5羽 本は世界を旅する
「――……トガ、終わりだよ」
声が降ってきたのと同時に、夜の鐘が鳴った。
俺は本を広げたまま、口を呆けたように開ける。
「え……もう?」
「そうよ」
リールは、ふよふよ浮きながら頷いた。
「もう夜よ。食事をとって、寝る時間」
そのように言われて初めて、俺のお腹も鳴った。ぐぅっという音が書庫全体に響き渡る。俺はわずかに頬を染めると、本を壊さないようにゆっくり閉じて、山の上に積み上げた。
「ごめんなさいね」
俺が席を立つと、リールはすまなそうに頭を垂らした。
「私、時間間隔が鈍いから……昼が過ぎていたこと、気づかなかったのよ」
「いいよ。俺も気づかなかったし」
そもそも、ここ数年は昼に食事をとるなんてなかったから……と、内心で付け加えておく。
「それに、ここって窓ないじゃん。いつが昼で夜なのか分からないって」
「……それ、外部の人は必ず言うのよね」
「時計ないの?」
壁にかかってないかと見渡したが、契約書の入った額縁しかなかった。
「あったけど、壊れちゃったわ。人が作ったものは直せないのよ」
リール様が部屋の隅に目を向ける。そこには、これまた古風な銀時計が箱の中に転がっていた。この箱というものが、実に奇妙な形をしている。楕円形の箱の薄汚れた箱に、汚れて穴が開き始めた布が敷き詰められている。その上に錆びたコインや欠けたグラス、黄ばんだ紙などが置かれていた。そのなかに、鎖付きの銀時計があった。
「これは?」
俺が楕円形の箱に手をかけると、リールは自慢げに胸を張った。
「私の寝床よ。素敵でしょ」
「あぁ……うん」
俺は何も答えられなかった。
箱は分厚い埃でベトベトしたし、布だって汚らしい。心なしか、黴っぽい臭いがした。
「あのさ、綺麗にする?」
「綺麗に?」
リールは目をぱちぱちとさせる。小さな満月のような丸い目で、じぃっと俺を見つめてくる。
「綺麗にしてくれるの?」
「う、うん。リールが良いなら……いや、リールがこのままが良いって言うならそのままにするけど」
わざとそのままにしていたのかもしれないと思い、俺はだんだんと声を萎ませてしまう。
しかし、リールは短い手をぱたぱたと叩いて、宙で一回転してみせた。
「本当!? 嬉しいな! 私、掃除は苦手だから! 早速お願い――って思ったけど、もう夜なんだよね」
「それなら、今日は箱の周りだけ拭くよ。えっと、布は……」
俺が拭くものを探すと、ぱちんっと軽い音と一緒に布が現れた。
「これでいいかしら?」
リールが指を鳴らしたらしい。
「ありがとう」
布は古くてお世辞にも綺麗とは言えなかったが、箱を拭くにはちょうど良いものだった。ごしごしと拭いていくと、箱の表面が鮮やかな青色をしていることに気づいた。目が覚めるような青の箱に蔦のような模様が彫られている。なんとなく、最近どこかで見たことがあるような模様だな、と思っていると、リールが頭上ではしゃぐように飛び回っていることに気づいた。
「そうそう! こんなことが刻まれていたのよ! さっぱりしたわ!」
「自分で拭かなかったの?」
俺は布を動かしながら尋ねる。
「布や料理はポンっと出せるのに?」
「呼び寄せと自分の手を使うのとは、違うでしょ」
リールは自身の短い手をひらひらさせた。
「さっきも言ったけど、私は細かい作業が苦手なのよ。トガのおかげで助かったわ。もっと綺麗にするために必要なものがあれば教えてね」
そう言うと、すうっと俺の眼前まで寄ってくる。
「手を出して」
「ん?」
拭く手を止め、そっと左手を前へ伸ばす。
すると、リールは手のひらの上に銀時計を置いた。どしっとした重みが手のひらに乗る。
「直せる?」
「うーん……」
かなり古いもの様だったが、コインと違って錆はなかった。それでも、蓋は固く閉ざされていて、開けるためにはかなりの力が必要だった。全身の体重をかけるようにして、ようやく引っ張り開ける。すると、文字盤には星が散らばっていた。秒針はあったが、ある一点を指したまま動く気配はない。無数の星だけが、くるくると回り続けている。たぶん意味はあるのだろうが、仕組みはさっぱりだった。
「専門家に見てもらった方がいいかも……ちゃんとした街の時計屋とか」
「それなら、トガ。貴方には、明日は時計屋に行ってもらうわ」
「明日かぁ……」
もう地上に降りることになるのかーと、少しばかり遠い目になってしまう。
たった一日だけだったが、こうして古書の香りに囲まれて、文字通り本と触れ合うのは心地よかった。それこそ、空腹や時間経過を忘れてしまうくらいに好きな時間だといえる。そこから離れ、ましては自分にとって危険すぎる地上へ戻るのは気が引けた。
むむむ、と唸っていると、リールは不思議そうな顔をしていたが、何か思い至ったようにポンっと手を叩いた。
「あー、そういうことね。貴方、勘違いしてるわ」
「勘違い?」
「明日のお楽しみ!」
リールはそう言うと、俺の背中を押す。
「さあ、まずは夜の食事。あとは明日のお楽しみ!」
リールに押されるがまま、俺は立ち上がって書庫を出る道を進んだ。いろいろと疑問はあるが、リールが嬉しそうなのでたぶん悪いことにはならないだろう。たぶん、きっと……。
(にしても、変だな)
背中を押されながら、ふと気になった。
こんな山の頂上なのに、どうして朝の鐘も夜の鐘も聞こえるのだろう……と。
※
次の日、朝の鐘で目が覚める。
轟っと世界を揺らす鐘の音は、とても耳心地が良い。
わずかにうとうとしながら、まずは今日も羽の確認をする。昨日より念入りに羽を付け根まで目視していると、リールが扉を叩いた。
「おはよう、トガ!」
リールは小さな手に焦げ茶色の本を抱えていた。リールの大きさほどもある本は遠目から見ても分厚く、かなり古びていることが分かる。それでも、昨日まで自分が仕分けしていた本とは違い、かなりしっかりしていた。
「リール、おはよう。その本は?」
「ふふっ。これはね、世界に一冊しかない本よ」
リールは得意げに言うと、テーブルの上にドサッと置いた。俺は羽の確認を急いで終え、テーブルの方へと歩み寄る。近くで見ると、ますます奇妙な本だった。焦げ茶色の表紙には、題名や作者名の類は一切記されていない。代わりに、赤、青、緑、黄の四色のガラス玉が円を描くように埋められている。
「トガ。本はね、世界を旅することができるのよ」
リールがパチンっと指を鳴らすと、本は何もしていないのに浮かび上がった。ぶわんっと耳鳴りのような音がしたかと思うと、本自体が青く発色し、ぺらぺらと捲れ始める。
「さあ、トガ。どこか行きたい街はある?」
リールは満月色の目は白銀へと変わっている。
俺は呆気にとられ、首を横に振ることしかできない。
「行きたい街なんてねぇよ……」
生まれ育った街は戻りたくないし、他は収容所しかしらない。他の街は人伝にしか知らなかったが、どこに行ったとしても羽付きはあまり良い想いをしないだろう。
「それなら、私が決めるわね。どこにしようかしら……」
リールがほわほわと言ったので、俺は慌てて口を挟んだ。
「星について詳しいところが良い!」
「星について? ここ以上に詳しいところはないけど……まあいいわ」
「あ……あと、羽付きでも、普通に歩ける街」
ないと思うけど、と小声で付け足す。
「エジュン族はどこでも普通に歩けると思うけど……とりあえず、バグロルのいないところが良いわね」
リールはくすくす笑う。尻尾をくるりと揺らし、すうっと息を吸う。そして、青い炎を本に吹きかける。
「燃える!?」
俺は身構えたが、本が燃え上がることはなかった。むしろ、炎を吸収し、己の光に変えている。青い炎は白い光となり、本を中心に世界を包み込んだ。
俺と、リールも一緒に。




