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家路の途中、メイヤ君と『画材屋』に寄った。「立派な額縁を買いましょーっ」とのことで、私もその提案に反対しなかった。それから『道具屋』で錐とフックの金具を購入し、事務所に戻った。
早速、壁に錐で穴を空け、フックをねじ込み、それに額縁を引っ掛けたメイヤ君である。「おぉーっ、素晴らしいです。我が事務所に潤いがもたらされましたですよ」と彼女は満足した様子。私もその感想に「そうだね」と賛同した。
「わたし、あの絵描きさんの絵がもっと欲しくなってきちゃいました」
「同感だね。また来週にでも顔を出してみることにしようか」
「そうしましょーっ」
七日後は朝から雨だった。窓の外を見ながらメイヤ君は「あー、これじゃあ、絵描きさんもお店は出せませんよねぇ」と残念そうに言った。雨は夕方になって止んだのだが、それでも地面は濡れていることから、絵は広げられないだろう。よって、翌日に赴くことにした。
あくる日の正午過ぎ。
メイヤ君と一緒に事務所を出た。『胡同』を行く。相変わらず湿気は絶えないものの、おおむね地面は乾いている。大工仕事が入ったようなら店は開けないわけで、だから今日はいないかもしれないなあと思いつつ、くだんの路地を訪れた。
絵描きの青年はいた。今日も三角座りをして、店番をしていた。
まず「こんにちわぁ」と柔らかい声を出して挨拶をしたのはメイヤ君である。例によって、絵描きの青年は「こんにちは」と明るい表情を見せた。
「また一つ、頂戴しに参ったのですよ」
「そうなんですか? わあ。嬉しいなあ」
「絵の中のネコちゃんはとってもかわいいのです」
「どうもありがとう」
「いえいえ。それで、なんですけれど、少し話を変えてもいいですか?」
「かまいませんけれど、なんですか?」
「わたし、実は貴方の恋人さんの散策ルートを知っているのです。そういうこともあって、しばしば恋人さんをお見掛けしていたのですよ。頻度としては週に一度くらいです。だけど、ここ一週間は、まるでお姿を見なかったなあ、って。ひょっとして、何かあったのですか? お風邪をめされたとか」
「貴女の名前を、まだちゃんと伺っていませんでしたね」
「メイヤといいます」
「メイヤさん」
「はいです」
「けれど、僕の恋人は貴女の名前を知らないと言っていました」
「訊かれるたびに、名乗るほどの者ではないと答えていたからでしょう。わたしは名もなき正義の味方なのですよ、ふはははは。でも、そのうち教えて差し上げようとは思っていました。名前を言わないのは、ある意味、無礼ですから」
「でも、貴女が彼女に名乗る日は、未来永劫、訪れません」
「どういうことですか?」
「彼女は死んだんです」
「……えっ?」
「あの日、あなた達と出会った日に亡くなりました。赤信号を渡ろうとして車にはねられたそうなんです。救急車で病院まで搬送されている最中に死んでしまったと聞かされました。だから、あれほど一人で外は出歩かないようにと言ったのに……」
「嘘、ですよね……?」
そう尋ねたメイヤ君だが、嘘でないことはもうわかっているはずだ。そんなつまらない嘘を言う理由がない。絵描きの恋人は本当に死んでしまったのだろう。
「そんな……」
メイヤ君は両膝を折って屈み込み、口元を両手で押さえた。くぐもった声で「嘘ですよね……?」と、もう一度訊いた。
「世の中は、あっさりしているんだなあって思いました」絵描きはあっけらかんと言う。「大切なヒトの命を簡単に、ふいに奪ってしまう」
「そんな、そんな……」
「メイヤさん」
「はい……」
「どうか泣かないでください」
「そんなの無理ですよぅ……」
私はしゃがみ、メイヤ君の頭を左手でくしゃくしゃと撫でた。残念なことだと思ったが、助手につられて涙してしまうほど、私は脆くできていない。
「貴方のお名前は?」
「マオといいます。探偵をしています」
「それではマオさん。少し僕の話に付き合っていただいてもよろしいですか?」
「伺いますよ」
「ありがとうございます。どうかあとについてきてください」
「承知しました」
絵描きは自らが描いた猫の絵を、白くて柔らかそうなショルダーバッグに入れる。最後に『彼女の絵』をしまいこんだ。立ち上がって、歩き出す。涙を流すのをやめないメイヤ君の手を引き、私達は彼に続いたのだった。




