85話 決戦前夜と恵まれた地獄(後編)
「早く立ちなよ、成郎っち。あんたの弱点は『心の弱さ』。覚悟を決めて変わらなきゃいけないのは、あんた自身がよくわかってるでしょ?」
特殊防衛組織『アント』管轄のセーフハウスの訓練施設、地下格闘闘技場。
涙袋が際立つ目の七海はしゃがんで、膝に肘を乗せて頬杖をついていた。
冷ややかな表情の彼女の手にはスマートフォンが握られて、アプリ兵器《対ヒューテック用ブレイド》が起動されている。
眩しく放電している2メートルの刀身は、地面に広がったシアン色の血だまりを照らしている。
喉を切り裂かれた伊勢海は呼吸できず、横向きに倒れたまま起き上がれなかった。
「……がはっ!」
切り裂かれた喉から溢れるシアン色の血が固まり、真っ二つにちぎれた血管がつながるのを感じる。
どんなダメージでも瞬時に再生して回復するギア、《太陽を克服した吸血鬼》の不死身の力。
固まった血がかさぶたのように剥がれ落ちると、伊勢海の喉は傷ひとつなく再生していた。
対ヒューテック用ブレイドで斬られた痛みも消えている。
遊戯革命党との決戦まで、あと1日。
伊勢海は七海にお願いして、10日前から秘密の特訓に付き合ってもらっていた。
《太陽を克服した吸血鬼》を使いこなせるようになれば、遊戯革命党との戦力差は大きく埋められる。
いつまでも弱い自分のままでいたくない。
伊勢海は歯を食いしばって、倒れたアバターを起こそうとした。
「遅いよ。最低でも傷が治ってる途中で立たないと。敵は回復が終わるまで待ってくれないって」
──《恋する双子座と痺れる三角関係》。
七海は電源ボタンを押して、対ヒューテック用ブレイドを解除する。
そして、両手で横向きにスマートフォンを構えると、六等星のような微かな光が七海の両肩の上に2つ現れた。
《恋する双子座と痺れる三角関係》は、高密度に電気エネルギーを凝縮した光の玉を自由自在に操れるギア。
七海は両手の親指をスマホ画面に滑らせて、小さな光の2つの玉を一列にして飛ばした。
回避は──間に合わない!
先頭の光の玉が伊勢海の眉間に直撃した。
強力な電流が頭からつま先まで駆け巡る。
神経をズタズタに引き裂くような痛みに、思わず伊勢海は絶叫した。
──なんで《恋する双子座と痺れる三角関係》の光の玉って1個じゃなくて2個あるか知ってる?
──答えは「人間の急所」を潰すためだよ。
悪い顔をした七海の言葉が頭をよぎった瞬間、後に続いていた光の玉が絶叫で開いた伊勢海の口に飛び込んだ。
一気に喉の奥へ入り込み、気管を通り抜けていく。
体内に侵入した光の玉は、肺に衝突して炸裂した。
「うああああああああ!!」
激しい火花で視界が点滅する中、全身を灼きつくすような激痛が襲いかかる。
裂けた皮膚から電気が迸り、シアン色の血が噴き出した。
焦げた臭いの煙が喉から漏れた直後、伊勢海は大量の血と肺らしき肉片を吐き出す。
意識が遠のいていき、指先から力が抜けていく。
だが、頭の中で駆け巡り始めた走馬灯がピタッと止まった。
傷口から流れていたシアン色の血は固まり、破裂した肺や裂けた皮膚が再生していく。
──立て。
──死ぬ気で立て。
──絶対に死なないんだから、死に物狂いで立ち上がれ!
10日前の記憶が蘇り、この場所で戦っていたプレイヤーの姿が鮮明に浮かび上がる。
遊戯革命党の計画を止めるために『アント』に新しく加わったプレイヤー「遊津暦斗」。
賢そうな眼鏡の似合う彼は七海との模擬戦で完敗して、プレイヤーとして致命的な弱点を突きつけられた。
頑張って進んできた先に、越えられない壁が立ちはだかっていることほど、心が折れることはない。
伊勢海には他人事に思えず、レキトに同情せずにはいられなかった。
しかし、レキトは楽しそうに笑った。
まるでRPGで変わったギミックの攻略し甲斐のあるボスと出会ったかのように。
そして、七海に再戦をすぐ申し込み、面白い発想の転換で致命的な弱点を克服してみせた。
もしかして「越えられない壁」というのは、「心の錯覚」なのかもしれない。
「絶対に無理だ」と思ったことを乗り越えたレキトを見ていると、自分にもできそうな気がしてきた。
伊勢海は拳を握りしめて、倒れたアバターをもう一度起こした。
治りかけの傷が開く痛みを我慢して、無理やり立ち上がった。
真っ黒なロング丈のコートのポケットに手を突っ込み、アントから支給されたスマートフォンを手に取る。
だが、伊勢海がアプリ兵器を起動しようとした瞬間、過去の対戦で受けたダメージが一気にフラッシュバックした。
頭を叩き割られた痛み、眼球を潰された痛み、背骨が折れる痛み、全身の皮膚が焼き焦げる痛み、心臓をレーザー光線で貫かれた痛み、上半身と下半身が切り裂かれる痛み……。
完璧な記憶力に恵まれたせいで、当時のことが今まさに体験しているように蘇る。
激しい動悸が胸を襲い、呼吸ができなくなって、視界が真っ暗になっていく。
伊勢海は頭が真っ白になり、傷ひとつないアバターで座り込むことしかできなくなった。
「……限界みたいだね。十分よく頑張ったよ、成郎っち。回復してる途中で立つことができてたし。明日の決戦に備えて、今日はもう休もっか!」
七海は労いの言葉をかけて、伊勢海の肩を励ますように叩く。
涙袋が際立つ目は優しく、温かい笑みを浮かべていた。
10日間の特訓を物にできなかった伊勢海を、傷つけないように気遣っている。
こんな戦力に数えられない状態で、遊戯革命党との対決に臨んでいいわけがなかった。
だが、伊勢海は七海を引き止めて、特訓の続きを頼めなかった。
己の弱さを克服したい覚悟より、痛みを思い出すことの恐怖が勝っていた。
「じゃあ汗かいたから、私シャワー浴びてくるね」と七海はTシャツの緩い胸元をつまんで煽ぎ、伊勢海が一人になれるように去っていく。
一人になりたい気持ちだったけれど、いざ本当に一人ぼっちになってしまうと、世界から取り残されたような孤独感に襲われた。
「……なんで僕は変われないんだよ」
消えそうな声で独り言が漏れたとき、伊勢海は目が潤むのを感じる。
泣いても何も変わらないことはわかっているのに、伊勢海は涙を我慢することすらできなかった。
プレイヤーとして敵と戦う──。
このゲームで当たり前の行為すらできない自分が、情けなくて、死にたかった。
──『Fake Earth』は他のプレイヤーのコイン1枚が手に入れば、《ガチャストア》という専用アプリでギア1個と交換できるゲーム。
──いっそのこと自らゲームオーバーになって強化素材になった方が、みんなの役に立つかもしれない。
「──《太陽を克服した吸血鬼》、解除」
伊勢海は不死身のギアを解除した。
そして、アントから支給されたスマートフォンを両手で構え、端末上部のイヤホンジャックを胸に押し当てた。
対ヒューテック用ブレイドを起動して、心臓を貫く場面を想像する。
けれども、握りしめた手の震えが止まらなくて、自殺に踏み切ることすらできなかった。
「……何をしてるの?」
後ろから何の前触れもなく問いかけられる。
驚いた伊勢海は指をビクッと動かし、対ヒューテック用ブレイドのアイコンを誤ってタップしてしまった。
光ったイヤホンジャックが泡立つように放電し始めた瞬間、慌ててスマートフォンを放り出し、中から飛び出した電気の刀身をギリギリで避ける。
「し、死ぬかと思った」と内心びくつきながら、伊勢海は声のした方向を振り返る。
綺麗な銀髪をポニーテールに束ねた、無機質なほど整った顔立ちの女性プレイヤー。
普段から何を考えているのがよくわからない美人、須原杏珠が真顔で見つめていた。
「きゅ、急に声をかけないでくれ。危うく事故を起こすところだっただろ」
「ごめんなさい。……それで、何をしてたの?」
「うっ! そ、それは、あ、アレだ。ほら、瞑想さ。戦った後に荒ぶった心を鎮めるのに必要でね」
「……成郎君、嘘はよくない。本当のことをちゃんと話して」
杏珠はきっぱりと言った。
彼女はいつも思ったことをストレートに伝えて、優しい嘘や建前で言葉を飾ることはない。
美人が無言で待つ顔には、有無を言わせない迫力がある。
伊勢海は観念して、正直に打ち明けることにした。
「ふっ、自分の人生を終わらせようとしていただけだよ。遊戯革命党の計画を必ず止めなきゃいけないのに、僕は何の役にも立てないプレイヤーだからね。弱い自分から頑張って変わろうとしたけど、残念ながら変われなかった。
このまま生きている価値なんてない。だから、この命をコインに変えて、みんなのギアとして貢献しようと思ったんだ」
伊勢海は格好つけて、死ぬことを恐れていないキャラクターを演じる。
いつもと違う自分を演じることで、本音が話しやすくなったような気がした。
杏珠はどんな反応をするだろうか?
「どんな人にも生きている価値はある」なんて耳触りのいい言葉をくれるだろうか?
いや、「たしかに合理的」とあっさり同意するのが、彼女らしいだろう。
「何を言ってるの? 遊戯革命党を止めるのに、あなたは十分に貢献してる。もし新しいギアを手に入れるために、誰かをコインに変えるなら、私がそうなるべき」
だが、杏珠は無表情のまま、伊勢海の考えを真っ向から否定した。
「僕が貢献してるわけないだろ。いつも戦おうとするたび、今まで受けたダメージの記憶がフラッシュバックして、何もできなくなるんだぞ。最強のギアを持ってるのに、使いこなせない役立たずなんだ」
「それは違う。本当のあなたは強い。自覚できてないだけ」
「これ以上みじめな気分にさせないでくれ。何を根拠にそんなこと──」
「私がゲームオーバーになりそうなとき、あなたは体を張って助けてくれた。それが根拠。1年以上前のことでも、あなたは細部まで覚えてるでしょう?」
真っ赤なランタンに照らされた夜の横浜中華街、数えきれないほどのNPCの死体が転がっていた光景が蘇る。
伊勢海がアントに加入してから13日目、まだ杏珠がソロプレイで活動していた頃。
NPCの中に潜むプレイヤーからコインを奪う目的で見境なく大量殺人を起こすギルドが現れたため、殲滅部隊として七海やNPCの隊員とともに無理やり駆り出された。
杏珠が仲間になった後で聞いた話によれば、当時彼女は下宿先の中華料理店の家族を守ろうと戦っていたが、その一家の娘を人質に取られて手も足も出せなくなったらしい。
敵プレイヤーに路地裏で痛めつけられ、火炎玉のギアでとどめを刺されようとした瞬間、横から割って入った伊勢海が身を挺して受け止める──。
生きたまま火葬されるような痛みとともに、杏珠と出会ったときの記憶ははっきりと覚えていた。
だが、あのとき伊勢海は、杏珠を助けようとしたわけではなかった。
いつもどおり戦うのが怖くなって、敵プレイヤーたちが暴れている大通りから路地裏へ我を忘れて逃げていたところ、運悪く火炎玉のギアの射線に入っただけだった。
いざというとき誰かを助けるために戦える、勇敢な心なんて持ち合わせていない。
本当の自分は現実世界にいた頃から変わっていない、ずっと逃げてばかりのダメ人間だった。
「誤解だよ。僕は杏珠の思っているような人じゃない。あのとき君を助けたときだって、本当は助けようと思ったわけじゃなくて」
「知ってる。あなたが別の戦いから逃げてきて、たまたま私への攻撃に当たっただけってことは」
「じゃあ、どうして本当の僕は強いなんて?」
「私は覚えてるから。あなたがその後に言ったこと。──あの言葉は誤解でも何でもないでしょう?」
──逃げ……ろ。……僕は……弱いんだから……早く……してくれ。……君は……死んだら……人生終わり……なんだぞ。
青い炎に全身を焼かれながら、満身創痍の杏珠にかけた言葉を思い出す。
窮地に陥ったヒロインを颯爽と助ける主人公とは程遠い、自分でも呆れるほど情けない言葉だった。
結局、人質にされたNPCの女の子を救い、杏珠を窮地から助けたのは、後からやってきた七海だった。
伊勢海は火炎玉のギアを食らっただけで、敵プレイヤーにかすり傷一つ負わせることもできなかった。
──あんな格好悪い言葉、どこをどう解釈したら好意的に思えるんだ?
伊勢海は反論しようとしたが、喉から出かかった言葉を呑み込む。
杏珠の澄んだ眼差しにまっすぐ見つめられ、何も言うことができなかった。
「きっと成郎君は今こう考えてる。『なんて情けないことを言ったんだ』って。たしかに初めから勝つことを諦めて、弱気な発言をするのは格好悪いのかもしれない。敵を一撃で倒せるヒーローの方が見栄えはいいのかもしれない」
──でも、弱くて情けないと思っているあなたは、あのとき見ず知らずの私を自分より先に逃がそうとした。
杏珠は淡々とした口調で言った。
「成郎君、あなたは本当に困ってる人を見捨てられない優しさがある。そして、弱いことを自覚しながら、死ぬほど痛い思いをしても、他人を救うために逃げない強さがある。
だから、もしも明日の戦いで心が挫けそうなとき、今から言うことを必ず思い出して。
──あなたは変わる必要なんてない。弱さの中に眠ってる強さがある。あなたはあなたが思っている以上に、格好いいプレイヤーだということを忘れないで」
杏珠は無表情のまま語り終える。
けれども、彼女の澄んだ眼差しは、変わらず伊勢海を見据えていた。
2人の間に沈黙が訪れる。
世界で2人きりになったような静けさだった。
伊勢海は心がさざめくのを感じる。
正直な感想を言えば、「杏珠の買い被りすぎだ」と思った。
もし同じようなシチュエーションに出くわしたとき、自分より他人を優先できるとは断言できなかった。
ましてや遊戯革命党のプレイヤーとの戦いで、尻尾を巻いて逃げない自信はもっとない。
けれども、杏珠が言葉を尽くして、勇気づけてくれたのは、素直に嬉しかった。
嘘をつかない彼女だからこそ、偽りのない本音は心に強くまっすぐに響いた。
魂に芯がすうっと通ったような、不思議な活力が湧いてくる。
もしも明日のNPCの命運を決める戦いで、過去にダメージを受けた記憶が一気にフラッシュバックしても、心が折れずに戦えそうな気がした。
「わかった。覚えておくよ。ありがとう、杏珠」
「お礼を言われるようなことはしてない。今ここで成郎君にゲームオーバーになられたら困る。
明日の遊戯革命党との決戦で、あなたには『大事な役目』をお願いしたいから」
「……大事な役目? なんだそれは?」
「私と同じ監視役。『アント』に協力する私たち6人のプレイヤーの中で、実はスパイかもしれない人がいる。
明日の戦いはいつ誰がゲームオーバーになってもおかしくない。だから、私に万が一があったときに備えて、あなたにもその人に目を光らせてほしい」
杏珠は人差し指を唇に当てて、いつもより声をひそめた。
驚いた伊勢海は周りを見回して、誰も近くにいないことを確認する。
「スパイ⁉︎ 遊戯革命党のプレイヤーがいるってことか? だとしたら、七海たちにも教えた方がいいんじゃないのか?」
「遊戯革命党の味方かどうかはわからない。それと他の人に共有するのはダメ。何人も警戒すると、勘づかれるリスクがある」
「じゃあ、なんで僕にそのことを」
「あなたが一番信頼できる人だから。それに、《太陽を克服した吸血鬼》で誰よりも生き残る可能性も高い」
杏珠は事実を告げるように言った。
彼女が「一番信頼できる人」と言い切ったことに、伊勢海は口元が緩まないように気をつける。
「わかった。2人だけの秘密にさせてもらうよ。それで、スパイかもしれない人は誰なんだ?」
「その人は──」
杏珠ははっきりとした口調で、スパイの疑いのあるプレイヤーの名前を口にした。




