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1羽 死に損ないの羽付き


 昼の空でも、星はそこにある。

 お日様の光で隠されているだけで、いまも空に輝いているのだそうだ。


 だけど、俺の目では見えない。

 どれほど目を凝らしても、目が痛くなるくらいの青空しかない。俺の視力は、そこまで良くないのだ。どう頑張っても、人間と同等程度である。そもそも、俺たち羽付きは人間とたいして変わらない。視力も聴力も、顔も肌質も背丈も――寿命も。

 人間と異なるのは、背中から黒い羽が生えていることくらいだ。その羽だって、産まれたときは存在しない。産声を上げた頃は人間の赤子とたいして変わらないが、肩甲骨のあたりがだんだんと赤く色づき硬くなる。そして、一歳の誕生日に肌を突き破って血濡れの羽が生えてくる――それだけ。

 それ以外、特質のない羽である。

 せめて、空を飛ぶことができたら良いのに。

 こうして空を見上げるたび、俺はつくづく思うのだった。


「ふぅ……」


 息を吐く。

 壁に背を預け、漂う雲を目で追った。

 足はすっかり疲れ果て、二本の棒のようになっていた。座りたかったが、生憎とそんなスペースはない。なにせここは断崖絶壁。人が歩くのがやっとな細い足場が壁を伝い、上へと続いている。お日様が昇る前から登り始め、ようやくてっぺんが見えるくらいまで到達した。円い形の頂上には、三角のとんがり帽子をかぶったような白い塔が二つ建っている。


「ありゃ神殿か? んなものがここにあるなんて、聞いたこともねぇ。誰か住んでるって噂も知らねぇし……ったく」


 俺は呟くと、ポケットをあさってみる。パオンの欠片があったらいいなと期待を込めたが、糸くずしかなかった。


「仕方ねぇ。すきっ腹には慣れてるさ」


 あっさり諦め、代わりに自分の成果を確かめるように眼下へ目を落とした。

 街の屋根は点となり、小高い丘も足元。俺が登り始めた岩山を囲む森は、まるで緑の海のように見えた。風が吹く度に木々が揺れている。お日様をいっぱいに浴びて、葉っぱが白く反射するおかげで、さざ波のように白く輝いていた。街は嫌いだし、森も好きではなかったが、こうして眺めるとなかなかに美しい。


「んま、空には負けるけどな」


 再び空に目を向ける。

 さっき眺めていた雲は、すでにどこかへ流れてしまっていた。雲は好きだ。誰からも束縛されず、自由に漂うことができるのだ。ああ、なんて素晴らしいのだろう……。

 ぼんやりと空への憧憬に思いを馳せた、そのときだった。


「咎羽だ! 咎羽がいたぞ!」


 突然、罵声が耳を貫いた。

 俺は弾かれたように眼下に視線を落とす。遥か眼下の道に、鈍い光が連なって見えた。だがすぐに違うと気づいた。鉄兜の輝きだ。小さなアント虫の行列のように、鉄兜の群れがわらわらと登ってきていたのだ。


「ちくしょう、もう追いついて来やがった!」


 俺は左手で崖に触れながら、急いで登り始めた。


「あいつら……あんなに、重いものを、着てるくせに……!」


 少なくとも、お日様が東の空にいる間は追っ手の気配はなかった。

 奴らの嗅覚を惑わすため、収容所を脱走する前にオイルを浴びてきたことが功を奏したのだろう。いまではすっかり乾いて臭いも薄れてしまったが、ちょっと前まで鼻を塞ぎたくなるくらいオイルの臭いに、くらくらと眩暈がしたものだった。もしかしたら、臭いが薄れた結果、奴らの鼻が俺の匂いを嗅ぎつけたのかもしれない。


「はぁ……はぁ……」


 俺は絶壁を走った。一歩間違えれば、足を踏み外して落下する。そんなこと、とっくに理解していたけど、こんなところで奴らに捕まりたくはなかった。でも、走れたのは本当にわずかな時間だった。体力も限界だったし、お腹はぐぅと鳴らすことを諦めるほど空いている。そういえば、最後に食べたのはいつだっただろう? 昨日の夕方、パオンの欠片とスープを口にしたのが最後だ。一口大のパオンと野菜の欠片が1つ、2つ浮かんだスープが、最後の晩餐である。


「咎羽! もう逃げられないぞ!!」

「保護法違反! 35条取り締まり違反! 窃盗罪に脱走罪!」

「おまけに禁則地侵入罪だ!」


 それなのに、憎しみのこもった吼え声がみるみる間に迫ってくる。

 もう泣き言を口にする暇も惜しい。俺は肩で息をしながら、ひたすら上を目指した。二対の塔との距離は確実に近づいている。それだけを目標に、ひたすら足を動かした。こうして近づいてみると、どちらの塔にも窓らしきものはない。もしかしたら、入口もないのかもしれない。鋭く滑らかな塔は、空高くそびえ立つ――まるで墓標のようだ。そう思うと、すっかり限界な口元に笑みが浮かんだ。


(……いいじゃん)


 お腹だけでなく、肺もからっぽ。

 頑張って息を吸っても、肺まで空気が届かない。立ち止まって深呼吸をしないと死んでしまう。だけど、一歩でも止まろうとしたら、もう歩けない。歩けないと、すぐ背後まで近づいてくる奴らにつかまってしまう。この頃になると、奴らの荒っぽい息遣いまで聞こえていた。奴らは鉄の兜に鎧を纏った上で俺と同じ道を辿ってきているというのに、疲れをまったく感じてないようだった。俺の罪を元気に叫んでいるのだから、つくづく体力の差を痛感る。

 それでも、辛うじて――俺の方が先に頂上に着いた。


「……ッ、……ぁ……」


 そこは小奇麗な草原だった。

 円形の頂上を覆いつくす勢いで、草がゆったりと揺れている。草原の奥には、白い塔が見えた。ここからでは塔の扉も見えない。きっと、あの塔を調べる前に奴らが追いつくだろう。荒々しい靴の音に、がちゃんがちゃんと鎧のこすれる音が耳の後ろで聞こえる。


「いそが、ねぇと……」


 俺がここに来た意味。

 禁則地の岩山を駆け上ってきた理由――それを果たすために。俺は周囲を見渡し、ここから少し離れたところに丁度良い場所を見つけた。ふらふらになりながら、丁度良い場所に足を向ける。


「見つけたぞ! 咎羽!」

 

 俺が丁度良い場所――つまり、草原の周りを覆う縁石に手をかけるのと、奴らが頂上に到達したのは同時だった。

 俺は奴らを一瞥する。

 奴らも人間と身長は変わらない。だが、羽付きと違って、それ以外は二足歩行くらいしか共通点はなかった。紫色をした六角形の頭というだけでも違うが、特筆すべきはその硬さだ。頭部の皮膚はあまりにも頑丈過ぎて、どれほど剣で切り付けても傷一つつかない。おまけに鼻や口も堅い膜で保護されている。敵に狙われやすい弱点は皆無だ。鎧を着こんでいても、筋肉流々な身体つきだと分かる。あれほどまでに強いのに、どうしてこいつらが鉄兜や鉄鎧を纏うのだろう? 奴らの生態は、つくづく理解に苦しむ。

 奴らは赤い単眼を輝かせ、三つある口を開いた。


「保護法違反、脱走罪、禁則地侵入罪、その他20の罪により、逮捕する!」

「……ひぇー、おっかねぇ……」


 俺は肩を上下させながら、精いっぱいの軽口を叩いてやった。


「でも、残念だったな。俺は罰を受けるつもりねぇっての」


 俺は縁石によじ登ると、両手と羽を広げてみせる。

 縁石の後ろは広大な空。あと半歩でも下がれば、死が待っている。

 途端、奴らは笑い出した。あまりにも大口を開けるものだから、見事な牙と牙の隙間に住まうトゥゲの細長い尻尾までちらっと見えた。


「気が狂ったか? お前らの羽はお飾りだろう?」

「飾りでもいいのさ!」


 俺は顔がくしゃくしゃになるくらい笑った。

 そして、一歩――忌々しい奴らの顔を見ながら、思いっきり後ろに跳んだ。


「やめろ!!」


 さすがに、奴らが悲鳴を上げる。

 ここまで追い詰めたのに、自分たちの手柄にでもできずに指の隙間から落ちていくのだ。頑丈さが取り柄の奴らでも、こんな高所からの落下に耐えられる肉体ではない。

 当然、俺の身体も。


「ははっ! 最高だぜ! ざまぁみろ!」


 俺はお腹が割れるほど笑った。

 黒い羽毛が逆立ち、バサバサと音を鳴らす。当然、羽は動くもその場にとどまるわけではない。いうでなれば、浮遊からの落下。大きく広げた羽が風を受け、落下速度はわずかに緩まったが、それも気休め程度。耳元で轟々と風が唸り、身体いっぱいに襲いかかる。


「くぅー!」


 気持ちいい!

 風と一体となり、急速に落下する。

 それでいい、それでいいのだ! 俺は目を輝かせた。落下でもいい。どうせ死ぬのであれば、自分の知る限り最も高い岩山から墜落死したい。一時でもいいから空に浮かび、羽ばたいた気分を味わいたかった。おまけに、奴らの苦々しい顔を見ることができたのだ。もう悔いはない。


「え?」


 ところが、目の前に白い柱が飛び込んできた。地面に到達して、この身が砕くには早すぎる。それに、さっき休んだ場所も過ぎていない。俺の困惑をよそに、柱はぐにゃりと曲がり、俺の身体を受け止めた。ぼよんと跳ねるような衝撃があったかと思えば、柱はスルスルと蔓のように身体に巻き付き、ゆっくりと浮上する。


「あ、な、なんで……?」


 まったく訳が分からない。

 呆然とする間に、俺の両脚は草原の上に立っていた。


「無事でしょうか?」


 巨大な影が覆い、声が降ってきた。

 顔を上げると、そこには月があった。いや、月よりも穏やかで黄金色をしている。それに、今日の空に月は出ていなかった。そもそも、月は二つも存在しない。そのことまで思い至って、ようやく――目の前にあるのが、巨大な目であることを理解した。


「無事ですね。良かった、尻尾を動かすのは苦手なのです」


 それは間違いなく、慈しむような声だった。あまりにも優しい口調に、俺は何も言えなくなっていた。ダイナミック投身自殺を阻止されて怒り心頭なはずなのに、そんなことすっかり忘れてしまっていた。


「リール様!」


 奴らが慌てふためく声で、俺は息を吹き返した。

 奴らに目を向ければ、連中は見たことがないくらい焦っていた。紫色の顔が青く染まり、あわあわと三つの口が別々に動いている。


「その者は、我らが裁く罪人なのです。どうか、こちらに引き渡してください」

「……罪人?」


 リール様と呼ばれた巨大な目が、じっくりと俺を眺める。

 ここでようやく「リール様」の巨体をゆっくり仰いだ。どこまでも続く草原だと思っていたけど、草地はごくわずか。ほとんどは、リール様の身体だった。草原と同じ淡い緑色の巨体はびっしりと鱗に覆われている。二対の塔だと思っていたものは、リール様の二本の角だった。


「罪人に見えません……10にも満たぬ子どもではありませんか」

「羽付きは見かけによりません」

「どうか、こちらへ」


 奴らが頭を下げる。

 俺はひっくり返りそうになった。羽付きはもちろん、彼らの上官にも頭を下げぬ連中が、リール様に対しては地面に額が付きそうなほど首を垂れたのだ。

 リール様は黙った。

 リール様の目は奴らを見ていなかった。ただ俺を見つめていた。二つの月は品定めするように俺を注視している。やがて、巨大な口を開いた。開くだけで風が巻き起こり、俺の短い髪と羽が揺れた。リール様の口には、眩いばかりに白い牙が生えそろっていた。


「ここは、私の地。私の持ち場。そこに足を踏み入れた者は、私が裁く権利があります。あなた方に関しても、エジュン族の子どもに対しても」

「ですが……」

「聞こえませんでした? 私はこの子を置いて、去れと言ったのです」


 リール様は依然として柔らかい口調のままだったが、轟っと喉を鳴らした。それだけで、奴らは跳び上がった。


「し、失礼致しました!」


 奴らは回れ右をすると、さっきの俺のように脇目も振らずに走り去った。

 俺が下を覗けば、奴らはもうすっかり豆粒のように小さくなっていた。よほど、リール様が恐ろしいのだろう。奴らをここまで震え上がらせるこいつは何者なのだろう?


「歓迎致します、エジュン族のトガ・バネ」


 そして、何故――この巨大な生き物は、俺に優しくするのだろう?

 牙の一つひとつが、俺の背丈ほどもあった。噛まれたらひとたまりもない。どうやら、その牙をこちらに向けるつもりはないらしく、リール様は弾むような声で話し続けていた。


「客人は300年ぶりなのです。まずは羽を伸ばしてください。それにしても、トガの着ている衣服はパジャマみたいです。随分と簡素ですね。地上での流行なのでしょうか? いいえ、まずは食事をとりましょう! かなり痩せていますし、客人はもてなさなければ……! 好きな食べ物はありますか? なんでも言ってくださいね!」

「あー、一気に質問してくるな。俺も頭が壊れそうなんだ」


 俺はやっとの思いで首を振ると、ぐんぐん迫ってくる頭を両手で制した。


「まず、俺の名前は『咎』じゃねぇ」

「彼らはそう呼んでいましたよ?」


 リール様はこてんと首を傾げる。その仕草が巨体に合わず、あまりにも可愛らしかったから、俺は力なく笑った。


「じゃあ、それでいいよ」


 どうせ、俺には名前なんてない。

 死に損ないの羽付きにふさわしい名前である。

 ひとまず助かった。ダイナミック投身自殺を邪魔されたことは不服だが、そんなものこいつの目を盗めばどうとでもなる。

 それに、リール様からは客人を歓迎しようとする心が伝わってくる。食事にもありつけそうだ。だから、この先しばらくは安泰だろう。


 

 少なくとも、咎羽の意味を知るまでは。






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