57話 回避したはずのフラグ
うつ伏せに倒れているレキトは言葉に詰まって、暁星に何も言い返すことができなかった。
心臓を親指でガリガリと引っ掻かれるような感覚を覚える。
暁星の言葉は何一つ間違っていない。
「凛子とゲームセンターで遊んだ日常を取り戻すこと」は、「70億体のNPCの日常を奪うこと」を意味する。
そんな当たり前なことは、プレイ前のルール説明を聞いたときから気づいていた。
『Fake Earth』はゲームマスターを倒せば、即時サービス終了することになっている。
ゲーム内のプレイヤーを1体残らず現実世界へ強制転送した後、終わりゆく世界に残されたNPCがどうなるのかは考えるまでもなかった。
それでもレキトは凛子を助けることに迷いはなかった。
この偽物の世界を壊す覚悟はとっくにできていた。
だが、いまレキトは自分の心が動揺していることを感じた。
鋭い剣で刺された傷口から流れる血が冷たくなった気がした。
急に呼吸が苦しくなる。
心臓を親指でガリガリと引っ掻かれるような感覚が強くなる。
──どうしてゲームに参加する前からわかっていた事実に、今更ショックを受けているのか。
ゲーム内で体験した出来事が、頭の中で走馬灯のように駆け巡る。
美桜とクリスマスの飾り付けにお菓子の家を作ったことを思い出した。
真紀と温かい缶コーヒーを飲みながら下校したことを思い出した。
優斗と早朝まで『伝説のスタフィー』のRTA実況をやったことを思い出した。
『Fake Earth』をプレイしてから約30日。
この世界の家族や恋人と過ごした「何気ない日常」は、レキトの中で「かけがえのない思い出」に変わっている。
現実世界の「藤堂頼助」だった頃は、NPCはゲームのキャラクターだと割り切れると思っていた。
けれども、ゲームの「遊津暦斗」として活動している今、NPCはゲームのキャラクターだと割り切れなくなっている。
今この瞬間までレキトは「プレイ後に芽生えた感情」から目を逸らしていたことに気づいた。
「ふぅ、やっと自覚してくれたみたいだね。
じゃあ、『治療』のためにプライバシー侵害で悪いんだけど、君のスマホを借りさせてもらうよ」
両手で謝るポーズを取って、暁星はレキトのスマートフォンを手に取った。
うつ伏せに倒れているレキトの親指にホームボタンを当てて、指紋認証でロックを解除する。
そして真剣な表情でスマホ画面を見つめて、右手の親指でタップやスワイプを繰り返した。
スマートフォンを持ってない左手は、ゆっくり3つ数えるように指を1本ずつ立てていく。
「……暁星……やめろ。
……俺の……スマートフォンに……変なことを……するな」
「すまない、レキト。
俺も気は進まないけど、どうしても君のLINEのトーク履歴を見る必要があるんだ。
親しいNPCが誰かを確認しなきゃいけないからね」
「……どういう……ことだ?
……俺と……親しいNPCを知って………何を……するつもりだ」
「もちろん機能停止だよ。
君がNPCに異常な感情を持っているのは、親しくなったNPCがいたからだ。
逆説的に言えば、親しくなったNPCがいなくなれば、君はNPCのことを正しく認識できるようになる。
病気を治すためには、元から断つことが大事だろう?」
暁星はレキトにスマートフォンを返した。
12月にコートを脱いで寒くなったのか、両手でシャツの袖をこすりながら身震いする。
暁星がLINEのトーク履歴を見て、レキトの親しいNPCに数えた指の数は3本。
美桜、優斗、真紀が頭に浮かぶ。
「……3人に……手を出すな。
……そんなことして……俺の考えが……変わるわけが……ないだろう」
「変わるさ。
どれだけ思い入れが強くても、そのNPCが動かなくなれば、君はNPCに対して愛着を持たなくなる。
ほら、お気に入りのミニカーが壊れたら、別のミニカーで遊ぶ気にはならないし、まったく同じ車種のミニカーを新しくもらっても嬉しくないだろう?
──まあ説明しても納得しないだろうから、ちょうどタイミングもいいことだし、まずは体験してもらうことにするよ」
暁星は意味深な笑みを浮かべた。
笑い皺が目尻に寄せられて、片えくぼが右頬にできる。
ゆっくりと立ち上がり、スマートフォンをつかんだ。
今レキトたちのいる広場に姿を見せたアバターの方に目を向ける。
レキトは自分の目を疑った。
どうして彼女がここにいるのか。
ここだけには戻ってこないように、入場口へ避難するようにLINEを送っていた。
プレイヤーの戦いには巻き込まないように、安全な場所へ遠ざけたはずだった。
「逃げろ」と叫ぼうとしたが、レキトはくぐもった声しか出すことができない。
急いで首を横に振ろうとしたが、思い通りにアバターを動かす力が残っていない。
「──レッくん!」
この世界の恋人の真紀は、青ざめた顔でレキトの元へ駆けつけてきた。




