13.届かぬ心
「え……っ?」
その晩、アメリアの部屋にやってきたディルクとリーゼは、彼女にとって思いもよらないことを告げた。
「わたしに……実家に戻れと……?」
「大変申し訳ございません……侯爵様がそうおっしゃっておりまして……」
「どうしてですか?」
「それが、我々にもわからないのです。その、侯爵様がおっしゃるには……婚姻を結んだので、それは破棄せずその状態のままでいると。そして、生活をするのに十分な金銭を支払うと。ですが、アメリア様と同じ邸宅にいることが苦痛とのことで……それで……ヒルシュ子爵邸にお戻りになって欲しいと……」
そのディルクからの言葉で、アメリアはぐらぐらと脳が揺れたようになる。一体どうして……何故……何度も考えるが、何故なのかがわからない。
「で、ですが……わたし……アウグスト様から直接聞かなければ……それを受け入れることは出来ません……!」
なんとか絞り出した言葉は語気が強い。そのことにアメリアは自分で驚き、困惑の表情をディルクとリーゼに向けた。そして、それを言われた2人も「アメリア様がそんな声をあげるなんて」と驚いたようで、目を見開いている。
「アメリア様」
「あっ、あ、わたし……ごめんなさい……そのっ……」
「ひとまず、今晩はお休みください。明日になれば侯爵様も何かお考えを変えてくださるかもしれません」
そう言ってディルクとリーゼは悲し気な表情を見せる。アメリアは、一体何が起きたのかと呆然としながら「わかりました」と答えるしかなかった。
深夜、アメリアは庭園のベンチで一人座っていた。そのベンチは、渡り廊下から庭園に出る際に靴を履き替えるための場所のようだったが、今は誰も使っていない。
あれから、アメリアはうまく眠れず、切れ切れの睡眠をわずかにとった。体は少しだるいが、それでも深い睡眠につくことがどうにも出来ない。
明日になったら、とディルクとリーゼは言ったが、もしかしたら朝早くにアウグストはまた仕事に行ってしまう可能性だってある。そう考え、アメリアは静かにそこで待っていた。彼が、執務室にも私室にも戻っていないことは確認が取れている。
(ああ、少し寒いわ……)
肩にかけたショールに手を触れる。あの、雨に濡れた日のことを思い出すと、嬉しさと悲しさが両方心に押し寄せて来て、どうにかなりそうだ。
(わたし……もしかして……アウグスト様のことを……)
好きなのかもしれない。それを、こんな形で知るなんて、自分はどれほど間抜けなのかとアメリアは思う。だが、反面「ここを出て行きたくないから、そんな風に思い込んでいるのかもしれない」と思う自分もいる。彼女の心の中はもうぐちゃぐちゃで、何が己の感情なのかすらよく理解を出来ていない。
どれぐらい時間が経過をしたのだろう。もう部屋に戻ろうか、と彼女が腰をあげた時、足音が近づいて来た。アウグストだ。しかし、その足取りはたどたどしく、どうやら彼は酒を大量に飲んだ後のようだった。
「アウグスト……」
見れば、少しばかり目が据わっている。アメリアは少し戸惑ったが、彼の元に静かに近づいた。アウグストも彼女に気付いたようで、渡り廊下の壁にとん、と肩をついてもたれかかる。
「どうした。明日、ここを出てもらうのに、まだ起きているのか」
「わたし……わたしが、何か、したのでしょうか……?」
「いや、別に君が何をしたわけではない。ただ、我々の婚礼は君の父親が仕組んだものだったのだしな……」
酒臭い、とアメリアは顔をしかめる。
「もう、婚姻はしたことだしな。だからといって、君がここにいる必要もないだろう。さっさとヒルシュ子爵家に帰るといい」
「ですが、わたしは……その……」
あなたの妻です。その言葉が出ずに、アメリアは目を伏せた。
「君も、結局はわたしの財が目当てだったんだろう? ヒルシュ子爵との会話を聞いた。ならば、君がここにいて君ひとりを養うよりも、ヒルシュ子爵家にいてわたしからの金を受け取る方が良いだろう」
「えっ……?」
「違うか?」
「ち、違います! わたし……わたしはっ、そんなことのために……」
そんなことのためにここに来たわけではない。そうはっきり言いたかったのに、アメリアの心は揺れる。違うと言い切れるのか。そう考えれば、彼女は断言を出来なかった。
アウグストは「はは」と力なく笑う。
「ああ、そうだ。その言葉をきっとわたしは聞きたかったんだ。そして、そうしたら、わたしも君を信じられるのだと思っていた……なのに、なんてことだ。本当に、わたしは……」
「えっ?」
「君が、ヒルシュ子爵の元で虐げられていたのだろうことは察しがついてはいた。体は細く、食事もほとんどしない。貴族らしいこともうまく出来ない。だが、それでもあの男に飼われていて、そして、言うことを聞いていたのだろう? そう思えば、仕方なく君がここに来たのだろうとは予想がつく。だが……」
彼は、壁に背をもたれ、目線を自分の足先にやる。
「そんなわかりきったことなのに、今のわたしにはどうにも信じられないんだ。わたしの方こそ、金の力で君を手に入れたのだし、今更何を言うのかと思われるかもしれんが……」
そこで彼は言葉を切った。アメリアは、どうしてそこまでわかっているのに、今更ヒルシュ子爵家に帰れと言うのか、と呆然とする。しかし、だからといって、自分に「ここにいたい」と言う資格があるのかと思えば、それは否だ。
(だって、わたしはアウグスト様をたばかって結婚をするために来たんですもの……)
言葉は悪いが、それは事実だ。ここで「でも自分はあなたの妻だ」と主張を出来ればどれほど良かったか。けれど、彼女にはそれが出来なかった。
(ああ、なんてことなの……なんて……)
どれほど自分たちは不自由なのかと、アメリアは心の中で呪った。あんな出会い方をしなければよかったのに。だが、あんな出会い方でなければ、自分たちはきっと巡り合わなかったのだろうとも思う。それでも、何かを言わなければ……そう思っても、浮かんだ言葉はなんだか薄っぺらな己の擁護のように思え、うまく発することが出来ない。
「アメリア」
「はい……」
「君が不自由しない程度の金は出す。そうすれば、ヒルシュ家でもそう悪くない生活が君も出来るだろう。君の父親も、あれこれとこっちに文句をつけて来ないだろうし、それで良いはずだ。勿論、結婚した以上子供は必要だが、それは今でなくてもいい。少し……少しだけ、君と離れたい。わたしの我儘だが、聞いて欲しい」
「!」
それだけ言うと、アウグストはふらりと歩き出した。よろける彼の体を支えようとアメリアが手を伸ばしたが、彼は軽くその手を大きな手のひらで止めた。
「いい。一人で歩ける」
「でも……」
「いい、と言ってるだろう!」
「っ!」
声を荒げられ、アメリアはびくりと体を震わせた。アウグストはそれに気づき
「……すまない。怯えさせたな」
とだけ謝り、ふらふらと歩いて行った。アメリアは、その背に「おやすみ」ということが出来ず、ただ、彼が暗闇に消えていくまで、そこで立ち尽くす。
「アウグスト……」
わたしの我儘だが、聞いて欲しい。その言葉を聞いて、アメリアはもう何も言えなくなる。彼がそんな風に言うなんて。
彼の言葉は嘆願だ。一体何故そこまで思い詰めているのかをアメリアはわからなかったが、彼は自分に「頼んで」いる。そのことに驚いた。
それなら。アメリアは唇をきゅっと引き結ぶ。
(彼がわたしにそんな風に頼むなんて……)
ならば、自分はそれを聞き届けるしかないではないか。
「ずるいです……アウグスト様……」
自分が彼のために出来ることが、たったこれだけのことだなんて。アメリアは唇を噛み締め、瞳を閉じた。じわりと涙が浮かび上がったが、彼女はそれをぐいと手の甲で払い、ヒルシュ子爵家に戻ることを決めた。
(ああ、彼女を怯えさせてしまった……)
アウグストは私室に戻ると、服を着替えずそのままベッドに倒れこんだ。とんでもなく酒を飲んだ。お披露目会で集まった商人たちのうちの数人が、彼をこんな時間まで招いて祝ってくれた。とはいえ、その祝いでの話の半分は、今日のお披露目会で得た情報交換や、そこで出来た取引のこと。
だが、それ以外の半分は、純粋にアウグストの結婚を祝っての酒宴となった。アウグストはアメリアのことを忘れようと酒を浴びるように飲み、人々からは「こんなに酒を飲むなんて、余程良い結婚だったのだろう」とからかわれた。そして、更にそれを忘れるように飲んで、この始末だ。
(馬鹿だ。わかっているはずなのに。ヒルシュ子爵が勝手に話していただけで、彼女は……)
何度も繰り返した問いを、もう一度酔っ払った頭で繰り返す。酔っていたって、結論は同じだ。彼女は、違う。
わかっているはずなのに、あれから時間が経過をしても、未だにそれを信じられない。そればかりはどうしようもない。自分が過去にここまで囚われていたのかと、彼は呆然とする。
「情けない……!」
そう呟いて、ぎりぎりと歯を噛み締める。自分はもうこれ以上女性相手に傷つきたくないと思う。結婚をしようと思ったのがそもそも間違いだったのだ。女性と共に暮らすことなぞ……そんな、どうしようもないことがぐるぐると脳裏を渦巻く。
けれど、こんな状態でアメリアに会えば、彼女を嫌ってしまいそうだ。それを彼は一番恐れた。
(さっきも、声を荒げてしまった。あんな……)
あんな、悲しそうな表情を彼女にさせた自分のことも許せない。もう、どうすればよいのかを誰かに大声で尋ねたいとすら思う。
(きちんと……きちんとヒルシュ子爵家について調べよう。そうすれば、きっとアメリアがどんな気持ちでここに来たのかがわかるはずだ。それから、すべてを彼女に打ち明けて……)
打ち明ける? 何をだ? アウグストは自分の考えに愕然とした。
「馬鹿な」
自分の過去を? それを何故アメリアに話さなければいけないのか。そもそも彼女を今の自分は信じていないのに……。
ぐるぐると脳内を思いが廻るが、それは何の解決も彼にもたらさなかった。ただ、こんな状況で彼女に会えば、冷たくしてしまう。疎んじてしまう。そして、それをしてしまう自分のことも嫌になり、最後にはもう彼女を手放してしまおうと強引なことをする予感があった。
彼は、そうやって生きて来た。まるで金ですべてを解決するかのように、面倒なことは斬り捨てて来た。そうしなければ、バルツァー侯爵家の借金は返せなかったし、領地経営だって最初はままならなかったからだ。それを彼は悪いとは思っていない。
(わかっている。ヒルシュ家に戻ることは、彼女にとって苦痛だということは。だが、それでも……)
もし、彼がアメリアを領地内の別荘のどこかに追いやったら。きっとそのままこの先、それが当たり前のように過ごしてしまうに違いない。自分の妻が別荘にいる。それには何の不自然さもない。そして、彼はそのまま心を閉ざしてしまえばそれで終わり。金を積んでまで欲しかった血統だというのに、子供も産まないまま、彼女はその別荘で一生を終えることだろう。今までのアウグストならば、きっとそうしていた。
けれども、彼はアメリアを信じたいと思っている。だからこそ「戻って来てもらわなければいけない」状況を作ろうとしているのだ。それが、彼女にとって酷なことだとはわかっている。だからこそ、彼はアメリアがヒルシュ家から邪険に扱われないようにと、多くの金を出すことを決意した。それに、彼女がカミラの結婚式でどう扱われるのかも、彼は知りたかった。ずるい話、酷い話だとも自覚をしている。けれど、そうまでしなければ、彼の心の中に生まれた疑心暗鬼の塊は溶けることもなく、わだかまり続けてしまうのだろう。
けれども。
「くそっ……」
逆に言えば、そうまでしなければいけないほどに自分はアメリアを失いたくないのだ。その思いは、彼の心を更に苛み、矛盾をはらんだ自分の心を嫌と言うほど叱責する。なんと自分は脆弱で、矮小な器しか持たないのだろうか。情けない。だが、叱責をしても、今はどうにもならないのだった。




