14.アウグスト、動く
「侯爵様、失礼いたします」
アウグストの執務室にノックの音。ディルクが一人の男性を案内してきた。室内に入ると、アウグストは彼に「そこに」と言ってソファを勧めた。向かい合わせになってアウグストが座ると、彼は手に持っていた資料を差し出した。
「こちら、ヒルシュ子爵とそのご家族についての調査書となります。残念ながら、アメリア嬢の情報はそう多くないのですが……」
アウグストはそれを受け取り、ぱらぱらとめくった。しばらく、無言の時間が続く。男性は姿勢を保って、アウグストの言葉を待っている。
(少し見ただけでわかる。情報が多くないということは、家族にカウントされていないということだ。それに)
社交界にアメリアが出ていないことはわかっていた。それどころか、デビュタントも行われていない。今更、彼女について、ヒルシュ子爵家について、彼はようやく向かい合おうとしていた。
必要がないと思っていた。自分は金で彼女を買った。彼にとって、自分とアメリアの間柄にあるのは、それだけだと思っていた、いや、思い込んでいたからだ。
「なるほど……」
読めば読むほど、ため息しか出てこない。そして、自分の脳がクリアになっていく気がする。彼が見ていたアメリアの様子は、何一つ「そう見せようと」したものではなく、ただただ「そう」だったのだ。
あのか細い体ですら、本当は自分のところに嫁ぐと決めてから、それでも食事をするようになってふくよかになった結果だったのだと知った。信じられなかった。自分のもとに来た彼女を見た時に、彼は「貧相だ」と思った。だが、そのひとつき前、自分が彼女の姉に求婚をした頃には、彼女は更にやせ細っていたのだと言う。
そう所作が美しいわけでもない、だが、彼女なりに「どうにか」きちんとしようと頑張っていたテーブルマナーも、たどたどしいカーテシーや、貴族のマナーなども、すべてひとつきで付け焼刃で身に着けたものだった。けれども、彼女は間違いなくヒルシュ子爵の子供だった。
アウグストのように、愛妾の子供ではない、本妻の子供。だが、双子は不吉だと言われたがゆえに、閉じ込められて、ただ生き永らえさせられていたのだと、ようやくアウグストは知った。そして、彼の元に無理矢理送られたらしいことまでを、彼はやっと真実として受け止めることが出来たのだ。
(なのに。あのように、柔らかく微笑むことが出来るのだ。彼女は。誰にも愛されずにいたというのに)
目の奥が熱くなる。何故彼女は自分に打ち明けてくれなかったのだろうか、という気持ちと、そんなことを自分が言える立場か、という気持ちがないまぜになる。
(わたしは、打ち明けるのに値する人間ではなかった……ただそれだけだ。だが、これから変わることが出来るだろうか……)
得意ではない刺繍を恥ずかしそうに隠す彼女。あまり食べられない食事を、それでも一所懸命少しでも食べようとする彼女。豪奢なドレスを纏って、どこか申し訳なさそうな表情の彼女。それから。
夜の庭園で、いつも柔らかい声音で「おかえりなさいませ」と「おやすみなさい」と彼に与えてくれていた彼女。それらがすべて、嘘ではなかったのだと理解をして、アウグストはまるで霧が晴れたような表情になる。
「それから、こちらがアメリア様の乳母だった人物が住んでいる場所です」
そう言って、男は1枚のメモを手渡した。アウグストはそれを受け取って確認をして、うん、と頷く。
「ありがとう。良い仕事だ。これが報酬だ」
そう言って男性に差し出した金額は、およそ人一人の過去や現状を探っただけだとは思えないものだった。彼は驚いて「こんなにはいただけません」と返そうとしたが、アウグストは静かに首を横に振った。
「それを支払ってもいいほど、わたしの人生を変えることになるのでな。感謝の気持ちだ」
その言葉を聞いて「ありがとうございます」と彼は受け取ったのだった。
アメリアの乳母だった人物は、ヒルシュ家から追い出されてからは、そこから離れて自分の故郷で暮らしていた。アウグストにとって幸運なことに、彼女の故郷は彼の領地に隣接をしている他の伯爵領地にあった。もちろん、そのことをアメリアも知ることはなかっただろう。
「突然の訪問、不躾なことと思うがお許し願いたい。あなたが、アメリア・ヒルシュの乳母だったコリンヌという女性で間違いはないだろうか」
「はい。一体あなたは……?」
アウグストが尋ねたのは小さな村の、小さな家。調査員からのメモには、彼女は夫と子供と暮らしていると書かれていた。40才前後に見える彼女は、健康そうな肌艶があるものの、少し瘦せすぎているとアウグストは内心思った。
コリンヌはいぶかしげに彼を見ていたが、アメリアの名を出せば目を瞬いて驚きの表情を見せる。
「アメリア様が何か……?」
「わたしは、アウグスト・バルツァーと言う。そして、アメリアはわたしの妻だ。あなたに、彼女の過去を教えて欲しくて、ここまで来た」
「あ……アメリア様の……? よろしければ、中にどうぞ」
驚きつつも、家の中にアウグストを案内するコリンヌ。どうやら、彼女の家族は留守のようだった。
出入り口を入れば、すぐに目の前にテーブルと椅子が並んでいる。そう裕福な家庭ではなさそうだったが、かといって貧乏というわけでもない。こ綺麗で清潔感はあるが、ただただ狭い。しかし、どことなく「幸せ」な空気を彼は感じた。それは、彼の商人としての勘のようなものかもしれない。
「そんなに簡単にわたしを入れて良いのか」
「何も悪いことはございません。そもそも、アメリア様の名前をご存じでいらっしゃるだけで、きっと、あなた様の奥方になったということは本当なのだと思いますから」
「……確かにな」
「そして、お見受けしたところ、あなた様には財力がおありのご様子。であれば、きっと旦那様が金に目がくらみ、あなた様にお嬢様を嫁がせたのでしょう」
その言葉には間違いがない。だが、それは特に推理力が必要な事象でもなかった。ただ「それ以外にない」から導き出された答え。たったそれだけのことなのだ。
「わたしがあなたにお嬢様のことをお話することで、あなたはお嬢様をどうなさろうとお思いなのでしょうか」
そう尋ねながら、コリンヌはアウグストに椅子を勧める。彼は座りながら
「わたしは、ただ真実を知りたいだけなのだ。ヒルシュ子爵でもなく、アメリア自身でもない、第三者の言葉がわたしには必要だと思えた。彼女は父親に言われてわたしの元へ嫁いだが……わたしは、彼女がどのような人物であるのかを、見失ってしまっている」
「とはいえ、わたしがお嬢様にお仕えしていたのは随分前のことですから……」
「それでもいい。過去の彼女の様子も知りたいのだ。ヒルシュ子爵が、彼女をどのように扱っていたのか、あの家の中でどのような立場で彼女が生きていたのか、あなたの口から聞かせてもらえないだろうか」
「……」
コリンヌは黙ってアウグストに背を向け、カチャカチャと茶器を用意する。室内にある小さなかまどには火がずっとついているようで、すぐに熱い湯をつかって茶を入れることが出来るようだった。
それを視界の隅に入れつつも、アウグストはテーブルの上に置かれているものに意識がいってしまう。それは、編みかけのレース編みのモチーフだ。
「これは、あなたが?」
「ええ。その、そこまで得意なわけではないのですが……」
そう言いながら、コリンヌは彼の前に茶を出す。「上等な茶ではございませんので、お口にあわないかもしれません」と言いながら。
「昔、よくお嬢様のドレスの裾に、レースで編んだモチーフをぐるりと繋げて差し上げておりました。お嬢様は……新しいドレスも、買い与えていただけなかったので……わたしのような使用人が手に入れることが出来るような糸でしたので、貴族の方々のような上質なものではなかったのですが」
「……やはり、そうだったのか。あなたがアメリアのもとにいた頃から、既にそのような扱いをされていたのだな」
「お嬢様はご家族と同じ食卓につくことも許されず、パンとスープだけで暮らしていました。そんな状態では、身長も伸びやしません。それでも、ほんの少しずつ大きくなっていけば、わずかではありますがドレスの丈が足りなくもなります。ですが、旦那様は『誰に見せるわけでもないのに、何故そんなことを気にするのか』とおっしゃって……」
コリンヌの言葉がかすかに震える。やがて、彼女はアウグストの向かいに座って、真剣な表情で彼に訴えた。
「バルツァー様。お嬢様は、多くのことを求めず、ただ生きているだけ、それ以外何もないようなお方です。何も求めず、何も期待しない。ですが、わたしが編んだレース編みを見て、いつも喜んでくださっていました。あなた様のところへ嫁がれたお嬢様は、幸せに暮らしていらっしゃるのでしょうか。笑っていらっしゃるのでしょうか」
コリンヌのその言葉に、すぐに答えを返すことがアウグストには出来なかった。多分、彼女は幸せだったのだと、バルツァー邸に来てから、よく笑えるようになったのだと、そう伝えられれば良かったのに。
「バルツァー様」
もう一度、コリンヌは彼の名を呼んだ。彼は、深いため息をついてから
「今は、その言葉に答えることができない。だが……」
目の前に出された茶の熱さを気にせずに一気に飲み、ティーカップをソーサーの上に戻す。
「次は、ここに、彼女と来れたらいいとは思う。ありがとう」
そう言って、アウグストは立ち上がった。コリンヌは驚いた表情で「まあ……! 本当ですか……それは、とても嬉しいことですね」と言いながら、かすかに涙ぐんでいた。アウグストは彼女の気持ちを読み取ることは出来なかったが、きっと彼女はアメリアのことを愛してくれていたのだろう、と思うのだった。




