第九十七話 御曹司、出現する
「いったいどういうことですのっ!」
その日、シスル・コーポレーションは、芙蓉めぐみによる奇襲を受けていた。ファッションブランド〝MiZUNO〟の社長にして、天下に名だたる角紅商事の御令嬢である。突き詰めれば単なるオタク集団に過ぎないシスルの社員は、感情の昂りから鬼神と化した芙蓉を止める術を持たず、右往左往するばかりであった。
厄日だな。
部屋の片隅でキーを叩いていた江戸川は、極力こちらに飛び火がないよう身を縮こませていた。もっとも、東京への再度出張を命じられてから、厄日でなかった日など一日もないのだが。シスル本社の駐車場前にあったダイドードリンコの自販機が撤去されていたのも、彼の哀しみに拍車をかけていた。
芙蓉の怒りの原因は、石蕗一朗の逮捕にある。今朝のニュースを見て、やはりこうなったか、というのが江戸川の感想であった。十賢者システムに対する不正アクセスの痕跡を発見したのが一週間前。その後、調べていくうちに、十賢者の手によってシステムサーバーに巧妙なバックドアが仕込まれていることも明らかになった。結果として、江戸川たちが丹精込めて作り上げたアイアス・システムを突破する形で、サーバーに対して直接の不正アクセスが行われてしまっている。情報の火消しやら修復やら、シスルの社員もてんやわんやだ。
シスルにはもともと多少の隠蔽体質はあったが、バックにポニー社がついたことで、それがより巧妙になったな、と江戸川は思う。あざみ社長は半ば傀儡と化している。著莪弁護士はそれなりに尽力してくれたようだが、この件についても、やはりこうなったか、というのが正直な感想ではあった。
「わ、我々としても石蕗さんが不正アクセスを行ったとは思っていないんですが……」
「じゃあなんで一朗さんが逮捕されてるのかしら!? 納得いく説明を要求しますわ!」
冤罪だろうなとは江戸川も思う。彼は石蕗一朗が嫌いだったが、嫌いなりに彼の人間性は把握している。何より、不正アクセスの痕跡が残る8月初頭は、共にアカウントハック事件を追いその真相に迫った。だからこそ、おおよその想像もつく。
犯人はローズマリーだ。
アカウントハック事件の原因となった〝不良プログラム〟は、公には処分されたことになっている。ポニー社にもそのように通達していたはずだ。ゆえに、今回の件、真相が明るみになるのはかなり危ない。シスルにとっても、ローズマリーにとってもだ。石蕗一朗もそのあたりは理解しているのか、逮捕後もローズマリーの存在をもって自らの無罪を証明しよう、という動きは見られない。
しかしこれは、八方塞がりだろう。江戸川の表情は渋い。
石蕗一朗は、自らの潔白を証明するためには、ローズマリーの存在を公にせざるを得ない。彼がそれを容認するとは思えないが、シスルの立場やローズマリーを重んじた場合、彼は無実の罪で立件されることになってしまう。事実として不正アクセスは発生しているのだ。それをなかったことにはできない。
誰かが罪を背負わなければならない。順当に考えるならば、責任の所在はローズマリーに問うべきだが、現行法では彼女を裁くことはできない。この一点だけが、事態をややこしくしている。
「とにかく! わたくしはなんで一朗さんが……」
と、芙蓉があざみ社長にさらなる追撃を加えようとしたときであった。
「あのー」
ラズベリー氏が、控えめな声で横槍を入れる。ギロリと睨みつける芙蓉の視線に怯まないのは、もうシスル社内ではラズベリー氏くらいなものだ。
「実は、お客様が」
「そ、そうですか」
あざみ社長は、ようやくホッとしたような声を出す。鬱憤が溜まるのは芙蓉の方であるが、さすがにここで待たせておけと言えるほど、彼女も傍若無人ではなかった。
しかし、このタイミングで来客とは。いったい誰なのだろう。そう思っていた江戸川の耳に、なにやら上機嫌な声が届いた。なんと言っても透き通るような美声である。見なくてもわかった。江戸川の席からは、ぽかんとした表情のあざみ社長と芙蓉が丸見えであった。
「やぁ、あざみ社長。めぐみさんも来ているとは思わなかったよ。元気そうで何よりだ」
厄日だな。
それも人生で一番の。江戸川は、厄介がこちらに飛び火しないよう、なおさら身を縮こませてキーを叩き続けた。
一朗とあいりを乗せたケーニッグセグ・アゲーラは駐車場に入り、その横に後ろから追いかけてきた著莪のベスパが停まる。黒いスーツにソフト帽、ひょろ長い著莪が白いスクーターにまたがる姿は、思ったよりもサマになっていて、著莪は『あのドラマみたいだろ?』と言っていたが、あいりにはあのドラマがどのドラマかわからなかった。
「ところで著莪、あの趣味の悪いベンツはどうしたんだい」
「車検に引っかかった」
「こまめにメンテナンスしないからだよ」
シスル・コーポレーションの本社は神保町にある。古書とカレーの町というくらいしか、あいりに知識はなかった。
普段自分が遊んでいるゲームを、作っている会社だ。そう思うと、何やら妙な心地になる。わくわくする、というのとも少し違う。いつも楽しく遊んでいます、くらい、言ったほうがいいのかしら。あいりは話しかけられた際の挨拶の文面を考えつつ、一朗と著莪についていった。
思っていたよりもだいぶこじんまりとしたビルである。1階に設置された電話器で取り次いでもらい、その後、階段で2階に上がる。当然、右も左もわからないので、あいりはキョロキョロしっぱなしであった。
一朗がオフィスのドアに手をかける直前、中から何か激しく言い合う声が聞こえてきた。
「おや」
一朗が呟く。
聞き慣れた声だな、とはあいりも思った。それが誰なのかも、すぐにわかる。
「芙蓉さんだわ」
「意外なところに意外な人がいるものだ」
「ふようって誰? ホウエンの四天王?」
すっとぼけた声でわけのわからないことを言う著莪はさておこう。
なんでこんなところに芙蓉さんが、という困惑と同時に、あいりにはまぁ当然か、という思いがあった。あの芙蓉が、石蕗一朗逮捕のニュースになんらアクションを起こさないはずがないのである。おそらく通報したであろうと思われるシスル本社に乗り込み、直談判を行うあたりが、後先考えない彼女らしいというか、なんというか。後先考えずに警察に乗り込んだあいりは、何やら味わい深い顔で頷いていた。
ひとまず、一朗は扉を開ける。
「やぁ、あざみ社長。めぐみさんも来ているとは思わなかったよ。元気そうで何よりだ」
オフィスにいる全員の視線が、一朗に注がれた。あいりは冷静に分析する。あっけにとられているものが3割、『なんでこいつも来たんだよ』という顔をしているのが3割、『やっぱり来たのかよ』という顔をしているものが3割。歓迎している顔は皆無だった。部屋の隅で一人だけ、顔すら上げずに仕事をしている者も1人いる。
「い、一朗さん……」
あざみ社長と呼ばれたスーツ姿の女性が、ひくついた笑顔でそう応じた。とても〝社長〟には見えない、ずいぶん若いひとだ。たぶん、芙蓉よりもあいりの方に年齢が近い。
「よう、あざみ社長。連れてきちゃったぜ」
あいりの後ろから、著莪も顔を覗き込ませて言った。これは、自分も挨拶したほうが良いのだろうか、と考えていたところ、やはり目を丸くしていた芙蓉も、口を開いた。
「一朗さんと……アイリスさんじゃありませんの。どうしましたの? こんなところに」
「はっ?」
思わず顔を上げてしまう。
「めぐみさんも、よくひと目で気づくなぁ。さすがだね」
「わたくしが一朗さんのお顔を見間違えると思いまして?」
「いや、僕の方じゃなくてね」
ナチュラルに自分がアイリスだと言い当てられるとは思っていなかった。それと気づくようなものでも身に付けていただろうか? 顔も髪型もまったく違うし、シックなコートをメインにしたアイリスとは違って、あいりの装いは実にカジュアルなパステルカラーだ。
「あっ、わ、わたくし、少しお席を外させていただきますわ」
それをたずねようとする前に、急に何かを思い出した芙蓉がそそくさと脇をすり抜け、オフィスを出ていく。
「何しに行ったのかしら」
「化粧直しじゃない」
「わかっててあの態度か。相変わらずお前は鬼畜だな」
芙蓉の背中を見送り、ひとしきり好き放題言ってから、3人は改めてあざみ社長に向き直った。
「一朗さん、著莪さん……あと、えっと……」
「あ、杜若あいりデス。毎日楽しんで遊ばせてもらってマス」
「あ、はい。ありがとうございます……」
あざみ社長は小さく笑った。少し無理のある笑い方のように見えた。一朗も言う。
「あざみ社長、元から細かったけど、少し痩せたね」
「えぇ、いろいろありますので……」
こんな精神状態が不安定そうな人と、御曹司をまともに会話させるわけにはいかないわ。あいりは妙な使命感をもって、いざともなれば余計な横槍を叩き込む覚悟を決めた。著莪弁護士は役に立つのか立たないのか、いまいちよくわからないし。
さて、一朗とあざみ社長はしばらく言葉を交わし、互いの情報を交換していた。こちらから話す内容に関しては知っていたことばかりなので省く。あちらが話してきた内容も、著莪弁護士が知っている以上のことはほとんどなかった。この野々あざみ社長自身、状況を完全に把握しているわけではないというのがわかる。
話が事件の真相に及ぶと、あざみ社長は真剣な顔をして目を伏せた。
「そうですか。やはりローズマリーが……」
「うん、彼女を自我に目覚めさせたのは僕だし、責任をまったく感じないわけじゃないんだけど、」
「あんた今サラッとすごいこと言ったわね」
「ナンセンスナンセンス。僕はいつでもすごいよ」
どうせその人工知能にも今みたいなことを喋りまくったのだろう。それは確かに、教育者が悪かったという他はないが。
「一朗さん、先ほど、ローズマリーはあなたのご自宅にいらっしゃると伺いましたが」
「うん。たぶん、間違いないかな。うちの使用人を閉じ込めて、何か考えているらしいけど。今のところ使用人の方に実害はないにしても、ちょっぴり愉快な話ではないと思っている」
「どーせ嫉妬かなんかなんじゃないの?」
あいりがボソッと言うと、あざみ社長と一朗は同時に彼女を見た。
「そうかもしれない」
「認めちゃうのね」
「ただのプログラムが嫉妬するところまできたというなら、それは純粋に喜ぶことではあるんですけど……」
嫉妬と言えば、芙蓉さんがこの場に戻ってきたら話題の展開に困るな、とも思う。どうしても一朗の家で働いている、〝桜子さん〟について触れなければならなくなるし。純粋にローズマリーの一件に関しても、芙蓉めぐみがどう思うやら。
「そう言えば、桜子さんはいま、ゲームにログインしている? 連絡とりたいんだけど」
「携帯持ってないの?」
「僕の部屋、セキュリティを完全起動させると携帯の電波を遮断しちゃうんだよね」
なんでそんな厄介な作りなのよ、とはもう突っ込まなかった。妙に難しい顔で頷く著莪を見れば理由に察しはつく。窓ガラスにロケットランチャーをぶち込んでも壊れない理由に関してもだが。
「いま、調べてみますね」
あざみ社長はそう言って、自分のパソコンの方へと向かった。
10/19
脱字を訂正
× 話しかけらた際
○ 話しかけられた際




