45.『狼の価値観』
遅い時間帯だ。
やっている店は限られている。
二人で立食形式のバーを訪れた。
テーブル代わりのビア樽の上に運ばれてきたジョッキを少し傾け、狼は細い喉をこくりと鳴らした。
「何か頼みなよ。僕と君との酒宴は、最初で最後になることだろうから」
好き勝手を言ってくれる。
「飲まないのかい? まあ、いいよ。僕は飲むけれど」
本当に、好き勝手を言ってくれる。
「君は探偵さんなんだね」
「それが何か?」
「怒りに震えた声だ。楽しく愉快に話をしようよ」
「今すぐ貴方を殺してやりたい」
「ここに来るまでの間に、そのチャンスはあったはずだ。君は僕のうしろをついてきていたわけだから。それでも撃たなかった。どうしてかな?」
ぐうの音も出ないというのはこのことだ。私は撃たなかった。いや、撃てなかった。自らが首をかっきられるヴィジョンしか想像できなかったからだ。こうして顔を突き合わせているが、私は狼に怯えている。それは覆い隠しようがない事実だ。
「世間では僕のことを白い悪魔だのなんだの言っているけれど、僕にだって名前くらいはあるんだ。知っているかい?」
「シノミヤ・アキラ、では?」
「久々にそう呼んでもらえた。嬉しく思う。誰から訊いたんだい?」
「ニルス・ジャレットという人物から伺いました」
「ああ。彼は綺麗だったね。砂漠の厳しい戦場にあって、彼の優しさには僕もずいぶんと癒やされたものだ。彼は今、どうしているのかな?」
「病で亡くなりましたよ」
「それは残念だ」
「貴方に残念なことなんてあるんですか?」
「いい質問をするね。実は残念に思うこと、思っていることなんて、一つもない」
「貴方の目的は?」
「多くのニンゲンからすれば、僕には『悲劇をもたらす者』という呼称がふさわしいんだろうけれど」
「そういう貴方こそ、ヒトに絶望しているのでは?」
「それもまたいい質問だ。だけど、その推測は間違っている」
「だったら、何をしたいんですか? あるいはゲバラになろうとでも?」
「彼は富豪の息子だ。僕とはまるで出自が違うし、僕が望むべきも彼ではない」
「では、貴方の希望するところはなんなんですか?」
「ヒトは誰しもなんらかのシステムに組み込まれている。法であったり、社会であったりね」
「死をもたらすというかたちで、その縛りからヒトを解放したいとでも?」
「ヒトを解き放つということと革命は同義だよ。だから僕はあえてゲバラを否定するのさ」
「もう一度、尋ねます。何がしたいんですか?」
「だから、殺人鬼にそれを問うのは無意味だとは思わないかい?」
「思いませんね。行動には必ず理由がともなうものだ」
「飽いたのさ」
「飽いた?」
「ああ。単純明快な理由だろう? 僕はフツウでいることに飽いたんだ。元々、絶望的に飽きっぽい性格なんだよ」
「ヒトとヒトとが紡ぎ出す関係性、その歯車の上には身を置きたくないということですか?」
「君は聡明だね。といっても、ヒトを殺すことが退屈しのぎにすらならないことを、今になって知った」
「じゃあ、次に何をしでかすかは、自分でもわからない、と?」
「そうでもないと考えているよ」
「なぜ、そう?」
「君というニンゲンに出会えたからだ」
狼は「夜明けとともにこの街を出る。とりあえず、北にでも向かおうと思う。僕が何を言わんとしているか、君にはわかるはずだ」と言った。「僕の期待を裏切らない結論が得られることを祈っているよ」と述べた。そして、空のジョッキをビア樽の上に置くと、にっこりと笑った。「じゃあね」と背を向けた。「ここは君のおごりでお願いすることにするよ」と軽口を叩いて、店から出ていった。
私はやはり、撃つことができなかった。
まったく、面白くない。
彼に対して恐怖を覚えている自分がゆるせなかった。
ゆるせないまま、ただ、彼を見送ることしかできなかった。
だけど、たった一つだけ、心に誓った。
それは……。




