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10羽 歪んだ景色


「あっ、博士がいたわ!」


 俺が周囲に気を向けていたが、ティアの声で意識を戻した。

 ティアは眩い笑みを浮かべながら、天文台に向かって手を振っている。


「博士? どれが?」


 俺はティアの視線を辿る。首が痛くなるくらい顔を上げると、天文台の上にわらわらと学者たちが集っているのが良く分かった。これまで通ってきた道同様、白衣を着た学者たちがあせくせと動き回っている。


「博士! リンドール博士!」


 ティアのよく通る声が風に乗り、学者の耳に届いたのだろう。誰よりもひげを蓄えた老人が動きを止め、きょとんとした表情でこちらを見下ろしてきた。人間の老人は顔の割に大きすぎる眼鏡を何度かくいっと持ち上げ、じぃっとこちらを睨むように目を細めていた。


「……睨まれてるぞ?」

「博士は目が悪いんだよ」


 俺の囁きにエラトが答えてくれた。


「目が悪いのに、観察できるのか?」

「それを補うために、眼鏡をしてるんじゃないか――ほら、行くぜ」


 エラトはそう言うと、俺の背中を軽くトンっと叩いた。そのまま、ティナと一緒に天文台へ歩き始めてしまう。なんとなく釈然としない思いを抱えて、2人の後を追いかけようとした――その時だった。

 何かがふわっと耳元をかすめ、反射的に足を止める。例えるなら、後ろから矢のようなものがすり抜けたような感覚である。しかし、なにもない。一度、後ろを振り返ってみるが、特に変わったところは見受けられなかった。


「……風か?」


 自分で呟いてみて、違うと思った。

 風であれば、少なからず周りが揺らぐ。エラトの白衣がひらめいたり、ティアの髪が膨らんだりするはずだろう。それがないのは、ちょっと不自然に思えてしまった。かといって、後ろを振り返っても、特別変わったところは見受けられない。勘違いだったのだろうか? だが、これでも、こういう感覚だけは周りより優れている自信があった。ちょっとした周囲の変化に気づけないようでは、バグロルたちとやっていけない。


 絶対になにかあるはずだ、と感覚を研ぎ澄ませる。

 すると、前方がわずかに――それこそ瞬きするほど短い時間に、ティナの肩のあたりの空間が歪んだ。ぐにゃりと空間を握りつぶすような色が滲む。もちろん、本当に一瞬で、驚くより前に歪みは直っていた。でも、そんなことってあるのか? もちろん、自分の目がおかしくなったってことも十分以上に考えられる。むしろ、そちらの方が現実的だ。

 だけど――……


「トガ?」


 ティナが振り返り、こてんと首を傾げている。

 俺がついてこないことに、不思議に思ったのだろう。その立ち姿には、警戒心のかけらも感じなかった。少し前に奇妙な方法で抵抗する間もなく誘拐され、いまも誘拐される原因となった石を後生大事に抱えているというのに、髪の毛から指の先まで危機感というものを一切漂わせていない。

 博士が目と鼻の先にいるということもあるのだろう。しかし、それを踏まえても警戒心がなさすぎる。それほどまで、危険とは無縁な暮らしをしてきたのだろう。安全地帯を目前として自分の命が危ういという意識が途切れてしまうほどには、白い真綿のように優しい世界で生きてきたことが痛いほど伝わってきた。自分が幸せな環境にいると知らない暮らしは、俺が生まれてこの方、喉から手が出るほど欲していたものである。


「トガ、どうしたの?」


 どうしたの? と俺を心配している間にも、ティナの耳元の空間が歪んだ。今度は本来そこに見えるはずの景色が、薄っすら緑で塗りつぶされる。

 一度なら気のせいだと流せたが、二度目ともなれば、もう決定的だ。


「危ない!!」


 口が動くより先に、身体が動いていた。

 あの歪みは何かとか、正体はどうとか考えることを後回しで、ティナに向かって駆けだしている。つい数秒前に緑が見えたところに向かって、身体全身で突撃するように走っていた。



 そこに、何か隠れていると信じて。






次の投稿は10月を予定しております。

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