14.『最近の私は探偵っぽくない』 14-1
午前十時過ぎのことである。
私とメイヤ君はいつも通り、とある『胡同』にある馴染みの屋台でちょっと遅めの朝食、粥を食べてから、事務所への帰路に着いた。少し前を歩くメイヤ君が、「うーん」と両手を空に向けて突き上げ、伸びをする。最近、メイヤ君の体が猫のようなしなやかさを帯びてきた。反らせた背のラインが綺麗だ。美しいと思う。
メイヤ君がくるっとこちらを振り返った。「今日はこれからどうしましょう?」と言う。「これといってやることなんてないよ」と答えようとしたところで、私の口から思わず「あっ」という声が漏れた。メイヤ君の背にヒトがぶつかったのだ。メイヤ君はおっとっとと前につんのめり、踏ん張った。彼女は背後を向く。私も彼女の視線の先に目をやった。紺色のメイド服に白いエプロンをまとった女性が両のひざを地についている。頑丈な我が助手にぶつかったことで、へたり込んでしまったらしい。
「わわっ、大丈夫ですか?」メイヤ君が慌てた様子で女性の前にしゃがんだ。「すみません。急に背を向けてしまいました。不注意でした。ごめんなさい」
「い、いえ。下を向いて歩いていた私が悪いんです」女性は気丈にそう言った。「本当にごめんなさい」
メイヤ君が手を貸し、女性を立たせた。女性の顔立ちは幼い。見たところ二十歳には達していないだろう。目の下にそばかすがある。愛らしい人物だと私は評価した。
腰を上げた女性はメイヤ君に頭を下げ、私とすれ違う格好で先を行こうとする。だが、立ち去ろうとしたのっけから「きゃっ」と小さな悲鳴を上げた。ねずみ色のコンクリートの地面の、そのわずかな突起に靴の爪先を引っかけてつまずいたのだ。前のめりに、どてっと倒れ込んでしまった。こういう言い方はしたくないが、女性はかなり『ドジ』であるようだ。
体を起こした女性の前に回り込み、私は腰を屈めた。
「平気ですか? どこか擦りむいたりしていませんか?」
「だ、だいじょうぶです」
私は右手を差し出した。その手を少々おっかなびっくりといった感じで掴んだ女性である。何せ無垢そうな人物だ。男性に触れることを躊躇したのだろう。私は女性の手を握り、彼女のことを引っ張り上げた。
「お急ぎですか?」
「い、いえ。そうでもないんですけれど」
「きちんと歩けますか?」
「それは、はい。ありがとうございます」
歩き出した女性が「きゃっ」という声とともにまたつまずいた。またへたり込んでしまう。私は再度、女性の前で腰を屈め、改めて「本当に大丈夫ですか?」と声をかけた。すると、彼女はへたり込んだまま、うつむいてしまった。
「本当にダメなんです、私って……」
「そんな。二、三、つまずいただけじゃありませんか」
「いえ。どんくさいんです。自覚しています」
「あまりご自分のことを卑下なさらないほうがいい」
「でも、私……」
「卑下なさらないでください」
女性は手ぶらだ。だから寄るところがあるのだろうと予測し、どこに用事があるのかと私は訊いた。女性は『魚屋』の名前を口にした。それはここいらでいっとう値が張り、その分、品質には絶対の信頼性がある『魚屋』である。紺色のメイド服と白いエプロンから察するに、彼女はどこかの金持ちの家で給仕をしているのだろう。
多少ならず心配だったので、私は女性をその『魚屋』に案内した。立派なマグロの切り身を購入した女性である。紙に包まれ、ビニール袋に入れられた商品を受け取ると、女性は店主に深々と頭を垂れた。それから私にもぺこぺこと頭を下げてきた。
「ありがとうございます、ありがとうございます。ご面倒をおかけしてしまいました。本当に申し訳ありませんでした」
「給仕さんなのですね?」
「はい。それが何か……?」
「いえ。給仕さんを雇うような家であれば、魚くらい、配達させるのではないかと思いましてね」
「いつもはそうなんですけれど、今日はちょっとした手違いがあって」
「それでも、再配達を依頼すれば良かったのでは?」
「そうなんですけれど、私も街にたまたま用事があったので」
「その用事とは?」
「『布屋』さんに寄りたかったんです。パッチワークが趣味なんです。でも、ダメですよね。業務のついでに私用だなんて……」
「ついでに何かをすることは効率的には良いと考えます」
「そうでしょうか?」
「ええ。しかし、今、貴女の手元に布はないようですが」
「あ、はい。『布屋』さんには、これから立ち寄ります」
「だとしたら、順番が逆ですよ」
「逆?」
「そんな大きなマグロを提げて、『布屋』に行くつもりなんですか?」
「あっ……」
そう発すると、給仕姿のその女性は、何故かぺこぺことこちらに頭を下げて見せた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。本当にごめんなさい」
「いえ。そもそも貴女が私に謝る理由なんてありませんよ。マグロを持ったままでも入店を断られるようなことはないでしょう。どうぞ『布屋』に寄って帰られるといい」
「はい、はい。そうします」
女性が向こうへと歩いてゆく。一度振り返ると、またこちらにぺこぺこと頭を下げて見せる。が、前に向き直っての一歩目で、また転びそうになった。足元がなんともおぼつかない、心許ない。
「はあ……」と深いため息をついたメイヤ君である。「お手伝いをして差し上げたほうが良さそうですね」
「彼女の勤め先は、郊外に立ち並ぶ屋敷のいずれかだろう」
「『郊外の丘』のメイドさんというわけですね」
「ああ。あそこらへんは土地持ちの金持ちばかりだからね」
「帰りのタクシーに乗るところまで、面倒を見てきます」
「そうしてあげなさい」




