01 モーニングココア
2025.1/19
今回の更新は全5話です。隔日で更新いたします。
その日の朝――咲弥がぼんやりまぶたを開けると、目の前にドラゴンの顔が鎮座ましましていた。
それもそのはずで、咲弥はまたテントの中でドラゴンの首を抱いたまま眠りに落ちてしまったのだ。時節も三月に突入して、夜の寒さもじわじわやわらいできたものの、このすべすべで温かな存在を手放す気持ちにはなかなかなれなかったのだった。
(もっと暑くなってきたら、さすがに添い寝は難しいかなぁ……それもちょっぴり、寂しいなぁ……)
寝起きの頭でぼんやり考えながら、咲弥はドラゴンの首に頬ずりをする。
すると、床に伏せられていたドラゴンの顔がゆっくりと持ち上げられた。
「朝であるか……サクヤが健やかな眠りを得られたようで、何よりである」
「うん。ドラゴンくんもねぇ」
咲弥は最後の抵抗とばかりにドラゴンの首をぎゅっと抱きすくめてから、半身を起こした。
防寒ジャケットとワークキャップを外した姿で、咲弥は下半身をシュラフに突っ込んでいる。朝の冷気はそれなりであったが、やはり先月ほどではなかった。
咲弥は「うーん」と大きくのびをしてから、まずは手首に留めておいたヘアゴムでセミロングの髪をアップにまとめる。その間、ドラゴンは優しい眼差しで咲弥の挙動を見守っているのが常であった。
「表はそこそこ明るいみたいだねぇ。みんなはまだ寝てるのかなぁ」
「うむ。とりあえず、何かが動いている気配はないようであるな」
朝からダンディなドラゴンの声を聞きながら、咲弥は枕もとに放り出されていた防寒ジャケットを羽織り、ワークキャップをかぶる。そうして出入り口のジッパーを開けて、ドラゴンとともにテントの外に出てみると、まずは清涼なるせせらぎの音色が出迎えてくれた。
昨晩――水妖スキュラと邂逅を果たした咲弥たちは川辺に設営をして、数々の魚料理を満喫したのだ。
タープの下には、その痕跡が残されている。動物が寄ってこないように、使用済みの食器はひとまとめにしてテントの前室に運び入れておいたが、そこかしこに焼き魚の香りが残されているように感じられた。
咲弥はとりあえずタープの下から出て、川面と向かい合う。
朝の陽射しを浴びながら、本日も川面は銀色に美しく輝いていた。
「うーん、これは贅沢な朝のひとときだねぇ。また近い内に、ここで釣りを楽しませてもらおっかぁ」
「うむ。スキュラとも、確かな絆を結べたようであるしな」
「あはは。向こうは内心で迷惑がってるかもしれないけどねぇ。でも、キャンプ料理は楽しんでもらえたんじゃないかなぁ」
咲弥はひたすら、安らいだ心地である。
昨日は日本酒の一升瓶を二本もあけてしまったが、八名がかりならばどうということもない。なおかつ咲弥も楽しいキャンプを再開してから五回目にして、アルコールの強さをすっかり取り戻したようであった。
咲弥はコンテナボックスからタオルを引っ張り出して、川の水で顔を洗う。
さすがに川の水はびっくりするぐらい冷たかったが、それもまた心地好い限りであった。
「やっぱりみんなは、まだ眠ってるみたいだねぇ。それじゃあ、朝の準備を進めておきますかぁ」
ひっそりと静まりかえったもうひと組のテントの様子をうかがってから、咲弥は再びコンテナボックスの中身をまさぐった。
そこから取り出したのは、二台のバーナーと大小のコッヘルである。
さらにクーラーボックスからパックの牛乳を取り出しつつ、咲弥はドラゴンに向きなおった。
「今日はココア気分なんだけど、ドラゴンくんはどうかしらん?」
「うむ。サクヤと同じ喜びを分かち合えれば、得難い限りである」
ドラゴンの心憎い返答に、咲弥は「にひひ」と照れ笑いをした。
実のところ、キャンプメンバーが増えるのは楽しい限りであったが――こうしてドラゴンと二人きりで過ごすわずかな時間も、咲弥はかけがえのないものだと考えていた。
(他のみんなも大好きだけど、やっぱりドラゴンくんは特別な存在だからなぁ)
そんな想念にひたりながら、咲弥はコッヘルに注いだ牛乳をバーナーの火にかけた。
脂肪分が分離しないように、弱火の設定だ。そうしてゆっくり時間をかけて牛乳を温めたならば、粉末のココアを投じた二つのマグカップに少量だけ注ぎ込む。それを入念に練ってから牛乳を追加すると、とてもなめらかな口当たりになるのだ。
三月の朝の大気に、ミルクココアの甘い香りが広がっていく。
すると、静まりかえっていた隣のテントの内部に喧噪の気配が生じて、そこからすぐさま愛おしきキャンプメンバーたちが飛び出してきた。
「きょ、きょうもすっかりねすごしてしまったのです! サクヤさま、りゅーおーさま、おはよーございますなのです!」
まずはアトルとチコが、ねぼけまなこでぺこぺこと頭を下げてくる。寝ぐせで大爆発した紫色の猫っ毛が、実に愛くるしかった。
いっぽうケルベロスは三体に分裂した状態であり、ルウはひとりで凛々しい面持ち、ベエは立ったままうとうとと船を漕ぎ、ケイは遠慮のない大あくびだ。咲弥がアトルたちと朝を迎えるのはこれが三回目、ケルベロスとは二回目のことであった。
スキュラは昨晩の就寝前に姿を消したので、現在はこれでフルメンバーとなる。
咲弥は心を込めて、「みんな、おはよぉ」と笑いかけた。
「昨日も楽しかったねぇ。ココアの準備ができてるけど、如何かなぁ?」
最初のキャンプの朝にココアを味わった経験があるアトルとチコは、たちまちぱあっと顔を輝かせる。
いっぽう、まだモーニングコーヒーしか味わった経験のないケイはうろんげに鼻をひくつかせていた。
「なんだか、やたらと甘ったるい匂いだなー。そんなもんを喜ぶのは、真ん中の首だけだぜ」
「そう? じゃ、ケイくんはやめとく?」
「誰も飲まねーとは言ってねーだろ!」と、ケイはすねた顔をする。初めてのコーヒーを口にした際にも、彼は「にげーよ!」と文句をつけながらすべて飲み干していたのだった。
そのかたわらで、甘党たるルウは凛々しい表情を保持したままそわそわと身を揺すっている。ベエはまだ眠気が去らないようだが、いずれもタイプの異なる愛くるしさであった。
咲弥は朝から満ち足りた心地で、五名分のミルクココアを作りあげる。
アトルとチコは木彫りのコップ、ケルベロスたちは銀の深皿だ。どこぞの王国から献上されたというその深皿は、すっかりケルベロスたちのマイカップという風情であった。
あらためて、七名のキャンプメンバーはミルクココアが置かれた『祝福の閨』を取り囲む。
木彫りのコップを両手でつかみ、甘いミルクココアを口にしたアトルとチコは、「おいしーのですー」ととろけるような笑顔を見せる。それもまた、言語道断の愛くるしさであった。
「サクヤさまとごいっしょするきゃんぷは、さいごまでしあわせいっぱいなのですー。またしゅーらくのみんなにうらやまれてしまうのですー」
「ほんとなのですー。もうおわかれなのが、さびしーさびしーなのですー」
普段よりも長くのばされる語尾が、両名の寝ぼけ加減と幸せ加減を物語っている。咲弥もまた、温かな心地で「うんうん」と同意した。
「あたしも一日で帰るのは名残おしいよぉ。もうちょっと暖かくなったら連泊を計画するから、そのときはよろしくねぇ」
「れんぱく?」と、チコは可愛らしく小首を傾げる。
すると、咲弥よりも早くドラゴンが答えた。
「連泊とは、連続で宿泊するという意味であるな」
「れんぞくでしゅくはく! サクヤさまが、ふたばんもおやまですごすのです?」
アトルとチコは眠気も吹き飛んだ様子で、身を乗り出してくる。
咲弥はローチェアでくつろぎながら、のんびり「うん」と笑顔を返した。
「遺産相続の面倒事も一段落したし、仕事のスケジュールも自分次第だからさぁ。これからは、バシバシ連泊するつもりだよぉ。二泊と言わず、三泊でも四泊でもねぇ」
「わーい! れんぱく、うれしーうれしーなのですー!」
「サクヤさまと、もっといっぱいいっしょにいられるのですー!」
ついにアトルとチコは丸太の椅子から立ち上がり、きゃっきゃと駆け回り始めてしまった。
ミルクココアよりも甘ったるい幸福感にひたりながら、咲弥は若干の申し訳なさを覚えてしまう。
「そんなに喜んでもらえて、あたしも嬉しいよぉ。ただ、山ってなかなか暖かくならないからさぁ。もうちょっとだけ、待っててねぇ」
「ふむ。寒さが厳しいと、連泊には都合が悪いのであろうか?」
ドラゴンが不思議そうに問うてきたので、咲弥は「うん」とうなずいた。
「別に、キャンプそのものに気温は関係ないんだけどさぁ。もうちょっと暖かくならないと、体を拭くのもひと苦労なんだよねぇ」
「体を拭く……とは?」
「だから、汗を拭いたり垢を落としたりとかだよぉ。ソロキャンならまだしも、グルキャンで小汚い姿をさらすのは、ちょっとばっかりアレだからさぁ」
咲弥の説明に、アトルとチコとケルベロスたちはきょとんとしている。
ただひとり、ドラゴンだけは理解が及んだ様子で「なるほど」と首肯した。
「そちらの世界の人間族には、風呂で身を清めるという習わしが存在するのであるな」
「いやいや、そっちの人たちだって、お風呂ぐらいは入ってるでしょ?」
そんな風に答えてから、咲弥はひとつの疑念に思いあたった。
「そういえば、ドラゴンくんやケルベロスくんはいつでもすべすべのモフモフだよねぇ。やっぱり、水浴びとかしてるのかなぁ?」
「水浴びなんざ、獣のすることだろ! 俺を獣あつかいすんなって言ってるだろーがよ!」
「ごめんごめん。それじゃあどうやって、そのモフモフをキープしてるのかなぁ?」
ケイがうろんげに首を傾げると、ミルクココアの皿をぴかぴかに舐めあげたルウが発言した。
「つまり、如何にして身を清めているかという意味ですね? 我々はこのようにして、魔力を燃焼させています」
そのように告げるなり、ルウの体がぼしゅっと一瞬だけ黒い閃光を帯びた。
「魔族といえども半分は肉の身でありますため、清潔に保たなければ病魔に見舞われる恐れが生じます。よって、このように魔力を燃焼させて、肉体に付着した不純物を除去するのです」
「ほへー。じゃ、アトルくんとチコちゃんは? 砂漠だと、水も薪も貴重なんでしょ?」
「ぼくたちは、すなあびでみをきよめているのです。きれーなすなでからだをごしごしすると、すっきりさっぱりなのです」
そう言えば、アトルたちコメコ族はデザートリザードの肉を砂漬けにしているのだ。彼らが住まう砂漠の砂には、何らかの殺菌作用が存在するのかもしれなかった。
「もしよろしければ、きれーなすなをはこんでくるのです? そうしたら、サクヤさまはすぐにれんぱくできるのです?」
「いやぁ、あたしが砂浴びなんてしたら、全身がすりむけちゃうんじゃないかなぁ。垢を落とすほどの勢いで砂をこすりつけるって、なかなかのハードプレイだからねぇ」
「そうなのですか……ざんねんのかぎりなのです……」
アトルとチコは、しょんぼり肩を落としてしまう。
さきほどのはしゃぎようとのギャップで、咲弥も胸が痛くなってしまった。
「それで、気温が上がれば水浴びなどで身を清めることがかなうため、連泊が可能になるということであろうか?」
理知的な眼差しをしたドラゴンの言葉に、咲弥はまた「うん」とうなずく。
「体なんかは濡れたタオルで拭きたおすぐらいで十分かもしれないけど、頭を洗うには水をかぶる必要があるからさぁ。やっぱ、もうちょっと気温が上がらないと厳しいんだよねぇ」
「なるほど。いくつかの魔法を行使すれば、それらの問題は解決できそうなところであるが……それよりも容易い方法があるやもしれんな」
そう言って、ドラゴンはふっと目を細めた。
「サクヤよ、そちらの世界には温泉というものを楽しむ習わしも存在するようであるな」
「ああ、いいねぇ、温泉。あたしもあちこちのキャンプ場を巡ってた頃は、温泉を楽しんでたもんだよぉ。……え? まさか、このお山にも温泉がわいてるとか?」
「うむ。我はこの山をひと通り探索しているのでな。その際に、いくつかの温泉を発見している」
すると、アトルとチコが再び身を乗り出してきた。
「おんせんというものがあったら、サクヤさまはれんぱくできるのです?」
「そーしたら、わたしたちもしあわせいっぱいいっぱいなのです!」
咲弥はまだ、頭の整理が追いつかない。
しかしその胸中には、それこそ熱い源泉のように期待の思いがわきたちつつあったのだった。




