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4羽 生きているということ

 鐘の音が聞こえる。

 ずぅんと腹の奥まで響き渡る、柔らかな朝の鐘。俺にとっては忌々しい朝を知らせる音だ。なにせ、自由な夢を手放して、目を覚まさないといけないからである。


「ん……あ?」


 嫌々薄目を開け、もぞもぞと起き上がろうとしたとき、隣に誰も寝ていないことに気づいた。いつもは小さな3段ベッドに3人で身を固めながら寝ているというのに、人の気配が全くない。寝過ごしたのかと焦ったのは一瞬で、すぐに違うことを思い出した。


「そっか。俺、脱走したんだ」


 処刑が正式に決まり、どうせ死ぬならと岩山を上った。しかし、ダイナミック投身自殺は失敗に終わり、リール様なる謎の生物に保護される形で、この塔の管理人代行となった。契約を結んだ直後、ずっと岩山を上り続けた疲労と数年ぶりに味わった満腹による眠気で、夜を待たずして寝落ちしてしまったのである。


「……服は……変わってねぇな。んで、ふーん」


 半身だけ起き、簡単に周りを確認する。

 どうやら、一人でベッドに寝かされていたようだ。ベッドには本物のマットレスが載っており、白いシーツが敷かれている。緑の毛布は少し埃っぽかったが、ふわふわして気持ちよかった。


「とんでもねぇ贅沢だな、こりゃ」


 にまにまと口元が緩むのを感じながら、ベッドの外へと目を移す。壁全体が薄く発光しているおかげで、周囲を確認することはできたが、全体的に薄暗くて近場しか分からなかった。ベッドサイドには透明な水入れが置かれており、灯り蟲の入ったランタンが備え付けられている。


「これを使えってことか」


 ランタンを軽く振り、灯り蟲を起こす。ばちばちっと羽が容器にぶつかる音と同時に、手元が昼間のように明るくなった。


「へー、ずいぶんといい部屋じゃん」


 ベッドは部屋の片隅にあった。他の隅には、木製の頑丈そうなテーブルと丈夫そうな椅子が一脚。テーブルの上には、随分と服が一組置かれていた。

 どうやら、これを着ろということらしい。

 俺が広げてみると、ぶかぶかのシャツにごわごわとしたズボン。シャツには古風な刺繍が施されており、羽が通せるように穴まで開いていた。正直なところ、自分の趣味ではないが、いまの囚人服より遥かにマシである。喜んで着替えると、机の傍に姿見がかかっていることに気づいた。


「こりゃいいや」


 着替え終わると、いそいそと鏡の前に立ち、自身の羽を確認する。できる限り詳しく羽の付け根まで異常がないか確認していると、控えめに扉が叩かれた。


「トガ。朝だよ。起きてる?」

「うん」


 返事をすると、リールが入ってきた。


「おはよう、トガ。ちゃんと着替えたんだね」

「あ……まあね」


 リールは俺の周りをぐるんと一回りする。俺は反射的に背筋をピンと伸ばしてしまうが、俺の態度などお構いなしに、リールは笑顔でうんうんと頷いた。


「似合ってる、似合ってる! 地上の流行とは違うと思うから、買い出しのときに気に入ったもの探してきな。私は広間にいるから、そこで顔洗ったらおいで。朝食にしよう」


 リールはそれだけ言うと、出て行ってしまった。

 入口にほど近い場所に洗面台が置かれている。俺は洗面台に向かわず、再び羽の点検に勤しんだ。いつも通りの真っ黒な羽。それに変わりがないことを確認してから、ようやく顔を洗った。蛇口に手をかざせば、冷たい水が出てきた。がぶがぶと飲み、しっかり喉を潤してから顔に水をかける。ひんやりとした冷たさで、まだどこか寝ぼけてた頭が覚醒するのが分かった。


「……よし」


 頬を叩き、リールのもとへと向かう。扉を開けただけで、ふわっとパンを焼いた良い香りが漂ってきた。きゅるるっと腹が鳴り、口のなかに涎があふれ出てくる。


「えっと……おはようございます」


 広間とは、昨日、食事をごちそうになった空間のことらしい。

 リールがテーブルの上に座り、にこにこと笑っていた。


「うん。昨日より良い顔だね。さあ、まずは食べな。仕事はそのあとだ」

「これ、リール様……じゃなくて、リールが作ったの?」

「そうだよ。まあ、あまり複雑なものは無理だけどね」


 リールははにかんだ。

 簡単に千々ることができる白い焼き立てパンに、俺の両手ほどもあるイモの料理。千切りにしたイモを一か所に集め、カリカリになるまで焼いたものらしい。香ばしくこんがりと焼けており、がつがつと食べてしまった。


「美味しい!」

「それは良かった! 100年ぶりの料理だったからね。そういえば、君の好物を聞いてなかった。なにが好きなんだい?」

「何でも好きだよ」


 俺はイモを口いっぱいに放りこんだまま話した。


「腹に入るならなんでも。あー、でも、そのへんの草は苦手」


 飢えをしのぐため、その辺の草を食べたことがあった。寝床の藁をしゃぶったこともあったが、虚しさが増すばかりで二度と食べたくない。


「ふむふむ……覚えたわ。草を使うレシピはなかったはずだから大丈夫。草も貯蔵していないから平気よ」

「ん?」


 俺は食べながら、どことなく違和感を覚えた。でも、その正体が分からない。


「貯蔵庫みたいな場所があるの?」

「あるわ。あとで案内してあげる。でも、食べ終わったらまずは仕事よ」


 すべて平らげると、リールは短い手をパンっと叩いた。食器は一瞬で消え、テーブルの上には最初から何もなかったかのように感じた。


「消したの?」

「流しに移動させただけ」

「俺、洗うよ。自分で使ったもんくらい洗わせてくれ」


 俺が立ち上がると、リールは驚いたように瞬きをする。そのまましばらく黙り込み、まじまじと俺を見てきた。いや、俺を見ているのではない。俺を通して、別の誰かを見ているような――……


「……あー、迷惑だったか?」

「う、ううん、そんなことないわ。でも、明日からでいいかしら? 厨房は散らかってるから」


 リールは早口で言うと、昨日の青い部屋へ俺を招き入れた。


「まずは修繕ね。すぐに修繕が必要な本とそうでない本に分けてくれる? 終わったら、私の名前を呼んで」

「わかった」


 俺は本の山に取り掛かった。

 これまでの人生、滅多に本を手に取ったことはなかったし、ましては新品など見たこともなかったが、それらと比較しても、ここの本はどれもこれも酷い傷みようだった。

 俺は本を一冊一冊、壊れそうな赤子に触れるように優しく手に取った。何枚かページが抜けている本、表紙がとれかかっている本、紙のいたるところに破れやシミが目立つ本――……天体関係の本だけでなく、物語や語学の本や地図帳のようなものから何が書いてあるのかさっぱり分からないものまで多種多様だったが、たまに大陸文字で書かれた本があると、手が止まる。大陸文字でなくても、色彩豊かな挿絵があると、呆けたように口を開けて眺めた。しばらく読めないのに読み耽り、慌てて仕事のことを思い出して、仕分け作業を再開する。

 

 そんなことを繰り返しているうちに、ふと顔を上げた。


「そっか。俺……生きてる」


 俺以外、誰もいない部屋に小さな呟きが木霊した。


 処刑の日は今日だというのに、こうして生きている。

 ちゃんとしたベッドで眠り、それなりにまともな服を纏い、しっかりとした食事をとって、仕事では椅子に座り、本と向き合う時間を送っている。

 三段ベッドでぎゅうぎゅう詰めで寝ることもなく、穴の開いた囚人服を着ることを強要されず、朝から晩までちっぽけなパンの欠片1つで煤塗れになりながら身体を酷使されることもない。

 一昨日までの自分には考えられず、一緒に働いていた羽付きたちも俺の現在を想像していないだろう。もしかしたら、俺の居場所を知ってる奴ら(バグロル)でさえ、俺の新しい暮らしを知らないかもしれない。


 そう考えたとき、じんわりとしたモノが喉に込み上げてきた。

 手元が震え、目元が潤み始める。


(泣くもんか!)


 俺は奥歯を強く嚙み締めると、無言のまま精いっぱい笑った。

 これまでに味わったことのない不思議な感覚が、俺の身体に満ちていた。





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