79話 葬り去られた援軍(第二楽章)
30歳を過ぎて衰えゆく肉体を若返らせて、かつて自分が打ち立てた世界最高得点を超える演技を披露したい。
勇作が『Fake Earth』に挑んだのは、どんな願いでも叶えられるアーカイブ社のブラックカードを手にし、競技人生にフィギュアスケート選手として舞い戻るためだった。
生まれてこの方ゲームで遊んだことは指で数えるほどしかないが、世界の頂点に立った自負がある。
SP・FSともに、歴代最高得点を獲った実績がある。
そして、4年に一度の大舞台を制する勝負強さがある。
他のプレイヤーが異なる分野で秀でた者たちだとしても、いい引き立て役だとしか思わなかった。
だから、勇作は『Fake Earth』に転送されたとき、操作するアバターが現実の自分より倍以上歳を取った「老人の男性」であることに絶望した。
咄嗟に瞬発的な動きはできず、100メートルを駆け抜ける体力がなく、視力も聴力も十分に機能していない。
対戦ゲームなのに、初心者なのに、負ければコンテニューできないのに、戦いに向いていないアバターを割り当てられた。
ログインボーナスで手に入れたギアも、《唯一人の読者のための新聞》──ゲーム内で起きた出来事を知れるだけで、戦いに役立つ武器にはならなかった。
この偽物の世界でのプレイヤー人生は、悲惨なものだった。
初めて対戦したとき、頭でイメージした動きに体が追いつかず、派手に転んだところを狙われて、利き腕を対プレイヤー用ナイフで斬り落とされた。
なんとか逃げ切って病院で一命を取り留めたものの、左手一本では箸でご飯を食べることもできず、服を脱ぎ着することにすら苦戦した。
選ばれた人間としてゲームに参加したはずなのに、普通の生活を送ることさえままならない。
こんな老いぼれた上に欠損したアバターで、誰も倒せていないゲームマスターを倒すことはもちろん、敵プレイヤーからコインを奪えるはずがなかった。
ゲーム攻略を諦めて、余生を過ごすようなスローライフを送る。
『Fake Earth』には人生を賭ける覚悟で臨んだのに、そこまでして叶えたい夢はあっさり捨てることができた。
「夢を追う」という選択は、「毎日安全に生存できる」という前提の上に成り立っている。
明日生きられるかどうかもわからない世界で、今日を生きられることの幸せを噛み締めるだけで十分だった。
──最初にハズレのアバターを引いただけで、プレイヤーとしての人生は詰む。
──現実世界で金メダルを獲れたのは、「幼い頃から必死に努力したおかげだ」と思っていたが、本当は「競技に打ち込める環境に生まれた」という幸運に恵まれたからかもしれない。
そして、『Fake Earth』をプレイしてから6ヶ月後。
勇作が敵プレイヤーにコインを奪われそうになったところ、今は亡き「徳さん」こと志村徳三に助けられた。
徳三は勇作と同じ老人アバターで、すでに彼の仲間だった源一と辰兵衛も、かつて絶体絶命のピンチを救われたという。
それ以来、みんなで互助会のように助け合い、老後のような毎日を10年近く送っていた。
【犬塚忠臣、遊戯革命党に合流──新人イベント最多撃破王】
『遊戯革命党に、本日、新たなプレイヤー「犬塚忠臣」が仲間として加わる。
犬塚はログインボーナスで《闘争を求める羅針盤》(周辺にいるプレイヤーの方角を示すギア)を獲得。
先日行われた「山手線バトルロイヤル」では優勝争いには関わらなかったものの、優勝者・綾瀬良樹を上回る最多撃破数を記録した。
遊戯革命党によるNPC機能停止計画の実現まで、残り8日。
この戦力増強がNPC機能停止計画にどう作用するのか、今後の動向が注目される』
勇作は老眼鏡をかけて、《唯一人の読者のための新聞》の一面の記事を読み通す。
記事の横には、犬塚の顔写真が大きく掲載されていた。
銀髪のショートヘアで、柄の悪そうな目つきをして、黒いレザーチョーカーを首に巻いた姿は、強者の非凡さを感じさせるような雰囲気を漂わせている。
事実として、捜索系のギアでプレイヤーを先に見つけられるのは、対人戦では確かに優位に立てるが、『Fake Earth』はそれだけで簡単に勝てるほど甘くない。
少数精鋭の遊戯革命党が加入を許可したのだから、犬塚は相当な手練れであることは間違いないだろう。
「しかし、このまま遊戯革命党の計画が実現したら、俺たちも大変なことになるかもな~」
車椅子の源一は大変さの欠片もない呑気な口調で言いながら、袋を破って出した阿舎利餅を食べた。
「どういうこと、源さん? なんで僕たちも大変なことになるんだい?」
「だって考えてみろよ、辰兵衛。世界中のNPCが機能停止になっちまったら、トラックを動かす人もいなくなっちまうだろ? 誰も通販で頼んだ物を届けてくれねえじゃねえか」
「なるほど。たしかにNPCがいなくなったら、交通網は麻痺しちゃうね。じゃあ、遊戯革命党の計画が実行される前に、みんなで旅行に行かない?」
辰兵衛は人差し指をひょいっと立てて、明るい口調で提案した。
「おお、いいね! じゃあ熱海に温泉旅行ってのはどうだ?」
「えぇ〜。最後になりそうだし、海外に行こうよ」
「やめとけ。海外なんて疲れに行くようなもんだろ。旅行なんてどこ行っても、景色は綺麗だし、飯はうまい。だったら、近場が一番に決まってる」
「うわ〜源さん、爺臭い」
「何言ってんだ。現実世界の俺はまだ32歳なんだぞ。本当のお前より若いんだ」
「僕より若いって誕生日が3日遅いだけじゃないか。同級生なのに偉そうにしないでくれよ」
辰兵衛は呆れ顔を作りつつも、楽しそうに口元を綻ばせて言い返す。
この「爺臭い」「本当の俺はお前より若いぞ」「誕生日3日違うだけじゃないか」という掛け合いは、もう8年以上続く鉄板ネタだった。
いつもなら勇作が「若いを通り越して子供だな」とオチをつけるが、今日は口を挟む気になれなかった。
というより、軽いノリに付き合う余裕がなかった。
次に源一と辰兵衛が家に来たときに、大事な話をしようと決めていたからだ。
「あのさ、2人とも、ちょっと相談したいことがあるけどいいか?」
「なんだよ改まって。旅行で行きたいところでもあるのか?」
「気になるね。まあ勇ちゃんの頼みなら何でも聞くよ。この右目に賭けて約束する」
「おいおい、辰兵衛、右目なんて重いもの賭けるなよ。……って、お前、右目がないんだから、それ、約束する気ないだろ!」
源一は冗談っぽく叫び、横に手の甲でツッコミを入れるような動作をする。
こうしてお互いの欠損したパーツに誓い、できもしない約束を口にするのも、3人の間で何年も続いている鉄板ネタだった。
いつもと変わらない陽気な仲間たちの様子に、勇作の胸に「言うべきではないか」と迷いがよぎる。
けれども、隣の家の澄麗がピアノで弾いている『熱情』の音色は、勇作の耳にずっと刺さっていた。
彼女の演奏はフィナーレに差しかかり、激しいテンポがさらに加速し、その旋律は嵐に立ち向かうような力強さを感じさせる。
勇作は意を決して、数日前から考えていたことを言葉にした。
「あのさ、俺たちもアントに協力して、遊戯革命党の計画を止めないか? 遊津たちみたいにさ」
隣の家から流れてきたピアノの演奏が終わり、勇作たち3人の間に沈黙が漂う。
次の瞬間、源一と辰兵衛は同時に噴き出して、腹を抱えて大声で笑い始めた。
2人とも勇作が言ったことを冗談で思っているらしい。
笑いすぎた源一は肩で息をしながら、節くれだった指で目元の涙を拭った。
「傑作だな、勇ちゃん。草生えすぎて草原だぞ」
「ね! こんな面白いボケができるのに、今年のR1に出なかったのが悔やまれるよ。絶対優勝できたのに」
「冗談じゃない。俺は本気で言ってるんだ」
「なんだよ、欲しがりだな。しつこいボケは笑えねえぞ」
「だから違うって、源さん、俺は本気で──」
「いいってそういうのは。先週の新聞読んでたらわかるだろ。……俺たちが加勢したところで、どうにかできる連中じゃねえってことは」
源一は吐き捨てるようにつぶやく。
落ち窪んだ目には諦めの色が浮かんでいた。
隣の家から澄麗が『熱情』の終楽章をもう一度弾く音が響いてくる。
先週の《唯一人の読者のための新聞》の一面を飾った、山手線バトルロイヤルの記事。
勇作たちを最も驚かせたのは、「誰が優勝したのか」ではなく、「イベントに乱入した都内最大規模のギルド《ホムラ組》が壊滅したこと」だった。
《ホムラ組》(構成員53名)は3年間続いていた「東京エリアのギルド群雄割拠時代」を終わらせた覇者であり、国内ではその名を知らないプレイヤーは新人以外ほぼいないほどの勢力を誇っていた。
とくにギルドマスターの鬼塚炎児は「東洋最強のプレイヤー」という異名を持っている。
彼が引き起こした「東京タワー火だるま事件」、「夢の島沈没事件」、さらには関西の古参ギルド《極悪浄土真衆》と抗争した際の「奈良公園シカ絶滅事件」は、いずれもこの世界のマスメディアで連日大々的に報道された。
だから、そんな伝説的な実力を誇る鬼塚のギルドが、遊戯革命党という無名のギルドに滅ぼされたと知ったときは信じられなかった。
しかも、ギルドマスター・暁星明と副ギルドマスター・朝日希羽、たった2人の手によって。
勇作が『Fake Earth』に参加してから約10年。
驚くような事件は山ほどあったが、《ホムラ組》の壊滅以上の衝撃は片手で数えられるほどしかなかった。
「……俺たちが役に立たないかどうかは、実際にやってみないとわからないだろ。遊戯革命党の暁星だって、新人プレイヤーの明智のギアで眠らされて、意外と呆気なく戦闘不能になったじゃないか」
数日前に読んだディズニーランドでの戦いの記事が頭に浮かぶ。
明智と綾瀬の二人がかりで、1回限りの捨て身の作戦とはいえ、《ホムラ組》を潰した暁星を戦闘不能に追い込んだことには、心から驚かされた。
弱い方が知略を巡らせて、はるかに格上の存在を倒す番狂わせを起こす。
実際どんな対戦だったのかは見ていないけれど、文字を追っているだけで胸がスカッとする一戦だった。
「もちろん、どんな勝負にも絶対はない。ましてや、あらゆる不可能を可能にするギアを使った戦いならなおさらだ」
「じゃあ、源さん、それなら俺たちも──」
「やめとけ。勝負に絶対はないが、アントの連中が勝つ可能性は限りなくゼロに近い。遊戯革命党の計画を止めるのは、新人プレイヤーが暁星に勝つよりもよっぽど難しいからな」
その理由は2つある、と源一が指を2本立てる。
「まず遊戯革命党の計画を止めるには、《同類を浮き彫りにする病》を持つ昼神修、《1万時間後に叶う夢》を持つ朝日希羽のどちらかをゲームオーバーにする必要がある。つまり、アントは『遊戯革命党の拠点に攻め込まなければいけない』ってことだ。この意味がどういうことかわかるか?」
「俺がわかるわけないだろ、源さん。教えてくれ」
「遊戯革命党が迎撃態勢を整えてるところに攻め込まなければいけないってことだよ、勇ちゃん。暁星たちがどれだけ自分たちに有利なステージを用意しようと、どれほど罠を仕掛けていようと、アントは踏み込なければいけない。
おまけに、遊戯革命党には、全世界NPC機能停止計画を考案した『悪魔的な発想を持つブレイン』がいる。厄介な策を用意してることは間違いない。守りを固めてる城を無理に攻めるようなものだ」
「どっかの兵法だと、攻撃側が防御側に勝つには3倍の兵力が必要で、城攻めだと10倍以上は必要だって言われてるしね。遊戯革命党のプレイヤーは新メンバーの犬塚が加わって8人。アントに協力してるプレイヤーが、遊津・綾瀬・明智を入れて6人。もし僕らが加勢したところで戦力不足か」
辰兵衛は思案げにあごをなでた。
「いやいや、アントにはNPCの隊員がいるだろう。新聞を読んでるかぎり、50名は期待できるはずだ」
「遊戯革命党はNPCに効くウイルスのギアを持っているのに、戦力として期待できるのか? そもそも、NPCがアプリ兵器みたいな紛い物を使ったところで、プレイヤーと比較して戦力として落ちる。甘く見積もって、NPC5人で新人プレイヤー1人分くらいにしかならない」
──まあ人数の問題を抜きにしても、遊戯革命党の圧倒的な優位は変わりないんだが。
源一は昆布茶を口に運び、ふぅっと一息つく。
「で、2つ目の理由は、『プレイヤーとしての能力の差』だ。遊戯革命党のプレイヤーは、全員がギアを少なくとも7つ持ってる。これはゲームクリアに必要なコインを集めた実力があるってことだ。鬼塚のギルドを壊滅させたときにコインもある程度回収してるだろうし、新メンバーの犬塚も同じくらいのギアを増やすことになるだろう。対して、アントのプレイヤーのギア所持数は、平均で3個しかない。ギアの保有数の差は倍以上あるってわけだ」
「たしかにプレイヤーにとってギアは兵器。火縄銃が武田騎馬隊を打ち破ったように、航空機が戦艦を簡単に沈めたように、それ1つで常識・戦況を大きく左右するもんね。軍備でも劣ってるのに攻め込むのは、自殺しに行くようなものか」
辰兵衛はあっけらかんとした口調で言い、一口で阿闍梨餅をぱくっと平らげた。
「ちょっと待て。なんで源さん、遊戯革命党の連中がギアを持ってる数なんて把握してるんだ? 《唯一人の読者のための新聞》に載ってたか?」
「俺を見くびるなよ。新聞を読んだだけで満足するジャーナリストがどこにいる。これは独自に調べたんだよ。情報は自分で掘り下げてなんぼだろ」
源一は誇らしげに腕を叩く。
冗談をよく口にするが、嘘はつかない人であることは、長い付き合いで知っていた。
──しがらみに縛られない報道機関を作りたかったんだ。ブラックカードがあれば、少なくとも金銭的なことは考えなくていいだろう?
何年か前に3人で熱海に旅行へ行ったとき、酔っ払った源一がぽろっとこぼした言葉を思い出す。
「らしくないことを考えるのはやめようぜ、勇ちゃん。全世界のNPC機能停止の計画が実現したところで、俺たちが死ぬことはない。まあ、生活は今より不便になるだろうけど、ゲームオーバーになるよりはマシだ。人生は生きててこそだろう?」
「でも、源さん」
「でも、じゃない。そもそも、俺たちプレイヤーからしたら、NPCなんて滅んでくれた方がいいじゃねえか。……徳さんのこと、忘れてないだろう?」
──お前さん、大丈夫か。今、怪我を治してやるから、もう少しだけ痛いの我慢しててくれ。
渋みを含んだ優しい声が、記憶の奥から蘇る。
9年前、突然バトルアラートが鳴り、男子学生プレイヤーに3人がかりで弄ばれるように痛めつけられ、地面に倒れていたとき──。
目の前が真っ暗になり、意識が遠のく中で、勇作は誰かの気遣うような声を耳にした。
対プレイヤー用レーザーで撃たれた腹部に、温かい光がじんわりと染み込んでいき、痛みが和らいでいくのを感じる。
忘れもしない徳三との出会い。
勇作が目を開けると、補聴器をつけた年老いた男性が回復系のギアで傷を治してくれていた。
「おっ、意識はあるようだな。敵さんは追い払ったから、もう大丈夫だ。あとはゲームオーバーにならないように、気をしっかり持っててくれよ」
徳三は年季の入った手でスマートフォンを構えたまま、安堵したような笑みを浮かべる。
真っ白な光線が端末上部のイヤホンジャックから放たれており、照らされた勇作の腹部の傷は塞がれていった。
おそらく勇作を襲っていたプレイヤーを追い払うために、壮絶な戦闘になったのだろう。
徳三の顔はシアン色の血で汚れていて、レーザー光線で撃たれたせいか、左耳はちぎれかけていた。
「……なんで……俺を……助ける……んだ……?」
勇作は息絶え絶えになりながら、徳三に問いかけた。
『Fake Earth』はプレイヤー同士でコインを奪い合う過酷なゲーム。
1枚集めれば新しいギアが手に入り、7枚集めれば賞金10億円。
ならば、瀕死の勇作からコインを奪うのが当然のはずだった。
それなのに、徳三はとどめを刺すどころか、自らの傷よりも勇作の治療を優先した。
本来なら敵である自分に、そこまでしてくれる理由がわからなかった。
「別にたいした理由じゃないさ。最近、世の中って不幸を撒き散らす人が増えてるだろう? 無差別殺傷テロとか闇バイトとか。罪のない人が悪意に晒されて、そういう凶悪事件が社会を冷たく暗くして、それがまた犯罪に走る人を増やしている。このまま負のサイクルを見過ごせば、いつかもっと大変なことが起きるかもしれない」
だから、僕は逆のことをしようと思ったんだよ。
徳三は芯の通った口調で言った。
「だから、理不尽な目に遭ってる人がいたら、僕はそいつが誰であろうと助ける。世の中には、誰かを理由もなく傷つける人がいる一方で、理屈抜きで助けてくれる人がいるってことを知ってもらうために。そうして助けられた人が、今度は別の人に手を差し出すようになって──そうやって社会が温かく明るくなっていけば、いつか巡り巡って自分に返ってくるかもしれないしね。
『Fake Earth』が現実世界を再現してるなら、そういう無条件の優しさも再現すべきだろう?」
徳三は勇作に微笑み、深い皺の刻まれた目を優しく細めた。




