86話 拝啓、闇バイトを嘲笑う人たちへ
(視点人物)
NPCの少年「黒崎晴希」
『SNSで特殊詐欺に勧誘か、闇バイトのリクルーター役の少年を逮捕』
姉の入院先の病院で面会の受付表を書いていると、頭上の壁掛けテレビからうんざりするニュースが耳に飛び込んできた。
職業安定法違反の疑いで捕まった人は、僕と同じ16歳。
そして、中卒で働いている僕と違って、都内の公立高校に通っている高校生らしい。
少年は指示役から15万円の報酬金を受け取っていたようで、警察の取り調べに対して「遊ぶ金が欲しかった」と容疑を認めているそうだった。
──こんな軽い気持ちで犯罪に手を染めるなんて馬鹿なヤツ。
──いや馬鹿だからこそ、軽い気持ちで犯罪に手を染めるのか?
僕は書き終えた受付表を提出して、女性スタッフから面会許可証を受け取る。
エレベーターで8階のボタンを押して、着信が鳴らないようにスマートフォンの電源を切った。
エレベーターが上がっていくにつれて、ガラス越しに見える街の景色が広がっていく。
やがて遠くに見えた学校のグラウンドでは、ゼッケン姿の男子高校生たちが夕陽を浴びながらサッカーの紅白戦をしている。
頭でボールを持った選手に自分を重ねたとき、目的の階に着いたチャイム音が鳴った。
僕はサッカー部の紅白戦から目を逸らし、姉の病室に向かった。
「いらっしゃい。待ってたよ、晴希。今日は調子が良くて、いい絵が描けたんだ」
6つ上の姉の葵空はベッドで微笑み、スケッチブックに色鉛筆で描いた絵を見せる。
「ふわり」という言葉が似合う笑顔。
窓から夕陽が差し込む光に照らされて、耳を出したボブヘアは赤く染まり、華奢な輪郭は儚く光り輝いているように見える。
身内の贔屓を差し引いても、絵になる美人だった。
だが、姉が自信満々に見せた絵は、今日も相変わらず芸術的センスが壊滅していた。
スケッチブックに大きく描かれた生物は足が10本以上あり、横に長い胴体は芋虫のようにグニャグニャしている。
おそらく犬か猫をモチーフにしたのだと思われるが、なぜか片方しかない耳が鼻の位置にあるので、いまいち自信が持てない。
──病気で手が思うように動かないわけでもないのに、どうして幼稚園児の落書きより下手なのか?
──これのどこを見て、「今日は調子が良くて」なんて笑顔で言えたのか?
一丁前に陰影をつけているところが、逆に腹立たしかった。
「へ、へぇ~今日も描いたんだ、姉さん。なんというか、頑張って色を塗ってすごいよ」
「こらこら、なんで小さい子供がお絵描きしたときみたいな反応してるの? もっと褒めるポイントないの?」
「えっ! や、やだな~姉さん。もちろんあるに決まってるじゃないか!
いろんな色鉛筆を使ってるところとか、大きく描いてるところとか、本当にすごいよ!」
「もう〜! それも小さい子供を相手にしたときの反応だよ、晴希!
この芸術作品の良さが理解できないなんて、あなたもまだまだ子供ね」
姉はぷいとそっぽを向く。
少しむくれた顔が子供っぽかったけれど、火に油を注ぐ発言になりかねないので、僕は黙っておくことにした。
それからお見舞いのプリンを食べながら、近況や思い出話を色々と語り合った。
職場の先輩の結婚式で余興のダンスをやること。
絵画コンクールに片っ端から応募しようと思っていること。
もうすぐ父が亡くなってから10年が経つこと。
初めて2人で正月を過ごした時のこと……。
気づいたら夕陽はいつ間にか沈んでいて、窓の外は真っ暗になっていた。
「じゃあ、そろそろ帰ろうかな。あんまり長居すると、病院の人に叱られるし。また仕事が早く終わった時に来るよ」
「いつもありがとう、晴希。……でも、本当に色々と無理しなくていいからね」
「何を言ってるんだい、姉さん。僕はむしろ会いにいくのを楽しみにしてるんだよ」
「ごめんなさい、突然こんなこと言って。でも、あなたにこれ以上負担をかけ続けるのが苦しいの。
──まだ16歳なのに、私の医療費を一人で払い続けるの大変でしょ?」
姉は声を震わせて、堰を切ったように泣き始める。
希少難治性疾患に見舞われてから、もうすぐ一年。
特効薬の開発はいまだ実現せず、症状の進行を抑える先進医療を辛抱強く受け続けるしかなかった。
父は交通事故で亡くなり、再婚した母は家庭内暴力に悩んだ末に自殺したらしいことを姉から聞いている。
どちらの祖父母もすでに他界しており、頼れる大人は誰もいなかった。
「別に大変じゃないよ。保険で意外と安くなるからね」
「誤魔化さないで。保険で抑えても、安い金額じゃないでしょ? あなたを働かせておいて、大変じゃないわけがない」
「それだったら、姉さんだって、僕と暮らすために、同じ歳の頃には働いてたじゃないか」
「私はいいの。勉強は得意じゃなかったし、やりたいことなんて何もなかったから。
でも、晴希は違う。本当はサッカー続けたかったでしょ? せっかく推薦が来てたのに、私のせいであなたの夢を潰しちゃった」
全国大会の切符をかけた試合の延長戦、DF3人をドリブルで抜き去り、決勝点となるゴールを決めたときの記憶が蘇る。
世界がひっくり返ったような大歓声と、運命の扉を蹴り飛ばしたような快感。
この足で蹴り飛ばした扉の先に、青いユニフォームを着ている未来の自分の背中が一瞬だけ見えた。
まさか都内のクラブチームから特待生でスカウトされた1ヶ月後に、姉が希少難治性疾患にかかるなんて思いもしなかった。
──2人で逃げるよ、晴希! こんな家に暮らしてたら、あの男に殺されちゃう!
──逃げるってどこに行くの、姉さん? 母さんは一緒に行かないの?
──ここから遠くて安全なところ! 母さんは置いてくよ! ……あの人は私たちより恋人が大事だからね。
──で、でも、僕たち子供だよ。2人で生きてけるかな?
──大丈夫! 頑張って生きてたら、いつか絶対にいいことが訪れるから。亡くなったお父さんがよく言ってたし、これだけは間違いないよ。
けれども、姉が7年前の雨の日に連れ出してくれなければ、きっと僕は母の恋人だった男に殴り殺されていた。
中学校の制服を着ることもなかったし、部活でサッカーを始めることもなかったし、緊張する試合で活躍できた喜びを知ることもなかった。
それに、周りよりもサッカーが上手くなったのは、姉が親の代わりに支えてくれる姿を見て、プロサッカー選手で稼いで楽させたいと思ったからだ。
全国大会の切符をつかんだ日、何よりも一番嬉しかったのは、観客席にいた姉が泣いていたことだった。
だから、病気になった姉の医療費を稼ぐために、中学を卒業すると同時に就職することは、僕にとって当然の選択だった。
育ててくれた感謝の気持ちしかないし、迷惑とか負担に思ったことはない。
でも、姉に本音を伝えたところで、彼女は弟の人生を奪った責任を感じるだろう。
重い病気になったことは、姉のせいではないのに。
僕は姉にハンカチを差し出して、優しく微笑みかけた。
「姉さん、実は僕ね、秘密にしてたことがあるんだ。正式に契約を結んだら言おうと思ってたんだけどね」
「……秘密に、してたこと?」
「先週に入団を断ったクラブチームのスカウトさんから電話があってね。『うちのクラブが君の3年間でかかる費用すべてを全額負担する代わりに、もう一度サッカーをやらないか?』って提案されたんだ。上の人にかけ合って、それくらいの投資は必要だって考え直してもらったって」
「それって、つまり──」
「うん、サッカーも続けられるようになったし、姉さんの医療費の心配はいらなくなったってこと。まあ、高校を卒業するまでに、プロ入りできるようにならないといけないんだけどね」
姉は言葉を失って、泣き止んだ目をパチパチと瞬かせる。
薄い唇が震えると、新しい涙がハンカチで拭った目元をすうっと流れた。
人間は悲しく泣くときよりも、嬉しくて泣くときの方が、涙は一回り大きいらしい。
まるで彼女自身の病気が治る見通しが立ったかのような、深く安堵した表情を浮かべていた。
「……よかった。やっぱり頑張って生きてたら、いつか絶対にいいことが訪れるんだね」
姉はハンカチを目元に当て、しみじみとした口調で言った。
赤くなった目元をハンカチで拭っても拭っても、溢れる涙が止まらない。
僕は姉の涙が収まるまで、彼女の肩に手を乗せていた。
「じゃあ、今度こそ帰るよ」
「ごめんね、遅くなって」
「いいよ、全然。また明後日くらいに来るね」
僕は手を振って、姉の病室を後にした。
薄暗い廊下を歩いて、エレベーターに乗って、1階のボタンを押す。
遠くに見える学校のグラウンドは誰もおらず、ナイターの明かりに寂しげに照らされていた。
ガラス越しに映る自分の顔を見つめる。
多くの人たちは嘘をつくとき、相手に信じてもらえるように、『リアリティのある嘘』をつく。
でも、実はそれはいい方法ではない。
なぜなら、その嘘に小さな綻びがあると、親しい人や勘のいい人に見抜かれるからだ。
だからこそ、本当に相手を騙したいときは、『リアリティがやや欠けている嘘』をつく方が良い。
あたかも嘘だと思えることを堂々と言葉にすれば、「嘘っぽいことを言うわけがないか」と錯覚させることができる。
断ったクラブチームに改めてスカウトされて、姉の医療費などを全額肩代わりしてくれる話は、まるっきりの「嘘」だった。
エレベーターは1階に到着して、僕は受付で面会許可証を返した。
病院を出て、スマートフォンの電源を入れると、不在着信の通知が一件表示される。
──現実的な問題として、16歳の僕が真面目に働いて稼いだお金では、今の姉の医療費に全然届かない。
──そして先端医療を受けられなければ、姉の症状の進行を止められない。
──いつか特効薬が開発される日まで、姉を死なせないために大金を毎月稼ぐ必要がある。
僕は電話のアプリを起動して、着信履歴からかけ直した。
「こんばんは、晴希さん。折り返しのお電話ありがとうございます。お姉様のご体調はいかがですか?」
「挨拶はいい。仕事の内容と報酬の金額だけ話してくれ」
「かしこまりました。今回は明日に指定された場所へ『野菜の配達』をお願いします。即日即金で20万円でどうでしょう?」
「わかった。引き受けるよ。詳細は1時間後、いつもの見晴らしのいい公園でいいか?」
「ありがとうございます。それでは後ほどお会いしましょう」
僕は電話を切って、指示役との着信履歴と通話履歴を削除した。
今のところ指示役から一定の信頼を得ているため、使い捨て人材のような雑な段取りを丸投げされるようなことはない。
だが、いつ何が起こるのかはわからないので、どんなときも油断は大敵だ。
裏切られている可能性、警察にマークされている可能性、万が一に備えて最悪のケースを一つずつ考えながら歩く。
NPC「黒崎晴希」。
16歳、最終学歴:中卒。
難病の姉の医療費を稼ぐために、闇バイトに手を染めた犯罪者。
レキトたちと遊戯革命党の決戦にて、彼が全世界のNPCの命運を大きく左右することを、この世界のプレイヤーたちも、彼自身もまだ知らない。




