父の家に転居してから、二ヶ月の日々が過ぎ去った。
冬の終わりに越してきて、今は四月のど真ん中である。あたりはすっかり春めいて、村落のあちこちに咲き誇っていた桜もすっかり葉桜になっていた。
気温もじわじわと上がってきて、最近では二十度を超えることも珍しくはない。
それで咲弥もキャンプの際には、防寒用のインナーウェアの着用を取りやめることになった。長袖のスウェットにサロペットエプロン、ハーフパンツにレギンスという外見上に変化はなかったし、夜に備えてマウンテンパーカーも手放せなかったものの、咲弥的には十分に春気分であった。
(冬のキャンプも楽しいけど、やっぱり春になるとテンションが上がるよなぁ)
そんな想念にひたりながら、咲弥はその日も楽しいキャンプの準備に取り組んでいた。
二ヶ月ばかりの日が過ぎ去って、咲弥の生活もすっかり安定している。月に何度か日銭を稼ぐためのアルバイトに励み、それ以外の時間はキャンプざんまいだ。転居の前から思い描いていた理想の生活を実現させることがかない、咲弥は心から充足していた。
まあ、実際に思い描いていたのはソロキャンプに埋没する日々であったものの、それよりもさらに楽しいグループキャンプの日々であるのだから、文句のつけようはない。
キャンプのレギュラーメンバーはドラゴン、アトルとチコ、三頭のケルベロス。準レギュラーは、スキュラ、ユグドラシル、ロキの使い魔であるゴーレム。そして、時おりやってくるゲストが四名の冒険者たちという顔ぶれであった。
その全員が集結したのは、ひと月ほど前のこととなる。咲弥は三泊四日のキャンプを計画して、その初日にユグドラシル、二日目にロキと出会い、そして三日目に冒険者たちと再会することになったのだ。その日は森を荒らす巨大ガニの捕獲作戦が敢行されて、ひときわ立派なキャンプ料理を楽しんだものであった。
それ以降も、スキュラやユグドラシルやロキとはたびたび顔をあわせている。迷惑がられないていどに声をかけて、ともにキャンプを楽しんでいるのだ。皮肉屋のスキュラも善良なユグドラシルも内向的なロキも、それぞれキャンプの楽しさを理解してくれたようであった。
いっぽう四名の冒険者たちは、このひと月ていどで一回だけ再来した。
「いつでも歓迎する」というドラゴンの言葉を受けて、なんの用事もないままに顔を見せてくれたのだ。そうしてその日もキャンプ料理と酒を楽しみ、翌日には外界に戻っていったのだった。
辺境都市の城主とやらにはドラゴンが書簡をしたためたため、彼らにかけられていたおかしな疑いは完全に晴らされたらしい。なおかつ、暴虐と名高いドラゴンと和平の関係を結んだということで、ずいぶんな賞賛を授かったのだそうだ。
そもそもドラゴンは暴虐でも何でもないのだから、咲弥としてはいささか複雑な心境であったが――冒険者たちもそれを気まずく思っているような様子であったため、多少ながら心を慰められることになった。咲弥にとっては顔も知らない外界の人々よりも、目の前にいる相手の心情こそが肝要であったのである。
少なくとも、彼らだけはドラゴンが暴虐な存在でないことを信じてくれた。
それで咲弥は心置きなく、彼らをキャンプ料理でもてなすことがかなったのだった。
(今日は、何をしようかなぁ。ひさびさに釣りでも楽しんで、スキュラさんをおさそいしよっかなぁ)
そうして咲弥が鼻歌まじりにキャンプの準備を進めていると、のどかなチャイム音が来客を告げてきた。
こちらの家に客が訪れるのは、稀である。それで咲弥が小首を傾げながら玄関口まで向かうと、そこに待ちかまえていたのは田辺ハツ老婦人であった。
「ちょっとばっかりお邪魔するよ。咲弥ちゃんは、これからお山かい?」
「はい。ぎりぎりのタイミングでしたねぇ。ちょうど今、支度をしてたところですよぉ」
咲弥がこの村落においてもっとも親しくさせてもらっているのは、こちらの田辺老婦人である。田辺老婦人は生前の祖母の親友で、祖父とも親交があったのだ。それで咲弥が越してきてからも、何かと目をかけてくれていたのだった。
「実は、咲弥ちゃんに相談があってねぇ」
田辺老婦人はどこか困っているような面持ちで微笑みながら、身を横にした。
すると、その背中に隠されていたものが、あらわになる。それは小柄な老婦人よりも、さらに小さな女の子――田辺家の末っ子である陽菜という少女であった。
「あらら、陽菜ちゃんも一緒だったんだぁ? ちょっとおひさしぶりだねぇ」
咲弥が笑いかけると、陽菜は頬を火照らせながら「うん!」とうなずいた。
彼女はこの春で小学四年生になった、可愛らしい女の子である。短めの髪を髪留めで留めており、本日はジャージのトップスにキュロットスカートにロングソックスという格好だ。ただ何故かしら、背中に大きなリュックを背負っていた。
「陽菜ちゃんも、どこかにおでかけかなぁ?」
咲弥がそのように問いかけると、陽菜は頬を赤らめながらもじもじとした。彼女はとても素直で可愛らしい女の子であるのだが、少しばかりシャイなのである。それも含めて、咲弥は好ましく思っていたのだが――田辺老婦人の言葉に、度肝を抜かれることになった。
「急な話で申し訳ないんだけど、ひな坊もお山に連れていってもらうことはできるかねぇ?」
「え? 陽菜ちゃんを? どうしてまた?」
「あたしもまったく知らなかったんだけど、ひな坊は前々から歳三さんと約束をしてたみたいなんだよ」
すると、陽菜がまた「うん!」と大きくうなずいた。
「としぞうおじいちゃんは、ひなが十さいになったらお山に連れていってくれるって約束してくれたの!」
「とまあ、こんな感じでねぇ。ひな坊はもっと小さな頃から、歳三さんにねだってたみたいで……十歳になるまでは我慢するように言われてたみたいなんだよ。それで昨日、ついに十歳になったってわけだねぇ」
咲弥が呆気に取られていると、田辺老婦人は申し訳なさそうに微笑んだ。
「あたしらも、昨日になってそんな話を聞かされたもんだからさ。それでいきなり、こんなお願いをすることになっちまったんだよ。もし迷惑じゃなかったら、ひな坊の面倒をお願いできるかい?」
「えーと……それって、陽菜ちゃんをキャンプに連れていくってことですよねぇ? あたしなんかに大事なお孫さんを預けちゃって、大丈夫なんですかぁ?」
「咲弥ちゃんだったら、歳三さんと同じぐらい信用できるからね。誰も文句はありゃしないさ」
陽菜と老婦人の姿を見比べながら、咲弥はなかなか考えがまとまらなかった。
ただ思うのは、咲弥が初めて祖父のもとでキャンプを体験したのも、十歳の頃であったのである。陽菜にキャンプをねだられた祖父が、なぜ十歳になるまで待つように言いつけたのか――それを思うと、咲弥の胸には得も言われぬ感慨があふれかえったのだった。
◇
「そんなわけでさぁ、今日はご近所の陽菜ちゃんって女の子を連れていくことになっちゃったんだよぉ」
ひとまず自室まで引っ込んだ咲弥は、ひそめた声で炎の色合いをした鱗のペンダントに報告することになった。
「突然のことだから、あたしもプランがまとまらなくってさぁ。とりあえず、確認させていただきたいんだけど……あたしと一緒にいれば、陽菜ちゃんが危険な目にあうことはないんだよねぇ?」
鱗は二回、ぴこぴこと明滅した。これは、肯定の意である。
「でも、いきなりドラゴンくんたちを紹介するのはハードルが高いだろうから……とりあえず、お山に到着したら、こっそり相談に乗ってもらえるかなぁ?」
鱗は再び、明滅する。その落ち着いた反応に、咲弥はほっと安堵の息をついた。
「ありがとう。どっちみち、陽菜ちゃんは一泊しかできないからさぁ。いざとなったら、明日の朝に陽菜ちゃんを家まで送って、あたしはもっぺんお山に向かうよぉ。他のみんなにも、よろしく伝えておいてねぇ」
ぴこぴこと明滅する鱗に笑いかけてから、咲弥は「通信、以上でぇす」と告げた。
そうして祖父の寝室に立ち寄って、ずっと手つかずであったローチェアを抱えて玄関口に取って返すと、陽菜と老婦人は変わらぬ姿でたたずんでいる。咲弥はワークキャップをかぶりなおしてから、二人に笑いかけた。
「お待たせぇ。それじゃあ、出発しよっかぁ」
「本当に、いきなりの話で申し訳なかったね。ほら、ひな坊もきちんとお礼を言いな」
「うん! さくやおねえちゃん、ありがとうございます!」
陽菜は髪留めが落ちそうな勢いで、頭を下げた。
そして顔を上げると、そこには喜びの表情が輝いている。そんなにキャンプを楽しみにしていたのかと思うと、咲弥も何だか胸が詰まってしまった。
その後は田辺家の両名に見守られながら、玄関口に準備していた物資とローチェアを愛車のトランクに運び込む。助手席に積む予定であったウォータージャグもトランクに積み込むことになってしまったが、なんとかぎりぎり収納することができた。
(でも、あたしのキャンプギアはのきなみドラゴンくんに預けちゃってるからなぁ。陽菜ちゃんをお招きするとなると、最低でもシュラフは必要になるし……どうにかして、こっそり受け取るしかないかぁ)
頭の片隅でそんな考えを巡らせながら、咲弥は田辺老婦人に向きなおった。
「それじゃあ、出発しますねぇ。明日の昼前には送っていくんで。ご両親にもよろしくです」
「うん。怪我のないように、気ぃつけてね。ひな坊も、きちんと咲弥ちゃんの言うことを聞くんだよ?」
陽菜は「うん!」と元気に応じてから、背負っていたリュックを胸もとに抱えなおして、黄色い軽ワゴン車の助手席に収まった。
「そのリュックには、何が入ってるのかなぁ?」
咲弥が運転席に乗り込みながら訪ねると、陽菜は「えーと」と小さな指を折り始めた。
「救急セットと、水筒と、軍手と、タオルと、雨ガッパと……あと、いちおう長ぐつも入ってるの。としぞうおじいちゃんが、お山は天気が変わりやすいって言ってたから」
「おー、準備万端だねぇ。さすが陽菜ちゃんは、しっかりしてるなぁ」
咲弥がそのように告げると、陽菜は気恥ずかしそうに微笑んだ。
「じゃ、いってきまぁす」
「いってきまーす!」
のんびり笑う老婦人へと挨拶の言葉を投げかけてから、咲弥は車を発進させる。
すると、お山に続く林道に差し掛かったところで、陽菜がおずおずと声をあげた。
「あの、さくやおねえちゃん……いきなり押しかけちゃって、ごめんなさい。ずっと言おう言おうと思ってたんだけど……なかなか言えなくって……」
「いいんだよぉ。あたしもしょっちゅう留守にしてたから、あんまり顔をあわせる機会もなかったしねぇ」
この二ヶ月で陽菜と遭遇したのは、ほんの二、三回である。咲弥は半分がた七首山にこもっていたし、村落には確たる用事もなかったので、地元の人々とは交流らしい交流もなかったのだ。
ただ老婦人のおかげで、田辺家に関しては多少の情報を耳にしている。
老婦人のひとり娘にあたる女性は立派な農業系の大学に進学したのち、婿をとっつかまえて帰郷したのだそうだ。それで夫婦仲良く家の畑を手伝い、三人の子を生して――その末の娘が、こちらの陽菜であったのだった。
「でも、陽菜ちゃんがじっちゃんとそんな約束をしてたなんて、全然知らなかったよぉ」
「うん……ちっちゃいとあぶないから、十さいになるまで待つようにって言われてたの」
そのように答えてから、陽菜はくすんと鼻を鳴らした。
きっと、祖父のことを思い出したのだろう。祖父の葬式に参じた時、陽菜はずっと声もなくぽろぽろと涙をこぼしていたのだった。
「じっちゃんと仲良くしてくれて、どうもありがとうねぇ。じっちゃんの分まで、あたしがキャンプの楽しさを教えてあげるよぉ」
「うん! ありがとう! すごく楽しみで、昨日はなかなか眠れなかったの!」
と、陽菜は悲しみを振り払うように、にこりと笑った。
この長閑な村落に相応しい、純朴な女の子なのである。上の二人はどちらも男児で、いかにも生意気ざかりという印象であった。
「約束したのは、陽菜ちゃんだけなんだねぇ。お兄ちゃんたちは、キャンプに興味がなかったのかなぁ?」
「うん。おにいちゃんたちは、町で遊ぶほうが好きみたい。それに最近は、スマホのゲームに夢中なの」
「おおう、現代っ子だねぇ。うちの弟も、子供の頃はゲームざんまいでさぁ。じっちゃんの家に預けられたときも、ずっとピコピコ遊んでたんだよねぇ」
「そうなんだ? ひな、ゲームとかよくわかんないの」
「気が合うねぇ。あたしもそっち方面は、さっぱりなんだよぉ」
咲弥が笑いかけると、陽菜も嬉しそうに笑ってくれた。
その間も、車は順調に隘路を進んでおり――しばらくすると、木々の密度がぐんと高まった。
(さあ、ここからだなぁ)
山の一合目に差し掛かり、異界と融合した区域に踏み入ったのだ。
ここからは、咲弥と陽菜で見える光景が違ってくる。異界の要素を知覚できるのは、ドラゴンからの許可をもらっている咲弥のみなのである。咲弥の目は早くも毒々しい花の色合いをとらえ始めていたが、陽菜の目にはほどほどの密度で生えのびるブナや楡の姿しか映らないわけであった。
(で、ドラゴンくんたちの姿が見えないのは当然として……ここでキバジカとかが飛び出してきたら、厄介だよなぁ)
キバジカもまた異界の存在であるため、陽菜には知覚できないのだ。
しかし、二つの世界の融合によって誕生した巨大魚の『大喰らい』や巨大ガニなどは、どういった扱いになるのか――そこまでは、咲弥も理解が及んでいなかった。これまでは、そんな詳細を知る必要も生じなかったのである。
(キバジカだって目に見えないだけで、存在してることに違いはないんだもんなぁ。まあ、お守りのおかげで危ないことはないんだろうけど……この前みたいに車の前に跳び出されたら、無視して通りすぎることもできないしなぁ)
こんな疑念を抱えたまま一泊二日のキャンプを過ごすのは、なかなかに難儀な話である。それで咲弥も、ドラゴンにこっそり相談をさせてもらおうと思案したわけであった。
(ドラゴンくんたちのことを紹介できたら、話は早いんだけど……そう簡単な話ではないんだろうしなぁ)
さりとて、祖父が交わした約束を無下にすることも、こんなにも嬉しそうにしている陽菜の期待を踏みにじることも許されない。とにかく咲弥は穏便に、明日の朝までを過ごさなければならなかった。




