7-3
木曜日。
夜、メイヤ君と共に、目的地の『飲み屋』に向かっている最中である。
「奥方様は今日この日、木曜日に、旦那様がどこに飲みに行かれるのか知っているわけです。だったらやっぱり、奥方様が『飲み屋』さんを直接訪ねてみればいいだけのことだと思いますけれど」
「それは君の言う通りだよ。だけど、奥方にはそれができない。伝えられた『飲み屋』にいなかったらどうしよう。いなかった場合、どこにいるんだろう。ひょっとしたら誰か女性と会っているんじゃないか。そのあたりのことを考えると怖いんだ。だけど、真相を知りたい。知らずにはいられない」
「そこで探偵のご登場というわけですね」
「そうなるね。メイヤ君」
「はい」
「目的地に着いたら、大きな声を出してほしい」
「わかっています。大声で旦那様の名前を呼べば良いのですね?」
「そういうことだ」
多くの商店、露店が立ち並ぶ、とある『胡同』の『飲み屋』に到着した。大衆的な『立ち飲み屋』である。背の高いテーブルを前にして、客が酒を酌み交わしている。
店の中でコホンとひとつ咳払いをすると、メイヤ君は右手を上げた。「はーい、ちゅうもーく!」と大きな声を発した。「シーピンさんはいらっしゃいますか! シーピンさんです、シーピンさんでーす! いらっしゃいましたら、速やかに挙手してくださーい!」
シーピン氏は店の奥にいた。メイヤ君の呼びかけに応じる格好で、彼はおずおずといった感じで右手を上げた。ずんずん進むメイヤ君である。私も彼女に続いた。
メイヤ君の大声のせいで、店の中は時が止まったように静まり返っている。客はみな、「なんだ、なんだ?」とでも言いたげな顔を寄越してくる。
シーピン氏のもとに至った。テーブルの上には瓶ビールと小さなコップが二つ。酒はそれほど進んでいないようだ。
シーピン氏は立派な体躯をしている。じゃっかん、おなかが出ているのが残念と言えば残念だ。年は大まかに見て、四十代の半ばから後半といったところだろう。
テーブルを挟んでシーピン氏の向かいにいるのは、二十代そこそことおぼしき女性だ。ベージュのワンピースに白いカーディガン。黒い髪は肩まである。
メイヤ君がいきなり、テーブルを両手でバァンと強く叩いた。
「ヒドいです、シーピンさん! 奥方様がいる立場でありながら、こんな若い女性と逢引だなんてっ!」
メイヤ君の勢いに気圧されたのか、シーピン氏は身を引いた。いっぽう、黒髪の若い女性は、「違うんです、違うんです」と言いつつ、慌てた様子で胸の前で両手を振った。
「何が違うんですか!」メイヤ君は尚も噛み付く。「サイテーです、シーピンさん。やっぱり浮気なんですね!」
「い、いや、違う、違うんです」シーピン氏はかぶりを振った。「お嬢さん。そういうことじゃなくて」
「シーピンさん。ここまできたら、潔く白状してください!」
「だから、違うんだよ、お嬢さん」
「ですから、何が違うっていうんですか!」
「メイヤ君」
「なんですか、マオさん!」
「君はちょっと黙っていなさい」
「黙っていられませんっ!」
「いいから、黙っていなさい。シーピンさん。ウチの助手がやかましくて申し訳ありません」
「い、いえ。助手さん、ですか……?」
「はい。私は探偵です。マオといいます」
「探偵さん?」
「はい。探偵です」
「そうか。そうですか……」
「すべてを悟られたようですね」
「はい。私の妻から話を聞かされたんですね?」
「ええ。その通りです」
「妻がこの場を訪れるようなことがあれば、すべて話すつもりでいました」
「告白するつもりだったんですか!」メイヤ君は問い詰めるように言う。「こんな若い女性と浮気をしているだなんてことを、正直に話すつもりだったのですか!」
「だからメイヤ君、君はちょっと黙っていなさい」私は獰猛な助手を制した。「貴方のその口振りからして、どういうことであるのか、ある程度の想像はつきました。その想像が『アタリ』であるかを確かめたい。話していただけますか?」
「はい、その……」シーピン氏は向かいの女性に目をやった。「彼女は私の子でして……」
「へっ?」目を点にして、呆気にとられたような顔をしたメイヤ君である。「お子さん、なんですか?」
「はい……」バツが悪そうな顔をして、シーピン氏は頭を掻いた。「その、えっと、なんというかその、昔、一度のあやまちがありまして……」
「過去に夫がいる女性と関係を持たれた。そういうことですね?」
「そうなんです……」
「ふむ」
「それはそれでヒドい話じゃありませんか!」メイヤ君がまた怒鳴る。「旦那様がいらっしゃる女性との間に子供をもうけるとか、ヒドいじゃありませんか!」
「メイヤ君」
「なんですか!」
「黙りなさい」
「でも!」
「黙りなさい」
「むぅ……」
「シーピンさん」
「はい」
「そちらの女性、すなわち、お子さんと会うのが木曜日の夜だということですね?」
「はい。その……」
「その?」
「彼女の母親、つまり私が関係を持った女性は、二ヵ月ほどまえに亡くなりまして……」
「亡くなる直前に母が打ち明けてくれたんです」と女性は言った。「私の本当の父親は、今の父親とは別のニンゲンだろうって……」
「ふむ。確かに、シーピンさんと貴女は目鼻立ちが非常に良く似ている。だからお母様も、そうではないかと気づかれたわけだ」
「そうなのだと思います」
「娘さん、話の続きをお聞かせください」
「母からアパートの名前を聞かされたんです。ひょっとしたら、父は……シーピンさんはまだそこに住んでいるかもしれない、って」
「そこで直接アパートを訪れてみることにした」
「はい。どうしても一度、会ってみたくて。母が亡くなってから少し経ってアパートを訪ねました。そうしたら、シーピンさんが顔を出してくれて。会った瞬間、わかりました。ああ、このヒトがそうなんだな、って。肌で感じたんです」
「私も彼女から話を聞かされ瞬間、ああ、そうに違ないと直感的に確信しました」シーピン氏は続ける。「彼女が訪ねてきてくれたちょうどそのとき、妻は買い物に出かけていて、不在だったんです。それで、彼女と木曜日にこの酒場で会おうという約束をして、その場は別れました」
「奥方がご帰宅されても、貴方は真実をお話しになられなかった」
「話せなかったんです。ええ。話す勇気がなかった……」
「でしたら、それこそ勇気を持って奥方にすべてを打ち明けられれば、何も問題はありませんね」
「これから帰って話します」そう言うと、シーピン氏は、鼻からふーっと息を漏らし、微笑んだ。「ああ……ついにこの日が来たんだなあ……」
「シーピンさん」女性がそう呼びかけた。「私も今の貴方の奥さんに会いたい。会ってちゃんと挨拶をしたい」
「そうしてくれるのかい?」
「うん。その代わり、貴方にも私のお父さんに会ってほしい」
「そうだね。私はろくでなしだと、君のお父さんに謝らなくちゃいけない」
「一発くらいは殴られるかもしれなけど、私のお父さん、とっても優しいひとだから、きっとゆるしてくれると思う」
「そうかい?」
「うん」
どうやら話はまとまったようだ。
「探偵さん」シーピン氏がこちらを向いた。「このたびは妻の依頼をお引き受けいただき、ありがとうございました」
「私がここを訪れたことは、いいきっかけになったようですね」
「はい。いつかはすべてを明るみに出さなければと考えていましたから。あっ、依頼料は妻からお受け取りになられたのですか?」
「ええ。頂戴しました」
「えっ」と声を上げたのはメイヤ君だ。「いただいてないじゃないですか」
「がめついね、君は」
「えっ、えっ?」
「ではこれにて、失礼します」
私はとっとと場を辞去した。




